彼女の幸せ
翌日の午前、リリンスは父に呼び出された。
七日ぶりに部屋から出ることを許され、何の用件かといささか訝しみながらも、十六歳の少女は回廊で大きく伸びをした。緑と土の匂いが実に心地よかった。
謹慎期間中、さすがにずっと反省ばかりはしていられなかった。
もちろん自分の悪かった点、至らなかった点とは向き合ったつもりだが、同じことばかり考え続けるのはリリンスにとって三日が限界だった。ある意味、非常に健康な精神状態と言える。
前向きにいこう――異国へ嫁いで王女の責任を果たすのと引き換えに、ここでいられる間は、せいぜい伸びやかに過ごすのだ。
リリンスはそう開き直って、頬に当たる暖かな日差しに目を閉じた。その胸元には小さな赤い石が揺れている。
「さ、どこへでも連れて行ってちょうだい!」
迎えに来た国王侍従がびっくりするくらい元気よく言って、安堵の苦笑を浮かべる侍女たちとともに、彼女は国王の元へ向かった。
中庭にある東屋のひとつで、父娘は七日ぶりに対面した。
この時刻にセファイドの身体が空いているのは珍しい。自分に会うために執務時間の都合をつけたのだと分かり、リリンスは少し緊張した。
「お久し振りです、お父様」
「息災でよかった。座れ」
円形の小さな東屋である。床は回廊と同じく黒い石でできているが、柱と屋根は木製だった。壁がないので風通しがよく、植栽を通して日光が柔らかく降り注いでいた。耳を澄ますと小鳥の囀りが聞こえて、実に長閑な雰囲気だ。
小さな円卓の前に木製の長椅子が設えられていて、ふんわりした敷物が掛けられている。リリンスはセファイドの隣に腰を下ろした。
リリンスは昔からこの場所がお気に入りだった。いつだったかここで独りで眠ってしまって、大騒ぎした侍女たちに探されたことがある。
彼女はふと、昔の記憶を手繰った。
花の季節で、屋根から垂れ下がった蔓に真っ白な花がふさふさとついていた。あの時自分は泣いていて――たぶん王宮に来てすぐのことだろう。寂しくてここで独りで泣いていて、そのまま眠ってしまった。見付けてくれたのは、アノルトだった。ほっとした兄の顔と、励ましてくれた優しい言葉をよく覚えていた。
「おまえの嘆願書、受け取ったよ」
セファイドは足を組み変えながら切り出した。つい懐かしさに浸っていたリリンスは我に返る。
「あの窃盗団の恩赦を求める内容だったが、本気か?」
「はい、死罪はどう考えても重すぎます」
リリンスは、自分を襲った男たちの行為が王族に対する暗殺未遂罪と見なされ、極刑に処されると聞いて、すぐに正式な嘆願書を書いた。彼らは王女と知って危害を加えたわけではなく、また、勝手に市中を出歩いた自分にも非があると。
「暗殺未遂なんて大層なものではなく、あれはただの殺人未遂です」
「ただの、な」
彼女の言い回しが面白かったらしく、セファイドは少し笑った。それだって十分物騒だろうに。
リリンスは真剣な眼差しで眉間に皺を寄せて、
「あのまま憲兵が来なくて……もしナタレとフツが私を守って彼らを殺害していたら……それはそれで仕方がなかったと思います。同情はしません。他人の命を奪おうとした以上、逆をやられても文句は言えないでしょう?」
などと辛辣な台詞を吐く。
「でも、本来私はあの場にいるべき人間ではなかった。殺意があったとはいえ、私を王女と知らなかった以上、暗殺とは言えないと思います。法に照らすのならば、適正な罪状で裁かれるべきです」
「返り討ちに会うのは仕方ないが、法が介入する以上は過剰な罰を与えるなということか。もっともだな」
セファイドは顎を撫でて息をついた。
それに、リリンスは思うのだ。一旗揚げようと王都にやって来て、そのままゴロツキになってしまった若者たち――そういった人間を生み出し、野放しにし、取り締まれなかった責は権力の側にもある。自分たちが本当にすべきは、事後の処罰ではなく、そもそも罪を犯させないことではないかと。
「あの者たちの鼻と耳を削いで、舌を引き抜いて、手足を一本ずつ叩き潰して、鋸で少しずつ首を斬って……久々に派手な処刑が見られると楽しみにしてたのに」
「お父様……趣味が悪いわ」
「王女の名前での恩赦としよう。減刑については刑部大臣と相談しておく」
本当にやるかどうかは別として、残酷な刑罰を想像して顔をしかめたリリンスであったが、自分の嘆願が意外とあっさりと受理されたと知ると、気が抜けたように息を吐いた。
この七日間ずっと心に引っ掛かっていたことである。自分は王宮の奥に匿われて、知らない所で加害者たちが処分されてしまうのは嫌だった。
どの程度の罰が下されるのかは分からないがとにかく死刑は回避できたようで、彼女の胸の閊えが少し取れた。
「で? だいぶ反省したか?」
セファイドがそう訊くと、リリンスは慌てた素振りで大きく肯いた。先ほどの話題で自分が謹慎中であることなど忘れてしまっていたようだ。いちおう殊勝に畏まって、
「はい! それはもう! 深く反省しました。もう二度とあのような真似は致しません」
「調子のいい奴め。まあ、落ち込んでいるよりずっとましか」
セファイドに額をこつんと小突かれて、リリンスは笑顔になった。
「じゃあ謹慎処分は解除ってことで、ね?」
「そのつもりだ。あまり長く閉じ込めておくと、おまえはまた逃げ出してしまうからな」
「やった」
両の拳を握りしめて、彼女は素直に喜ぶ。感情の移ろいの分かりやすい娘だった。
時として信じられぬほどませた口を利くのに、こういう時のリリンスは実年齢よりもずっと幼く見えた。
そんな娘の様子を、セファイドは穏やかに眺める。唯一手元に残った娘に対する、紛れもない慈愛とわずかな懐かしさの籠った眼差しだった。
年々リリンスは母親に似てくる――顔立ちはもちろんのこと、表情や話し方の端々に驚くほど近い面影を感じさせる。懐古の念を通り越して、セファイドはしばしば驚愕するのだった。
彼を惹きつけ翻弄し、最後まで妻に収まることを拒んだ女が遺した娘である。
「ご用はそれだけですか?」
セファイドの複雑な胸中など知らぬげに、リリンスは屈託なく尋ねた。セファイドは軽く頭を振って、気持ちを切り替えた。これから大事な話をしなければならないのだ。
「アートディアス皇室から書状が届いた」
彼はおもむろに円卓へ手を伸ばし、その上にあった藤製の箱を開けた。中には数枚の書面が入っている。書かれている文字はオドナスのものではない。
「内容は……おまえと皇太子の婚約についてだ」
「正式なお申し込みでしょうか?」
さすがに緊張の面持ちで眉根を寄せるリリンスに、セファイドは首を振った。
「いや、まだ打診の段階だが、これが最終的な意思確認になる。承諾の回答を返せば、まあ、内定だな。年明け早々に正式な使者が皇帝の親書を携えてやって来るだろう」
「そうなれば、来年の今頃には輿入れですね」
「どうする?」
「どうするって、お父様」
リリンスは呆れたような声を上げた。
「もちろん承諾して下さい。前々から決めていたことではありませんか」
「俺は別に、決めたと言った覚えはないよ。おまえの正直な気持ちが聞きたい」
「行きます、私。異存はありません」
即答する娘に、セファイドは軽く天を仰いだ。
「リリンス、あのな、こう言っては何だが、おまえは王宮の外で生まれた子だ。おまえの母さんは王妃ではなかった。だから……」
「私は計算に入ってないってことですよね」
政略婚の末に儲けた子ではないから手駒に入れなくてもいい――彼の意図を察したらしく、リリンスはくすりと笑った。珍しく言い淀む父親とは対照的に、何の動揺もない様子だ。
「お気を遣わないで下さい。私がアートディアスに嫁ぐのは、オドナスにとってもお父様にとっても望ましいことなんでしょう?」
「それは、そうだが」
「なら迷う必要はないわ。私だって八歳の時から王女として育てられて、自分の果たすべき責任は承知しています。そうじゃなければ、今までのんきに好き放題やってきた借りが返せません」
「おまえが好き放題遊んでいるようには思えないがな」
セファイドは、柱と柱の間から差し込んで来る日差しに目を細めた。眉間に皺を刻んだその表情は苦しげに見える。リリンスには横顔を向けたまま、
「俺が係わったことで……ミモネの人生は大きく変わってしまった。本来ならばもっと自由で平穏な人生を送れていたはずなのに。娘のおまえにまで同じ思いはさせたくないんだ。アートディアスとの外交ならば、他にいくらでも手はある」
そう、疲れの滲んだ声で言う。彼にして初めて吐露する本音であった。
リリンスは少しだけ黙って、肩にかかる髪の毛の先をいじった。セファイドがさらに何か言う前に、彼女は意を決したように首を振った。
「姉様たちはみんなお父様の命じた相手と結婚しました。私だけ差別しないで下さい。それに王族の務めを取り上げられたら……自分が何者なのか分からなくなってしまいます。お母さんがいなくなって私の居場所はここにしかないのに……今さら放り出さないで」
リリンスはあくまでも穏やかに微笑みながら、しかしその黒い瞳は真摯にきらめいていた。
セファイドは彼女に向き直り、正面から見詰める。生命力に溢れているのにどこか危うい輝き――そんなところまで母親に似ていた。
木々の葉を揺らして、涼しい微風が父娘の間を擦り抜ける。
「……そうだな、無責任なことを言ってしまった。何も知らないおまえを王宮に連れ帰ったのは俺なのに」
セファイドの手がリリンスの髪を撫でた。この娘の中に、かくも硬い覚悟が生まれたのはいつからなのだろうと思う。気付いてはいた。しかしこうしていきなり突きつけられるとやはり、哀れだった。
「リリンス、おまえ、好きな男がいるのではないのか?」
唐突なセファイドの問いに、リリンスは怯まなかった。ただ、無意識に胸元の小さな首飾りを触っていた。
「いいえ、いません」
「本当か?」
「本当です。例えいたとしても、結婚とは関係ありません」
本心を偽る時は相手の目を真っ直ぐに見据える――その仕草は父から学んだものかもしれなかった。紛れもない自分との相違点を見出して、セファイドは苦笑した。
母親と面識のない人間はみな、リリンスは父親似だと口を揃えるのだ。
この娘は幸せにしてやりたい。日陰の身で早逝した母親の分まで、自由な人生を送らせてやりたい――そんな望みが自分の身勝手な価値観にすぎないと、セファイドにはよく分かっていた。リリンスは、国王の子としての責任に己の存在価値を見出している。それを取り上げられるのは、彼女にとって自身のすべてを否定されるのと同じなのだろう。
望めば、誰の元へなりと送り出してやるつもりだった。しかし、リリンスの幸せがそこにないのならば致し方ない。
「分かった。では、おまえには国の役に立ってもらうことにしよう」
「はい! 光栄です」
「後悔するなよ、リリンス」
セファイドはリリンスの華奢な肩に手を乗せた。
「後悔なんてしません。大丈夫、私は強いですから」
強がりというにはあまりにも自信に満ちた笑顔を見せる彼女の肩は、細く柔らかだった。
その肩を支える者はいるだろうか――セファイドの心は重かったが、娘をひとつの定められた道へ押し出そうと、彼はようやく腹を括った。
侍女たちとともに立ち去っていくリリンスの後ろ姿から視線を外して、セファイドは上瞼を指で揉んだ。
疲労感がじわじわと広がっていた。眠気にも似ている。
衰えたかな、と彼は最近頓にそう感じる。顕著に老いが表れているわけではない。衛兵相手の剣の鍛錬でも、動きが鈍って負けたことはない。ただ、以前には何でもなかったことが時折身体に堪えるのだった。深酒をした翌朝の目覚めや、会議中に長時間座り続けることや、濃い味付けの料理や、そういったごく些細なものが身体に負担になっているのが分かる。
年を取らない人間はいない。それは十分承知しているし、自分はまだまだ頑健な方だと自負している。本当に緩やかな、健康的な加齢なのだろう。だとしても。
「独りで抱え続けるのも、そろそろ限界かな」
セファイドは苦笑混じりに呟いた。
「あの子にお話はされましたの?」
囁くような声がして、薄い紫色の色彩がセファイドの視界に入った。
顔を上げると、タルーシアが東屋に入ってきたところだった。複雑な襞の入った紫色の衣装を身に着けた正妃は、華やかな美貌にどこか酷薄な笑みを浮かべていた。穏やかな風に金の耳飾りが揺れて、澄んだ音を立てた。
「……したよ」
勿体ぶることもなくあっさりと答える夫に、タルーシアは明らかな安堵の吐息を漏らした。
「そう。では早くアートディアスにご返答を。ずいぶん待たせてしまいました」
「分かっている。おまえ、何だか嬉しそうだな」
「嬉しいですわ、それはもちろん」
タルーシアはセファイドの隣へ腰を下ろした。
「ようやく母親の務めが終わるのですもの。やっと……楽になれます」
その口調に皮肉めいた響きはなかった。本心から出た言葉であろう。
セファイドは寄り添ってきた妻の肩に腕を回した。
「おまえには感謝している。リリンスを王族の娘として立派に育ててくれた。あの子の気品と利発さはおまえから受け継いだものだ」
「優しいお言葉だこと。私がどんな思いであの子を受け入れたか、十分知っていらっしゃるくせに。日々母親に似てくるあの子を、どんな目で見ているかも」
「ミモネと……会ったことがあるのか?」
硬い声で発せられた問いに、タルーシアの全身が強張った。一瞬の怒りのためだった。
「それもご存じのはずだわ。あなたは何もかも知っていて――何もしなかったのよ」
彼女は目を伏せた。濃い睫毛が小さく震えている。
「ずっと苦しかった。リリンスを愛おしいとは思います。でも慈しんでやらねばと意識すればするほど、気持ちが拒絶するのです。顔を見るのも辛かったわ。私は酷い継母ですわね」
諦めを含んだ彼女の本音を、セファイドは無言で受け止めた。もうずっと以前から、リリンスをここへ連れ帰った時から分かっていたことだった。分かっていて、彼は娘を妻に託したのだ。
タルーシアはすぐに顔を上げて、少女のように澄んだ笑みを見せた。
「けれど、それももうすぐおしまい。アートディアス皇室は申し分のない輿入れ先です。リリンスはきっと幸せになる……私の見えない所で。肩の荷が下りました」
「タルーシア、おまえは俺のかけがえのない女だ」
セファイドは彼女の肩を抱く手に力を籠めた。
「生涯それは変わらない。この先何があってもだ」
彼が滅多に口にしない、情緒的で強い言い回しだった。何かを詫びられているような、不吉な空気を感じて、タルーシアは怪訝な顔をした。
「セファイド? 何を考えているの?」
「酷い父親は俺の方だよ」
他でもない自分自身へ向けて嫌悪の呟きを漏らす。タルーシアが再度真意を問う前に、セファイドは彼女の身体を引き寄せて、唇を塞いだ。
少し強引な、しかし優しい口づけは馴染みのあるもので、タルーシアは気持ちが解れるのを感じながら目を閉じた。それが妻を宥めるずるいやり口だと分かり切ってはいても、彼の愛情には違いなかった。
丁寧に唇を味わった後、彼女を膝に抱えるようにして、その首筋や胸元に指を這わす。手入れされた肌には年齢を感じさせない艶があって、薄い香の匂いがした。
「……駄目ですよ、こんな場所で」
「もう少しだけ。まだ時間があるんだ」
「まったく、あれだけ若い女を囲っておいて何なの。子供と同じですわね、あなたって方は」
東屋の脇で待機してた侍女たちが、気配を察してその場を立ち去る。
タルーシアは苦笑して、セファイドの唇を指で拭った。長い口づけの間に口紅が移ってしまっている。セファイドもまた笑った。
胸元に身を預けてくる夫の頭を撫でながら、タルーシアは確かな幸福感を覚えた。他にどれほど女がいようとも、ようやく夫は自分の隣に帰ってきた。そしてもう二度とどこかへ行くことはないのだ――そう実感した。
国王夫妻は決して仮面夫婦じゃないですよ。
あれで結構、仲良しなんです。




