銀色の荒野にて
そこは見渡す限りの荒野だった。
果てしなく広がった大地は緩やかな起伏に富み、その表層は白く輝いている。雪ではない。一面、銀色の砂礫で覆われているのだ。
時刻は昼なのか夜なのか、天空は漆黒に塗り潰されている。それなのに、やたらに強い光がどこからともなく地表に降り注いでいた。小高く盛り上がった丘のような部分は白く輝き、深い影を鮮やかに地面へ落としている。
夜の最中で荒野そのものが発光しているように見えた。鏡に跳ね返された陽光を思わせる、力強いが硬質な光である。
銀色の荒野は、ただ静謐だった。
そこには、草の一本、花の一輪も見当たらず、生命の気配と呼べるものは一切感じられなかった。地面を覆い尽くす砂の粒子は恐ろしく細かく、精製された粉のようだ。対照的に角の多い大ぶりな石が、あちこちに転がっていた。
風の音も水の流れも大気の匂いすらなく、それゆえに永遠の静止が約束された静かな世界であった。細かな砂は吹き散らされることがなく、大きな石が侵食されて砕かれることもない。砂は砂のまま、石は石のまま――光と影だけで構成された、色彩のない不思議な風景が、地平の彼方まで続いていた。
すべての生命と有機質が排除された、冷たく美しい死の世界――そんなものが存在するとすれば、きっとこんな風景に違いあるまい。
彼はそれを眺めていた。
もうずいぶん長い間、身じろぎひとつせず立ち尽くしている。両の瞳に眼前の荒野を映してはいるが、本当にそれを見ているのか定かではない。呼吸すらしていないのではと思えるほど静かな姿だった。
死の世界にいる以上、彼もまた生命を持つ者ではないのかもしれない。
「あなたはもう行かなくては」
そう声を掛けられて、彼はようやく視線を移す。
彼の傍らには女がいた。老婆である。八十歳は優に超えているだろう。飾り気のない白いワンピースに包まれた肢体は、枯れ落ちる直前の花のように小さく縮んでいる。小作りに整った顔立ちは若い頃の美貌を思い起こさせるが、その皮膚は深い皺と老人斑に覆われていた。
老婆を視界に収めた彼が俯く姿勢になったのは、彼女が車椅子に座っているからだ。
「私の寿命はもうすぐ尽きるでしょう」
彼女は彼に並んで同じ風景を見詰めながら、穏やかな声音で言った。
「本当に長い間、引き止めてしまったわね。これでようやくあなたを本来の場所に送ってあげられる」
「私はここであなたから多くを学びました。ここが私にとっての故郷です」
彼は老婆に向かって深く頭を垂れた。教師に対する生徒というより、神の前で信徒が跪くような、敬虔な仕草だった。
「あなたの生命活動が終わりに近づいているのは私にも分かります。許されるなら、私はその後もずっとここで……」
「いけません」
老婆は厳しく口元を引き締めた。彼を捉える彼女の目は、白目の部分がひどく黄ばんでいたが、黒瞳には理知的で強い光が宿っている。
「あなたのいるべき場所はここではないわ。ここであなたに教えたこと、経験させたことはすべて、これからあなたが役目を果たす上で必要だったのよ――あそこで」
老婆は銀色の荒野に向かって手を伸ばす。干乾びたようなその掌は、腕が伸びきる前に障壁に当たって止まった。彼らと荒野の間には、透明な壁があるのだった。
それは分厚い石英ガラスである。すべての止まった無機質な死の世界にあって、壁のこちら側だけには正常な時間が流れているようだった。
彼は老婆の指した先には目をやらず、そっと睫毛を伏せた。悲しんでいるふうではない、諦めにも似た色が表情に流れた。
「私にその役目が務まるでしょうか? 私には――魂がないそうです」
「そんなもの、誰も持っていない」
老婆は皺深い顔にふっと柔らかな微笑みを浮かべた。白い髪を小さく結った自らの頭部に手をやりながら、
「ここに流れる儚い電気信号を、そういう名前で呼ぶ人がいるだけ。魂というのはね、実体ではなく現象なのよ。肉体が朽ちれば一緒に消え失せてしまう程度の。存在の有無を議論すること自体がナンセンスだわ」
「あなたの身体が死ねば、あなたの魂も同時に消滅しますか?」
「そういうことになるわね」
彼は身を屈め、膝をついて、車椅子の老婆と視線の高さを合わせた。
「だとしたらと、とても……寂しく思います」
内容とは裏腹に感情の読み取り辛い声ではあったが、その言葉を聞いて老婆は笑みを深くした。満足げな笑顔である。
「そう思えるようになったのなら、あなたは私たちと同じよ」
かさついてはいるが温かな掌が、慈しむように彼の髪を撫でる。
「……本当は私が寂しかったから……あなたをここに引き止めてしまったのかもしれない。何も教えぬまま送り出した方が、あなたにとっては幸せだったのかもしれないわ」
「いいえ、私はここに……あなたの傍にいられて幸せでした」
彼の手が彼女のそれに重ねられた。その皮膚が冷たい理由を誰よりも熟知している彼女は、彼の名を呼んだ。彼につけられた本来の名前ではなく通称のようなものだったが、彼女は常に彼をそう呼んでいた。
「あの地へ堕ちなさい――その名に相応しく。あなたの生きる場所はあそこです」
老婆は再び荒野へ目をやった。正確には銀色の大地の向こう、黒く塗り潰された空へ。
彼もまたガラス越しの空を眺める。
そこに浮かぶひとつの天体――ずっと昔から毎日見続けてきたそれを、彼が美しいと感じるようになってからどれくらい経つだろうか。
その感情もまた、彼女から教えられたものだ。別れの時の近づいた彼女を悲しませぬよう、淡い微笑みを浮かべることすらできるようになった。
「承知いたしました。私は彼の地へ赴き、自分の役目を果たします。あなたとの約束に従って」
そう答えた彼と、安堵して肯く彼女を、ガラスの向こうの空に浮かんだ巨大な球体が見詰めていた。
不思議な青に輝くその星は、色彩のない世界の中で、唯一力強い生命を感じさせた。
それこそが、彼が赴くべき場所なのだった。