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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第二章 動き出す世界
19/80

支えるべきもの

 王宮では連日、年に一度の予算会議が続いていた。

 当年の税収を取り纏め来年の予算を決定する重要な会議とはいえ、各地の知事や総督が直々に出席することはこれまでなかった。往復だけで数ヶ月を費やしてしまうほど遠隔の地を治める者もおり、行政官が長期間任地を離れるわけにいかないからだ。

 次官もしくは財務責任者が出席するのが通例のこの会議に、今年は多数の知事、総督、行政執行官が顔を揃えていた。正確には、役職者のうち王族の血統に連なる者たちが。

 会議に合わせて王都へ一時帰還するようにと、彼らは半年前に国王の召喚を受けていた。


 王宮は、平素から外国の使節団をはじめ様々な人間がひっきりなしに訪れる場所だ。しかし今回のように王族、つまり国王の肉親が集合するのは初めてのことで、随行者も多く、客人の接待には慣れているはずの役人や女官たちもいささか緊張しているようだった。

 そして当然のことながら、この時期に王族が集められた理由についての推量が囁かれる。

 かねてから懸案であった王太子の指名が行われるに違いないと――王宮には奇妙な興奮と期待が漲っていた。





 その夜、王位継承権第四位の男は現国王と対面していた。

 三人の直系の王子の次に世継ぎの権利を持つ王兄、フェクダであった。

 場所は数日前に国王がマティエで大負けした一室、来客用の居間である。今夜は遊戯用の円卓ではなく、低いテーブルを挟んで兄弟が座していた。


 少し離れた部屋の片隅にはサリエルが控え、ヴィオルを奏でている。

 印象的な旋律が調を変えて繰り返される、それは星月夜の砂漠を渡る冷たい風のような曲だった。国王に所望されたとはいえ、会見の邪魔にならぬよう音量を抑えている。だが、二人とも演奏が終わるまで言葉少なに聴き入っていた。

 特にこの異邦の楽師を初めて間近で見たフェクダは、彼の稀有な容貌とヴィオルの音色に素直に感嘆したようだった。目を半眼に閉じて艶やかな弦の調べを楽しんでいる。


「……素晴らしいな。耳の肥えた王都の民を夢中にさせるだけのことはある」


 演奏が終わると、フェクダは大きな溜息とともにそう讃えた。サリエルは丁寧に頭を下げる。


「君の噂は南方まで届いているよ。ぜひ一度、知事府に招きたいものだ」

「畏れ入ります。陛下のお赦しさえ頂ければ、いつでも」

「負け分を回収するまで王都からは出さないと言っただろう」


 セファイドは低い椅子に腰掛けて足を組み、大麦の蒸留酒を飲んでいる。わざとらしく不機嫌な口調は演技だろう。

 フェクダはくすりと笑った。


「弟は昔から独占欲が強くて嫉妬深いんだ。用心しろよ、楽師殿」

「兄上は欲がなくて清廉なお方でしたね、昔から」

「私だって人並みに欲くらいあるさ。あの時おまえに先を越されなかったらと、何度悔やんだことか」

「アルハ神の御心のままに、ですよ」


 兄弟は笑顔で向かい合っている。長兄を殺した弟と、その弟に王位を奪われた次兄――その様子は、久方ぶりに会った仲の良い肉親そのものである。

 サリエルはごく小さな音で調弦を始めた。彼らの間にどんな感情を嗅ぎ取ったのか、秀麗な顔が曇ることはない。わずかな空気の震えが、室内に灯された蝋燭の炎を揺らした。

 こちらも蒸留酒の杯を口に運びながら、フェクダは額にかかる髪を払った。


「それに私は跡継ぎに恵まれなかった――おまえと違って。生まれる子生まれる子、みな女ばかりだ。本当に、おまえが呪いでも掛けているんじゃないかと思ったくらいだよ」


 冗談めかしてそう零す彼に、セファイドは笑って首を振った。


「まさか。いくら俺でも胎児の性別までは操れませんよ」

「そうか? あの神官たちの魔法とやらを使えば、あながち無理でもなさそうだがな」

「南部でどんな噂が流れているのかは知りませんが、あの者たちにもそういったことはできません。もしできるのなら――やらせたかもしれませんがね」

「だろうなあ。血を流さずに敵の力を削ぐ方法だ、おまえの好きな」

「兄上は敵ではないでしょう」


 セファイドの声は軽やかだった。答えの分かり切ったごく形式的な質問をするかのように。フェクダは弟よりも少し繊細な形の目を細めた。


「そう思ってくれているのなら光栄だね。では、どうだセファイド、マルギナタをアノルトに娶せる気はないか?」


 唐突な申し出ではあったが、セファイドは少し眉根を寄せるだけの反応しか示さなかった。マルギナタはフェクダの十八歳の長女である。


「オドナス国王の嫡男がいつまでも独り身というわけにもいくまい。縁談は引きも切らないのだろうが、相手選びに苦慮しているのではないか?」

「まあそんなところです」

「従妹ならばどこにも角は立たないよ。うちも……まず長女が片付かないと他の娘も嫁に出せなくてな」


 四人の女児の父親であるフェクダはそう言って苦笑した。セファイドは笑って肯きながら、酒で濡れた唇を拭う。

 実際、王太子の指名は確実と噂されるアノルトへの縁談は、両手の指に余るほどもたらされている。国内外を問わず様々な王侯貴族が、自分の娘を次期オドナス国王の妃にと推しているのだ。

 だからこそ選定には慎重にならざるを得ない。どの娘を選んでも、他の者たちの不服を買う。そのような不平不満をいちいち気にしないセファイドとはいえ、やはり不毛な争いの種は排除しておきたかった。

 その点、王兄の娘であれば血統的には文句のつけようがない。王家と縁戚関係を結んだ特定の貴族に権力を与える恐れもない。それどころか、同じ父を持つ姉弟の血がひとつに纏まることにより、オドナス王家の結束はさらに強まるだろう。

 

「そうなれば、兄上の影響力は弥が上にも高まりますね。王都へ……中央へ戻りたいですか、兄上?」


 セファイドは兄を正面から見詰めて訊いた。表情から笑みは消えている。鋭く射るような、だが紛れもない真摯さを籠めた眼差しだった。

 対照的に、フェクダは笑みを深くした。口元に手を当て、顔を逸らして吐息のような笑い声を漏らす。


「そうそう、それがおまえの本性なんだよなあ。一度占有したものは何があっても手放さない。この強欲め」

「背負わせたくないんですよ、こんなもの誰にも」

「独占欲というよりただの意地っ張りだな」


 フェクダはもう一度笑って、それから真面目な顔になった。


「誤解されると困るが、俺は別におまえの地位を脅かすつもりはない。おまえがそれをどんな手段で手に入れていたとしても、だ。今さら関係ない」


 父王を弑した長兄の討伐――セファイドがいかにしてそれを完遂したか、フェクダは知っているのか。あるいは薄々感づいているのか。


「だが、王たるおまえの背負うものは、国の繁栄に比例して年々重くなっているはずだ。そろそろ他の者にも分け与えてやれ。おまえの背にある責任、期待、それから秘密――それらは本来、私たち同じ血を持つ者全員が支えるべきものだろう」


 フェクダの声は低いが、歌うように滑らかだった。どのような疑念をも受け流して、自らの意志を真っ直ぐに相手へ届けるしなやかさを持っている。

 その意思が果たして本心かどうかは、また別問題として。

 

 いつしかヴィオルの調弦は終わっていた。部屋の隅で、楽師はただ静謐にその気配を消している。

 セファイドは無言のままだ。澄んだ黒瞳は兄の姿を映している。感情の読めない弟の視線を気にしたふうもなく、フェクダは問うた。


「セファイド、おまえ、神殿に何を隠している?」

「それを知るのは後を継ぐ者だけ」


 答えはきっぱりとしていた。


「どう支えるかは、次の王が決めるでしょう」


 セファイドは平素、韜晦的なところはほとんどなかった。上の人間はなるべく開け広げでいるべきだという考えの持ち主で、だから、必要な情報の出し惜しみはしない。だが神殿にある秘密――この国の繁栄の原動力とも言えるその秘密を、彼は決して誰にも明かさなかった。

 それはすなわち、神官に登用された放浪の民の知識と技術だ。 


「息子に丸投げするのか。無責任な親父だな。君もそう思うだろ?」


 椅子の背凭れに深く身を預けたフェクダは、サリエルに水を向けた。本当に彼の意見が聞きたいわけではなく、区切りにしたいような気配を滲ませていた。

 サリエルは無言で微笑む。セファイドに目配せされて、彼は再び弓を弦に当てた。


 しかし艶やかな音色は最初の一音で途切れた。室内に新たな人物が姿を現したからだ。


「お二人とも、こちらにおいででしたか」


 明るい声とともに入室してきたのはアノルトだった。


「フェクダ伯父上、議場ではお会いしておりましたのに、ご挨拶が遅れました」


 彼はフェクダの前で礼儀正しく一礼した。南部知事と、その南部地区にある国王直轄地の総督――伯父と甥は遠い南方の地で何度も顔を合わせていた。

 フェクダは才気が溢れ出すような笑顔のアノルトを、好もしげに迎えた。


「ほぼ要求通りの予算をもぎ取ったようだね。この父親相手に大したものだよ」

「俺などまだまだ若輩者で。伯父上のご指導の賜物です」

「南部では、これがいろいろとご鞭撻を受けていると聞いています。俺も安心していますよ」


 先ほどとは打って変わった軽い口調で言うセファイドに、フェクダは出しゃばる様子もなく首を振った。


「いや、私が相談を受けているのは実務的な事柄だけさ。重要な判断はアノルト自身が下している。おまえの長男は実に優秀だ。ドローブで数年経験を積んで、次は国政だな」

「だそうだ。よかったな、アノルト。今、おまえの婚姻について話していた」

「お、俺の、ですか?」


 珍しくどもったアノルトは、意外な話題に虚を突かれたようだった。父と伯父は揃って意味ありげな笑みを浮かべている。


「マルギナタはどうかと。おまえの従妹の」

「父親の私が言うのも何だが、美人だよ。世間知らずだが、まあ気立てはいい」

「それはとても……ありがたいお話ですが、俺はまだ妻を持てるような立場では……」

「十九にもなって何を言っている。セファイドなど、十七歳で即位すると同時に結婚してるんだぞ」

「父上と俺とでは事情が違います」


 謙遜しつつも頑なな息子の様子に、セファイドは息をついた。


「俺は悪い話ではないと思うぞ、アノルト。王族同士の婚姻ならば権力が分散する危惧もない……などとおまえには説明するまでもないだろう。分かるな?」

「しかし父上……」

「身を固めて、さっさと子を作れ。それも王族の務めだ」


 アノルトは唇を引き締めた。父の指摘はもっともで、言い返せなかった。王族の結婚は自分のためではなく、国のためにするものだ。未来へ向けて権力を安定的に保持し、より優秀な子孫を残せる相手を選ばねばならない。彼は幼い頃から繰り返しそう教えられてきた。


「前向きに考えておいてくれ。リリンスの輿入れと併せて慶事が続けば国民が喜ぶし、何より経済効果が上がるからな」


 フェクダが冗談交じりに言うと、アノルトは硬い表情で肯いた。

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