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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第二章 動き出す世界
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それぞれの夜

 疲れ切ったリリンスは、夕食もろくに喉を通らず、簡単に沐浴を済ませて寝台に潜り込んでしまった。神経は興奮していたが身体の疲労がそれを凌駕し、布団に包まれるとすぐに寝息を立て始めた。


 頬に大きな湿布を貼ったリリンスの寝顔を、キーエもまた疲れたような表情で眺めた。

 王女の自覚があるようで、やはり向こう見ずだと思った。自分の身に何かあればどんなに大変なことになるか分からないはずがなかろうに、それでも我慢できない欲求に従って外へ飛び出してしまったらしい。落ち着いたらその理由を打ち明けてくれるだろうか、と彼女は切なくなった。


 キーエの出身は王都の商家である。十七歳で王宮の女官として勤め始めた。平民ではあるがそれなりに裕福な家の娘が、独身の間だけ、行儀見習いを兼ねて王宮で働くことは一般的な慣習である。キーエも結婚が決まれば辞めるつもりだった。しかし彼女はそのしっかりした性格を見込まれて、王女付きの侍女に抜擢されたのだ。

 当時リリンスは王宮に引き取られたばかりで、慣れない環境に孤独な日々を送っていた。若く朗らかな侍女が話し相手になり、少しでも娘の不安が和らげばという父親の配慮であったのだろう。

 泣いてばかりの幼いリリンスの扱いに最初は戸惑ったが、もともと世話焼きのキーエは放っておけず、気が付くと仕事の範疇を超えて彼女に尽くすようになっていた。何より涙の後に見せる輝くような笑顔に惹かれていた。


 あれから八年――リリンスは見違えるように明るく、そして美しくなった。

 幼い頃から世話をしてきた王女が日々洗練されていくのが分かり、キーエは素直に嬉しかった。引き換えに自分自身の婚期は逃してしまったような気がするが、他国へ嫁ぐであろう王女に随行することを考えると、それも致し方ないと思っていた。王宮で知り合って交際した男性もいたものの、仕事を辞めてまで一生を託したい相手とは巡り会えていない。


 要するに私はこの少女が好きなのだ――風邪を引かぬよう、キーエは布団をリリンスの肩口まで引き上げる。だからこそ、何か心に引っ掛かるものがあるのならばそれを聞いてやりたい。王族の責任、務めと頻繁に口にするリリンスの本心は、もっと自由を求めているのではないかと感じるのだ。

 眠りに落ちたリリンスがうなされていないことを確認して、キーエは寝台の天蓋を閉じた。燭台を持って寝室を後にする。とにかく今夜はぐっすりと休ませねばならない。


 居間に戻ると、後輩の侍女が慌てた足取りで近寄って来た。


「キーエさん、大変です、あの……」


 緊張した顔で報告するのは、王女付きの女官の中ではいちばん若いティンニ―という娘だった。他の侍女も戸惑った様子で部屋の出入口を眺めている。


 報告を受けたキーエが出て行くと、王女の自室の前にはアノルトがいた。

 供の姿は見えず、単身でやって来たらしい。彼の整った顔立ちに月光が深い陰影をつけ、冷ややかな怒りとも憂いともつかぬ表情を浮かび上がらせていた。


「姫様はもうお休みです。畏れ入りますが殿下、お引き取りを」


 兄といえども、父親以外の男性を王女に無断で通すわけにはいかない。キーエはきっぱりと告げた。

 そう言われることは承知していたらしく、アノルトは気分を害したふうはなかった。ただひどく気遣わしげに、


「眠ったんだな……よかった。怪我の具合はどうだ?」

「大事ありません。数日で完治するかと」

「そうか……」


 アノルトは頬を緩めて胸を撫で下ろした。それから、やおら表情を引き締めて正面からキーエを見据える。


「……妹の脱走を見逃した責任の大部分は、君たちにある。それは分かっているね?」

「はい。姫様をお引き止めできなかったのは、筆頭女官たる私の責によるものです。いかなる処分をもお受けする所存でございます」


 キーエは深々と頭を下げた。それは彼女の本心で、実際、王女付きを外されても止むなしと覚悟をしていた。

 アノルトは一呼吸置いて首を振った。


「今回のことで、陛下は君たちを処罰するつもりはないらしい。だが――二度目はないよ。今後このような不祥事があれば、いくら長く仕えた君とはいえ、他の侍女ともども王宮を去らねばならなくなる」


 彼の口調は荒くはないが有無を言わせぬ迫力があった。時として彼が見せる反論を許さない断定的な態度は、他者を従える立場の人間に特有のものだった。


「よく肝に銘じてくれ」

「かしこまりました、殿下」

「リリンスの手当ては任せる。よろしく頼む」


 アノルトは軽く手を上げて、あっさりと踵を返した。自分の意図は十分伝わったと判断したのだろう。振り返ることもなく、月明りに照らされた青い廊下を去ってゆく。


 第一王子が妹に会えないのを承知でこのような場所へ出向き、あまつさえ一介の侍女に直接忠告の言葉をかけるなど、普通ならばあり得ないことだった。エムゼ女官長からの叱責は覚悟していたキーエにとっても、彼の登場は意外だった。

 よほど姫様が心配なんだな――キーエの口元を笑みが掠める。

 思えば幼い頃からアノルトはリリンスのいちばん近くにいて、常に彼女を守っていた。彼女の生まれについて侮辱の言葉を口にした貴族の一人に、剣を突きつけて謝罪させたこともあった。十二、三歳の頃の話だ。


 けれど、おそらくリリンスの結婚は近い。そろそろ兄の務めも終わりだろう。


 室内に入って入口の布をしっかりと閉じ、息をついたキーエを、不安げな顔の侍女たちが迎えた。話は聞こえていたらしい。


「大丈夫よ、みんな。姫様を信じて、普段通りに仕事をしてちょうだい」


 キーエは務めて明るく笑った。今度リリンスが何か企んだ時は、必ず前もって気付いてみせると――場合によっては手助けをしてやろうと、そう決意しながら。





 人間の肉と骨を断ったせいで、湾曲した短剣の刃先はかなり汚れていた。刃毀はこぼれこそしていないが、拭いきれない脂がべっとりとこびりついて、切れ味はずいぶん落ちているはずだった。

 ナタレは手桶に汲んだ水で剣先をよく洗い、研石を当てた。


 学舎の中にあるナタレの部屋である。顔についた痣や服の襟元から覗く包帯が痛々しい彼は、蝋燭の灯りの下、短剣の手入れを始めていた。

 ロタセイにおいてこの剣を与えられる意味は、すなわち敵をほふることが許された証だ。一人前の男として家族や一族のために戦い、害をなす者を排除せねばならない。


 大切なものを守るための剣――自分にはそれができなかった。


 規則正しく続いていた高い摩擦音が途切れた。

 ナタレは砥石を握る左手を見た。短剣の切っ先が掠めたらしく、その人差指の腹から赤いものが滲んでいる。


 自らの不甲斐なさに吐き気がした。何がロタセイの後継者だ。女ひとり守れぬではないか。結婚を控えた王女の大事な身体に傷をつけてしまって――。

 リリンスを大切に思うセファイドの気持ちもアノルトの気持ちもよく分かった。だから詫びるしかなかった。

 自分もまた彼らとよく似た思いを抱いている。彼女が殴られたのを目にした時、胸に湧き上がってきたのは本物の殺意だ。


 痛々しいほど真剣な眼差しで黙々と剣を研ぎ続けるナタレが、やがて、ふと顔を上げた。部屋の空気がわずかに動いたのを感じたのである。

 一瞬の後に顔を覗かせたのは、フツだった。


「人でもさばこか、ってくらい怖い顔で研いどるなあ。それがロタセイの作法なんか?」

「……入れよ」


 相変わらず緩い物腰のフツを、ナタレも今夜ばかりは邪険に扱えなかった。いちおう、助けに来てくれた恩がある。

 フツは遠慮することもなく部屋に入って、籐製の椅子に座った。

 机と寝台と小さな戸棚と、あとは数個の衣装箱があるだけの、実に片付いた部屋である。ナタレは毛足の短い絨毯の上に直接腰を下ろしていた。


「怪我、大丈夫みたいやな」

「打ち身だけで骨は折れてなかった」

「指から血ぃ出とるぞ」

「ああ、これは今切ったんだ」


 ナタレは傷ついた指を口に含んで、それから短剣を鞘にしまう。


「あんな所を、偶然通りかかったわけじゃないんだろ?」


 訊かれて、フツは唇の端で笑った。

 学友が絡まれているのをたまたま見かけて助けに入っただけ、王女が一緒とは知らなかった――事の顛末を尋ねる学舎の教官に対し、彼はそう答えていた。街中で喧嘩などもってのほかだと厳重注意を受けて、三日間の外出禁止令を食らってしまったのだが。


「実は、楽師殿に頼まれてん。おまえとお姫様が外に出たかもしれんから探してくれって。おまえらの行きそうな場所も」

「あの……路地裏も?」

「うん、通りの名前まで指定された。あそこ、何かあるんか?」


 ナタレは黙った。サリエルはリリンスの生家を、あの酒場の場所を知っていて、自分たちがそこへ行くのではないかと考えたのだ。なぜ知っていたのか――国王の口から聞いたとしか思えない。

 考えている以上に、彼は王家の秘密に通じているのかもしれない。誰もがあの楽師の前では饒舌になってしまうのだろう。自分も含めて。


「口割りそうにないなあ。ま、ええけど。おまえとリリンスちゃんだけの秘密にしとけや」

「ちゃんづけで呼ぶな。口の利き方に気をつけろよ、フツ」

「ほんまは自分がいちばんそう呼びたいて思てるくせに、このええかっこしいが」


 フツは身を乗り出して、ナタレの額を軽く小突いた。ナタレがうっとおしそうに払いのけると、ふんと鼻から息を吐き出す。片膝を折り曲げて椅子の上で抱えながら、


「あんな雑魚相手にぶち切れるやなんて、ナタレらしくもない。よっぽどあの娘が怪我させられたんがムカついたんやな」

「当たり前だ。彼女は王女で、俺はその護衛だったんだから」

「建前ばっかり偉そうに言うてくれるやん。好きなんやろ、お姫様が」

「何を……」

「バレバレやって。ていうか、気づいてないんか? 自分で」


 意地悪くニヤニヤと笑うフツを、ナタレは鋭く睨んだ。殺気すら籠っていそうな剣呑さだったが、それが気まずさを隠すためのものであるとフツにはすぐ分かった。


「一昨年のことで姫様には恩がある。だから感謝しているし、敬愛もしてる。だけどそれだけだ。別に恋愛感情じゃない」


 投げ捨てるように言って、ナタレはふいと目を逸らし、フツはますます笑みを深くした。


「初心なやっちゃなー。恋愛感情がどんなもんかも知らんくせに」

「だから違うって」

「応援してやりたいけど、相手が悪いわナタレ。お姫様は国王の宝物や。めっちゃ利用価値のある、な。かっさらって逃げるには命がいくつあっても足りんやろ」

「だから……」

「ま、女は砂の数ほどおるんやで。今度ええ女紹介したる」


 すでに遊郭などに通っているらしいフツは、偉そうに胸を叩いた。街で遊びつつ商人との人脈を作り、自国の鉄製品を売り込んでいるのだと本人は主張しているのだが。

 むきになって制止するのも馬鹿らしくなり、ナタレは肩を落とした。もはや溜息しか出てこない。属国の王族、しかも王権を停止された王太子がオドナスの王女に懸想しているなどと、いったいどうしたらそんな発想ができるのだろうか、と呆れる。


 そう、恋などであるはずがない。

 確かに彼女の傍にいると楽しくて、彼女の笑顔を見ると嬉しくて、自分の立場も相手の立場も忘れそうになって――でもそれは恋ではない。百歩譲って友情だと、ナタレは結論付けた。居心地の悪い違和感を感じなくもなかったが、とにかくそう信じようとした。


「……俺は身の程を弁えてるんだ」


 穏やかに彼は呟いた。自称親友の軽い舌の動きを止めるほど、静かな諦観を含んだ声だった。


「ナタレ、おまえほんまに……」

「今夜はありがとう。本当に助かった」


 珍しく表情を曇らせるフツに、ナタレは心からの謝意を込めて微笑みかけた。感謝はするがこれ以上の詮索を拒むような、妙に清々とした笑顔だった。

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