第三の男
キーエから手渡された湿布を再び頬に当てて、リリンスは謁見室から自室へ向かった。
疲労感が全身を覆って、泥の中を歩いているように足が重かったが、神経はピリピリと昂ぶっている。自分のしでかしたことの重大さと、迷惑を蒙った人間の多さを思い知って居たたまれなかった。斜め後ろを歩くキーエの顔をまともに見られない。
ひどく落ち込んだ様子の主人を慮ってか、キーエは優しく声を掛けた。
「姫様、お腹が空かれたでしょう? すぐにお部屋へ夕餉を運ばせますわ」
リリンスは立ち止まって勢いよく振り返り、すぐに俯いた。
「ご……ごめんねキーエ、私あなたにまで迷惑を……」
蚊の鳴くような声で詫びるリリンスに、キーエは首を振る。言いたいことは山ほどあったが、とりあえずは腹に収めて、彼女に元気になってほしかった。
お気になさらず、と答えようとして、リリンスの肩越しに廊下をやって来る人物に気付いた。
慌てて身を屈める侍女の視線を追って、リリンスが再び身体の向きを変えると、燭台の薄明かりに照らされた廊下の奥から、彼女の義母が近付いて来ていた。
「お母様……」
国王正妃であるタルーシアは、普段着でありながら贅を尽くした長い衣装を身に纏い、髪型にも化粧にも一部の隙もない。並みの女ならば人形のように見えてしまうだろうに、その出で立ちは実に自然だ。生まれついての姫君とはこういう人なのだなと、リリンスは彼女の姿を目にする度に思ってしまう。
だが今日の母は珍しく慌てているようだった。随行する侍女たちが追いつけぬほどの早足で真っ直ぐにこちらへ向かって来る。
「リリンス! おまえは……!」
丁寧な化粧を差し引いても十分すぎる美貌を険しくして、突っ立ったままのリリンスに手を伸ばした。これほどの近距離で母と対面するのは久方ぶりで、しかも叱られるのが分かっていたから、リリンスは足が竦んだ。
ぶたれるかも、と覚悟したが、タルーシアの手は意外にもリリンスの肩を引き寄せて、しっかりと胸に抱き締めたのだった。
柔らかな絹の感触と風雅な香水の香り――リリンスは一瞬何が起きたのか分からなかった。
「何て馬鹿な娘なの! 顔に傷を作るなんて」
タルーシアは両の掌でリリンスの顔を挟み、頬の腫れを念入りに調べる。いつも冷酷なほど沈着な母がここまで取り乱しているのを、リリンスは初めて見た。
「お母様……ご心配をおかけして申し訳ありません。私は大丈夫です」
「大丈夫なものですか。まあ唇まで切ってしまって……痕になったらどうするの」
タルーシアの声には本気の怒りと心からの気遣いが籠められていて、リリンスは戸惑うばかりだった。
最後にこうやって母に触れたのはいつだっただろうと考えた。最初の時はよく覚えている――父に連れられて王宮にやってきた日だ。
実母の死を受け止めきれていない幼いリリンスは、初めて見る壮麗な建物の中で混乱し、大勢の大人に囲まれて怯えきっていた。そんな彼女をタルーシアは優しく抱き寄せ、落ち着かせるように頭を撫でた。
セファイドの子なら私の子と同じ、おまえはここで安心して大きくなりなさい――と語りかけながら。
夫の意向に逆らってリリンスを拒絶することは許されなかったのだろう。そう簡単に他の女の産んだ子を受け入れられたはずはないと、今になってリリンスは思う。それでもその時のタルーシアの胸は本当に優しかったのだ。
だが、以降、リリンスが成長するにつれて義母は常に一歩引いた所から彼女を眺めるようになった。見張っていた、というのが正しいかもしれない。平民の母から生まれ幼少時代を市中で過ごしたリリンスが、王女として相応しく育っているか、いつも監視していた。
まるで夜空からこの国を見詰めるアルハ神のように。
「ありがとうございます」
彼女のたおやかな掌に、リリンスはそっと手を重ねた。初めて会った時の安堵感を思い出し、温かな喜びがリリンスの胸を満たしていた。
タルーシアは一瞬だけ顔を歪め、すぐに身を離した。乱れた襟元を直しながら、
「おまえは大事な身体なのですよ、リリンス。いい加減に自覚なさい」
「はい」
「アートディアスに輿入れする王女に傷のひとつでもあれば、我が国の沽券に係わります。おまえは陛下の貴重な財産なのですからね」
彼女の声はすでに冷たいものに変わっている。リリンスは頭を垂れた。
そう、自分はこの国の、父の手駒にすぎない――美しく賢く、さすがはあの国王の娘よと讃えられなければならない。母の言っていることは正しいし、本心なのだろう。
それでも、先ほど見せた実の母親のような態度もまた彼女の本心なのだとリリンスは感じ取って、辛いとは思わなかった。
「そうしているとまるで本当の母子のようだ」
明るく、歌うような声がした。
タルーシアとリリンスは同時に振り向く。今の今まで気づかなかった。彼女らの数歩先に、一人の男が立っていた。
年の頃は四十歳くらい。金糸で飾られた絹の上着を纏い、ゆったりとした無地の下服を穿いている。豪奢な装いでありながら、片手を腰に当てた姿に気負いは感じられなかった。
正妃に向かって平然と声をかけたその男は、躊躇なく二人に近付いてきた。
やや面長な輪郭と尖った鼻のせいで線が細く見えるが、十分に男らしく整った顔立ちをしていた。笑みを含んだ黒い瞳は、惑うことなく彼女らを映している。
リリンスは男に見覚えがあった。記憶の糸を辿る彼女を尻目に、タルーシアは溜息とともに彼の名を口にした。
「フェクダ……あなたでしたか」
「お久しゅうございます――姉上」
男は優雅に一礼して微笑んだ。ひとつに束ねた長い髪には、白いものが数筋混ざっている。リリンスはようやく男の素性を思い出した。
「フェクダ伯父様……ですか?」
「やあ、リリンス。最後に会ったのは六年前かな。大きくなった」
小さな子供にするように、彼はリリンスの頭を撫でた。タルーシアはわずかに警戒の色を浮かべて義理の娘を引き寄せる。
「どうしたのです? 南部知事のあなたがなぜここに?」
「おや、お聞きになっていませんか? 国王に……セファイドに呼ばれたのですよ。予算会議に出席するようにと。私だけではない、セラムもサークも、直系の王族が皆召集されている」
フェクダはセファイドの一歳年上の異母兄であり、タルーシアにとっては数ヶ月後に生まれた異母弟にあたる。南部地区の知事として、妻子とともに遠く南方の地に暮らしている人物であった。
オドナスに知事制が敷かれたのは六年前だ。拡大した領土を東西南北四つの地区に分け、それぞれに行政官として知事を置くというものである。
国王のほぼ全権を委譲された知事は王都から担当地区へ送られ、国王の代理人として統治を担う。当該地区に属する国と部族、都市から租税を徴収するだけではなく、一定の率で中央に収めた残額についての使途を任されているため、独自に街を整備したり産業を振興させたりする役割があった。また司法権が認められており、刑事事件を裁き盗賊団を狩り、属国の反乱に目を光らせて治安維持を図るのも知事の責任である。
もちろん地方で権力を握った知事が職務を逸脱し、中央に反旗を翻すことがないよう、王都からの監査は頻繁だ。特に二年前、当時の東部知事の背任が明らかになってからはますます精密な監査が行われるようになった。
それでも、ある理由から強力な中央集権を望まないセファイドにとって、知事は国内統治を支える重要な役職であった。
知事が担当地区を離れるとは、よほど特殊な事情があってのことだ。
「会議の後で、いよいよ王太子の指名があるのではないでしょうかね」
フェクダは細い顎をなぞりながらあっさりと口にした。
初めて聞く事実に、タルーシアは顔を強張らせる。彼女の弟はそんな反応を見逃さず、
「大丈夫ですよ姉上、ご心配なさらずとも、必ずアノルトが指名されます。あなたの息子は実に立派に総督職を務めている。後継者になれぬ理由がない。そうでなくては――姉上があの男の妻に収まった意味がありませんからね」
皮肉っぽい、明らかにからかいを含んだ物言いに、リリンスは眉をひそめた。しかしタルーシアは動揺を見せず、
「無礼ですよ、フェクダ、弟とはいえ国王に対してあの男とは」
と窘める。静かでありながら、反論を許さない迫力があった。
「これは失礼しました。懐かしさのあまりつい気安い口を。お詫びいたします、正妃様」
フェクダは大仰に頭を下げて、そっとタルーシアの手を取った。
「今でも悔やんでいるのですよ。セファイドに奪われる前に、姉上を連れに行けばよかった。そうすれば……」
「今頃、あなたが玉座に座っていた?」
タルーシアは弟の目を見詰めたまま、微笑んだ。聞きようによってはとんでもない台詞である。是と答えれば、反逆罪に問われ兼ねない。
実の姉から発せられた危険な問いかけに、フェクダは苦笑して首を振った。
「滅相もない。私は己の分を弁えております。豊穣な南方の地を任されただけで、身に余る光栄だ」
「アノルトをよろしくお願いしますね」
総督の職務に協力してやってほしいという意味が、それともいずれ行われる王太子指名での後押しを要請したのか――タルーシアは無礼にならぬ程度の仕草でフェクダの手を払った。
どことなく禍々しいものを感じて、リリンスは胸の中が重苦しくなった。
久方ぶりに会った伯父の物腰は柔らかで、その容貌は当然にセファイドに似ている。それなのに父とは正反対のうっすらと冷たい闇を思わせる男だった。
先代の国王の次男であったフェクダは、長男のミルジムが父を弑した後、本来なら次の国王になるはずだった。しかし三男のセファイドがミルジムを先に討ち取ったために、その機会を永遠に逸した。
セファイドの治世においては知事として遠方へ赴任させられ、そこで重要な任務と絶大な権力を得ながらも、中央とは隔絶した生活を送っている。
体よく王都から追い払われたのだ、とリリンスですらそう思う。
父は、王位継承権を持つ同世代の王族を自らの傍に置こうとはしない。基本的に肉親を信用してはいないのだろう。しかし真実危険な相手ならば目の届く所で監視するか、いっそ暗殺でもしてしまった方が面倒がない。遠方で権力を与えておけば刃向う心配はない男だと――父はそう判断しているのだ。
リリンスはここまで考えて、少し嫌になってきた。
自分の父と伯父の話ながら、何と寒々しい関係なのか。父は、自分や兄たちやその生母たちに対しては常に温かい。家族を心から大切にしている。だが父にとっての家族とは、あくまでも妻と子だけなのだ。
フェクダは中庭の空に浮かぶ半月を見やって、目を細めた。その輝きに少し気後れするように。
「……セファイドへの挨拶は明朝にします。予定より早く到着してしまいまして、今夜は何やら取り込んでいるようですから」
夕刻からの騒動についてはフェクダの耳にも入っているのかもしれない。リリンスは頬に手を当てて痣を隠した。国王の娘である自分がこんな不祥事を起こしたと伯父に知られるのは恥ずかしく、悔しくも感じたからだ。
フェクダは再びリリンスに向き直って、優しく言う。
「美人が台無しだ。王女は美しくあることが仕事なのだぞ」
「ど……努力します」
「おまえならばどこの国の皇太子であろうと虜にできる。おまえの母親は――オドナス国王を惑わせた女なのだからな」
口調に蔑みの気配はなかった。むしろ面白半分に称賛するような響きすらある。
幼い頃からリリンスは、生母に対するもっと酷い陰口を何度も耳にしていた。だから今さら傷つかなかった。
「リリンスは私の娘です。滅多なことは口にせぬよう――もうお行きなさい」
タルーシアに冷ややかな声で命じられ、フェクダはゆっくりと頭を下げると、彼女らの脇を通って回廊へ出て行った。賓客を泊めるための部屋は別棟に準備されている。
水の上を泳ぐような、滑らかな歩き方の後ろ姿に、冴えた月光が降り注いでいる。大股で颯爽と歩くセファイドの姿とはかなり違っていた。
父がこの国の光ならば伯父は陰なのだ――リリンスは彼に感じる違和感をそう納得した。
何かがひとつ違っていれば、父があの立場にいたかもしれない。そうしたら、たぶん自分はこの世にいなかった。
「お母様、伯父様のおっしゃっていたことは本当でしょうか? 王太子の指名があると」
「……あの人の身勝手にも困ったものだわ」
リリンスの問いかけには答えずに、タルーシアはひとりごちた。身勝手とは、正妃たる自分に伏せたまま後継者を発表しようとしていることか。
「リリンス、部屋へお帰りなさい。フェクダには近づかぬよう」
「どうしてですか?」
「質問は許しません。おまえは知らなくていいことです」
こうなると、もう母が決して口を割らないことは分かっていた。それどころか義理の娘を視界から追い払ってしまう。
リリンスは潔く諦めて、静かにお辞儀をした。




