血を吸う三日月
「小娘が大事なら剣を捨てな!」
リリンスを捕えているのは巨漢といってもいいほど大柄な男だ。似たような風体の仲間があと二人――どうやら窃盗団の一味は、最初から二手に分かれて彼らを挟み撃ちにしたらしい。
「ごめん、捕まった」
リリンスは心底申し訳なさそうに詫びる。驚いたことに、この期に及んでも彼女の声に恐怖の色はなかった。相当に太い神経をしている。
なぜ挟撃の可能性を考えなかったのかと、ナタレは自分の迂闊さに歯噛みをした。たかが街のゴロツキと舐めてかかっていた。
彼は深い溜息をつき、自分が打ち据えた最初の五人に目をやる。男たちは身体のあちこちを押さえながら、よろよろと立ち上がるところだった。暗い憎悪を宿した視線をナタレに向けて、手に手に凶器を握り直している。
躊躇は一瞬だった。ナタレはあっさりと剣を手放した。石畳の上に固い金属音が響く。
「ナタレ! 駄目よ!」
悲鳴のようなリリンスの叫びに、彼の口惜しさが募った。残された手はひとつしかない。機会は一度だけだ――彼はそっと腹の辺りに手をやる。
「調子に乗りやがって、このクソガキ!」
最初のおとり役の男が、怒号とともに手にした剣の柄でナタレの頬を殴打した。勢いで壁にぶつかった彼の襟首を掴み、さらにもう一打――それから意趣返しのように鳩尾に拳をめり込ませる。
ナタレは低く呻いて膝を折った。
他の仲間たちも集まってきて、蹲ったナタレを次々に蹴り上げ、棍棒で打擲した。刃物を使わず何度も殴打するところに、底知れぬ悪意を感じる。
「やめて! もうやめて!」
そう叫びながらリリンスはもがいたが、男の硬い腕は彼女の身体を離さなかった。
そんな彼女を見て、おとり役の男が嘲笑しながら近寄ってきた。
「どうだい、嬢ちゃん、あんたの甘っちょろい正義感が彼氏をこんな目に遭わせてるんだぜ。何で首突っ込んだ? 黙って見て見ぬふりしときゃよかったのによ。次からはよーく肝に銘じるんだな」
男は手にした剣の刃先でリリンスの首筋をなぞった。金属の刺すような冷たさが、彼女の皮膚に粟を立てた。
「ああ……もう次はねえか」
「こんな奴らの戯言など聞くな……あなたは間違ってない」
掠れてはいるが凛とした声を聞いて、男たちは足元を見た。路面に膝をついたナタレは、睨み据えるように真っ直ぐリリンスに顔を向けていた。無抵抗で暴力を受けたため頬は腫れ、口と鼻から流れ出した血が襟を汚している。それでも表情は清廉だった。
「リラ、あなたのやったことは正しい。他の者がみな傍観したとしても、あなたは、あなただけは立ち向かうべき立場の人間です。後悔する必要はない」
「ナタレ……」
あまりに痛々しい姿を目の当たりにし、それでも自分を支えようとする気持ちを感じて、リリンスは奥歯を噛みしめた。苦しい――苦しくてたまらない。
どすっ、と砂袋を叩くような音がして、ナタレの顔が歪んだ。男の一人が彼の腹を強く蹴り上げたのだ。込み上げる痛みと嘔吐感に堪えながら、彼は俯せに倒れる。
ナタレの苦痛にリリンスの神経が軋み、熱く焼け切れるような気がした。自分自身へ及ぶ危害よりも、彼の痛みが恐ろしい。怯みそうになる心を叱咤し、リリンスは今どうすべきかを必死に考えた。
「勇ましいな、兄ちゃん」
おとり役の男はそう言って、ナタレの前にしゃがんでその右腕を掴んだ。
「この指全部切り落とされても、そんな偉そうな口が利けるかい?」
と、刃先をナタレの手に近付ける。彼は肩と二の腕を別の男に踏みつけられており、身動きが取れなかった。
悲鳴すら上げられずにその様子を眺めていたリリンスの上半身が急に脱力し、ぐったりと前へのめった。
「おっと……」
失神したのだと思い、彼女を後ろから捕えていた巨漢は、弛緩した身体を支え直そうと屈んだ。ここで気絶されてはつまらない。恋人が切り刻まれるところを見せつけて、泣き叫ばせて、その後はねぐらに連れ込んで思う存分蹂躙するつもりだった。
しかし、屈んだその動きに合わせたかのごとく、リリンスの頭が勢いよく跳ね上がった――彼女の後頭部が男の鼻先を強打する。
思わず腕を解き顔を押さえた巨漢の足を、リリンスは渾身の力で踏みつけて前方へ逃れた。
芙蓉の花のような外見からは想像もつかない荒っぽい行動に、おとり役の男も他の仲間たちもナタレまでもが、ぎょっとして動きを止めた。
しかし敵に囲まれた状況に変わりはなく、リリンスはナタレに駆け寄ろうとしたが、すぐにまた捕えられてしまった。
「こ、このアマ……!」
まともに頭突きを食らった巨漢は、鼻を覆った手指の間からダラダラと鮮血を流している。怒りと痛みに歪んだ表情を凶暴な色がよぎり、リリンスは身構える暇もなく、分厚い掌で頬を打たれていた。
細い身体は突風に煽られたようによろめいて、壁にぶつかる。巨漢はさらに彼女の長い黒髪を掴みあげ、乱暴に上向かせた。
「舐めた真似しやがると……」
彼の言葉が途切れたのは、リリンスの表情と視線に気づいたからだ。非力な少女であるはずの彼女は、血の滲んだ唇でうっすらと笑っていた。その大きな瞳は、巨漢の肩越しに路地の奥を映している。
振り返った巨漢が見たのは、立ち上がったナタレとしゃがんだままのおとり役の男、そして状況がつかめずにぽかんとしている仲間たちの姿だった。
彼らの足元に、ぱらぱらと何かが散らばり落ちた。
「う……うわああっ!」
おとり役の男と、ナタレの身体を踏みつけていた男が同時に叫びを上げる。
石畳の上に落ちた芋虫のようなものは、彼らの手の指だった。
ナタレは顔を伏せたまま、三日月のように湾曲した短剣を左手に握り、胸の前で構えている。
上着の下の革帯に差したそれを抜き放ち、一瞬で男二人の五指を切断したのだと、ようやく全員が気づいた。
美しく鋭いその短剣は、ロタセイの男の持ち物だ。もともとは家畜を屠ったり藪を切り開いたりする日用品であったらしいが、今では成人の証の意味合いが強い。ナタレも昨年故郷からそれを贈られ、肌身離さず携帯していた。リリンスはその事実をよく知っていて、敵の注意を引いて隙を与えたのだ。
ロタセイの短剣は、いったん抜けば血を吸わさずに収めてはならないのだという。
ナタレは全身に打撲や切傷を負っていたが、そんな影響など感じさせない素早さで、あっという間に巨漢の眼前まで間合いを詰めた。
巨漢はリリンスの髪から手を離し、腰につけた剣を抜く。白い光が雷光のように閃いた。
剣でナタレの刃を弾こうとして――巨漢は自分が何も握っていないことに気づいた。彼の右掌はほとんど切断され、親指の付け根を皮一枚で残してぶらぶらと揺れていた。
一呼吸の後に絶叫と鮮血が迸る様は滑稽ですらあった。
恐るべき速さで敵の利き手を封じたナタレは、リリンスの肩を抱き、庇うようにして立っている。伏せられたままの顔がようやく上がった。至近距離で血と泥に汚れたその横顔を覗いたリリンスは、息を飲んだ。
彼は仮面に似た端正な無表情を面差しに貼りつけている。ただ両眼だけは、暗い怒りを禍々しく煮立たせてギラギラと輝いていた。
不吉な思いに眉根を寄せるリリンスの舌の上に、塩辛い血の味が染みた。殴られた時に口の中を切ったらしい。
ナタレは彼女を見ようとはせず、ただ肩を抱く手に力を込めた。
「今からこいつらに、あなたを傷つけた報いを受けさせます」
「わ、私こんなの平気だから……早く逃げようよ」
「目を閉じていて下さい。すぐ、済みます」
親しい友人が見知らぬ何かに変わったようで、リリンスの背筋がぞわりと冷たくなった。恐怖を感じたのではない。それを見てみたいと――心の奥底が疼いたのだ。
路地の奥に五人、うち二人は指を落とされている。反対側には三人いるが、戦えるのは二人だろう。負傷した男たちはまだひいひい呻いているが、残りの仲間は我に返ったように武器を構えた。
もう戦う必要はない――殺せばいいのだ。
まず数の少ない方からだと、大通り側の敵にナタレは狙いを定めた。一歩踏み出しかけ、だが、男たちのさらに向こうに新たな人影が現れたのに気づいた。
「おー、ここにおったんか」
場違いな明るい声に、敵の男たちまでもが振り返る。新手かと一瞬緊張したナタレは、その正体を知るや露骨に嫌な顔をした。
「……フツ」
「間に合うてよかったわ……って、もう流血しまくっとるな。無事か?」
痛めつけられたナタレの姿とその短剣、負傷して蹲る男三人を順番に見やって、フツは鼻を鳴らした。
「何しに来たんだよ、おまえ」
「助太刀やん。お姫様ぁ、俺が来たからにはもう心配いりませんよー」
左手をひらひらと振るフツは、すでに大振りな両手剣を鞘から抜き、右肩に担ぐようにして立っている。大柄で力の強い彼が、最近気に入っている武器だ。リリンスは乾いた笑いを浮かべた。
「こっちの2人は引き受けるで。いっぺん合法的に人斬ってみたかったんや」
「合法なわけないだろ」
のんきな口調ながら好戦的な友人の台詞に、ナタレは呆れた。怒りに冷たく沸騰していた頭が、少し落ち着いたような気がした。
「畜生……! みんな片づけろ! 殺せぇ!」
おとり役の男が、指のなくなった右手を左手で押さえながら喚いた。出血のせいか顔色が真っ白になっている。その叫びを合図に、男たちは再び殺気を漲らせてナタレとフツに向かった。
フツはにやりと笑って、肩から孤を描くようにして剣を振り下ろした、当然、その先端は狭い路地の壁にぶつかって引っ掛かる。
「あ、あれ?」
「馬鹿か。考えろ」
予想通りの友人の失態を、ナタレは低く罵って、自らはリリンスを庇いつつ短剣を構え直す。この場では長剣を使うよりも、接近戦に持ち込んだ方が有利だと判断した。
結局フツは、向かってくる敵に対し膝蹴りを食らわせた。つんのめった顎へ、渾身の力で拳を叩き込む。腕力ではナタレよりも勝っているのだ。
ナタレの方は相手の攻撃を巧みに掻い潜り、胸元で刃を薙ぐ。辛くもかわしたところへ、一瞬で剣を右手に持ち替え反対側から攻撃――男の衣服が大きく斬れて、赤い飛沫が跳ねた。両利きの彼だからこそ可能な、変則的で避けるのが難しい動きだった。
そんな二人を、リリンスは呆然と眺めていた。見惚れていた、というのが正しい。
学友でもある少年たちの戦い方は対照的で、どちらも見事で、彼女は素直に感嘆したのだ。神経が高揚して手先が震える。度を越した緊張が神経を異様に昂ぶらせているのかもしれない。
ただの喧嘩ではなく殺し合いに発展しそうだというのに、実際血が流れているというのに、彼女は興奮を止められなかった。
だから、大通りの方向から大勢の足音が近づいてきたのにも気付かなかった。
「剣を引け! 全員動くな!」
そんな怒号とともに、苔色の軍服姿の男たちが十数人現れるまで、彼女は戦いを見るのに夢中になっていたのだ。
彼らの諍いに割り込み強引に中断させたのは、王都を警護する憲兵たちだった。
リリンスとナタレ、フツの三人は、揃って憲兵隊の詰所に連行された。路地裏での乱闘に気づいた住民によって通報されていたらしい。
襲ってきた男たちは、手指を切断された重症者三名をはじめとして、残りの五名も骨折や切創を負って酷い有様だった。よく死者が出なかったものだと、取り調べをした憲兵が呆れたほどである。
男たちは窃盗団で、逆恨みを買って絡まれたのだというナタレの証言はいちおう信用された。昼間の市場でのいざこざを目撃していた商人たちから裏付けも取れていた。
しかし、無罪放免というわけには当然いかない。彼らは厳しくその身元を問われた。ナタレはリリンスを気遣って無言を貫いていたが、観念した彼女はついに真実を打ち明けた。
「第三王女と国王侍従だと? 信じられるか、そんな与太話」
憲兵が鼻で笑ったのも無理はない。リリンスたちは身分を証明するものを何ひとつ持っていなかったのだ。
正直に話せと迫られてリリンスが困り果てていたところへ、シャルナグがやって来た。広場からフツの後を追った彼は早々にその姿を見失ったが、騒ぎを聞きつけて憲兵の詰所へ顔を出したのだった。その場にいた憲兵全員が尻込みするほど不機嫌な顔だったのは言うまでもない。
王軍の最高責任者の登場に慌てた憲兵隊長は、さらに拘束した者たちの正体を耳打ちされ、蒼白になった。将軍は厳めしく首を振って、
「今回の一件について貴官らに何ら責任はない。取り急ぎ王宮に連絡を」
その結果――王宮から衛兵の小隊を引き連れた国王侍従長と王女付きの女官が駆けつけたのである。
第一章完結。次話より第二章に入ります。
次回更新は年明けになる予定です。それまでお楽しみに!




