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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第一章 凪の終わり
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襲撃者たち

 リリンスの母親ミモネは、彼女を育てながら『ねずの木』で働き続けた。

 王宮からの援助は必要最小限しか受け取っていなかった。国王との間に子を成しながら後宮へ上がることを拒否し、市井での自由な生活を選んだ代償だと、それはミモネなりのけじめだったのかもしれない。

 決して贅沢のできる暮らしではなかったが、母子2人が食べていくには十分だった。『ねずの木』の店主夫妻や近所の顔馴染みの協力もあって、リリンスは寂しい思いをしたことはなかった。


 父親であるセファイドは、月に何度かミモネの住まいを訪れた。そんな日は親子三人で街を歩き、買い物をしたり食事をしたり、ごく普通の家族と同じに過ごした。彼はリリンスをとても可愛がり、リリンスもまた優しい父が大好きだった。

 当時、下町界隈には母子家庭が珍しくなく――その多くは戦災未亡人であったが――リリンスはそんな生活に違和感を覚えたことはなかった。世の中には父親がいる家庭といない家庭があって、自分たちはその中間だ、と思っていた。他人から好奇の目で見られることもなかった。


 悪意のあるからかいを受けた記憶は、一度だけだ。リリンスが五歳くらいの時、近所の遊び仲間の男の子と軽いいさかいになり、その際に、


「おまえ、お妾さんの子なんだろ。うちの母ちゃんが言ってた、お妾さんはイヤラシイ女なんだって。やーい、妾の子!」


と、髪の毛を引っ張られた。


 めかけ、とは何なのかその時のリリンスは知らなかったけれど、ひどい侮辱を受けたのが幼心にも分かった。それでその子に思い切り頭突きを食らわせて、鼻血を噴かせてやって報復を果たした。

 家に帰って母に、お妾さんってなあに、と尋ねると、母は誰がそんなことを言ったのかと訊き返した。リリンスが正直に答えたところ、彼女は美しい顔を険しくしてリリンスの手を引き、部屋を出て行った。

 母はその足で娘をからかった男の子の家に乗り込み、出てきたその母親に怒鳴った。


「私が気に入らないのなら直接私を責めればいいじゃないの。娘は関係ない。子供を使って子供を苛めるなんて卑怯な真似、絶対に許さないわ。どうせ亭主にほったらかしにされてんでしょ、この欲求不満女! 今度やったらただじゃおかないからね!」


 リリンスの知る限り、母は気が強くて弱音など吐いたことのない女だった。その剣幕にびっくりしてしまったリリンスを抱き締め、母は迷いのない口調で語りかけた。


「おまえは何も悪いことはしていないのよ、リラ。何を言われても堂々としていなさい。アルハ様に恥じることは何もしていない。罰を受けるとしたら、それはお母さんだから」


 成長するに従って、リリンスにも自分と母の置かれた立場が少しずつ理解できるようになった。何か訳があって、父と母は一緒に暮らせない。それはたぶん父に、自分たちとは別の妻子があるからだ、と。

 父はいつも簡素ではあるが整った身なりをしていて、物腰や喋り方も、リリンスの近所に住む男たちとはどこか違っていた。誰に対しても気取りも恐れ気もなく接し、その態度は時に尊大にすら感じることがある。にも拘わらず、何となく許せてしまう雰囲気を彼はまとっていた。身分と職業を考えれば当然かもしれない。

 ただ、母だけはそんな父とよく対等に喧嘩をしていて、たいてい勝利を収めていた。母に言い負かされて、拗ねたような表情で黙り込む父は子供っぽかった。


 父がどこの誰なのか、どうやって知り合ったのか、母はリリンスに何も語らなかったけれど、娘の目から見て彼らは幸せそうだった。父は母と自分をとても大切にしたし、母も卑屈になったり嫉妬する様子を見せることはなかった。だからリリンスも幸せだった。父の素性については、自分がもう少し大人になればきっと話してもらえると信じていた。

 その前に母は他界し、彼女は否応なく自らの出自を知ることになるのだったが。





「ねえ、ナタレのお母さんはどんな人だったの?」


 ぽつぽつと自らの思い出を語った後、リリンスはナタレに尋ねた。

 二人とも路地裏の壁に凭れ、並んで紺色の空を眺めている。もう本当に帰らなければならない時刻であったが、会話を終わりにしたくなくてその場から動けなかった。

 いつの間にか人通りも途切れ、辺りは静まり返っていた。住宅地では夕餉の支度が始まっているらしく、いい匂いがうっすらと漂ってくる。

 ナタレはリリンスの問いに少し戸惑いながらも、誤魔化ごまかすことなく真摯に答えた。


「俺には母親の記憶はありません。母は俺を産んですぐに亡くなったそうです」

「そうだったの……」

「でも、育ての母はいます。父の側室で、兄や弟妹たちを産んだ女性です。元は正室であった母の侍女だったと聞きますが、俺のことを大事にしてくれました。だから寂しいと思ったことはありません」


 最後の部分にはいくぶん強がりが含まれていた。

 ナタレの生母は、ロタセイ王の正室となったものの長く子に恵まれず、自らの侍女であったイエパを夫の側室として推挙したのだという。イエパは多産の家系で、側室となってすぐに期待通り懐妊し、男児を産んだ。本来ならばその子が王太子としてロタセイの後継者になったはずだった。

 だが皮肉なことに、その二年後に正室もまた懐妊し、ナタレが生まれたのである。

 正室の子ではあっても嫡男ではない――ナタレはそんな微妙な立場で、後ろ盾となるべき生母は亡くなった。義母のイエパは優しかったが、寂しくなかったというのは嘘だ。 


 ナタレの複雑な胸中に思い至ったのか、リリンスは表情を曇らせた。切なげに。

 彼女もまた、母の死後に引き取られた王宮で見知らぬ人間に囲まれ、彼と同じような寂しさと疎外感を抱いていた時期があったのだ。


「私たち……境遇がちょっと似てるんだね」

「……今日こうやって街へ出て来たのは、ご自分の生まれ育った場所を見ておきたかったからだったんですね」

「そう。騙して連れ出すような真似しちゃって、ごめん」


 リリンスは軽く頭を下げて詫びた。ナタレは彼女の小さな策略を咎める気にはならなかった。

 どうして今、彼女はここに来たかったのか。それは――。


「先ほど姫様は、近々王都を出るとおっしゃいました。あれは本当のことなんですか?」


 遠慮がちなナタレの眼差しを、リリンスは肯いて受け止めた。隠すつもりはなかった。


「たぶん私、来年にはアートディアスに行くわ。結婚するの」


 彼女はナタレの動揺を探そうとした。わずかでも頬の筋肉が震えたり、息を飲んだりすればすぐに分かるはずだった。

 しかし彼はそんな気配は微塵も見せずに、ただ穏やかに微笑んだ。


「そうでしたか――おめでとうございます」


 自分でも意外なほどの失望が、リリンスの胸を覆った。ずしんと重い痛みに似ている。


「あ、ありがとう……でも、いいの? ナタレは……何も感じない?」

「それは……少しは心配です。遠く離れた国ですから、オドナスとは風習も環境も違うでしょう。でも姫様なら、どこへ行ってもきっと大丈夫ですよ」

「私のことじゃないわ。あなた自身はどうかって訊いてるのよ!」


 決められたような模範解答に、思わず声が大きくなって、リリンスは慌てて口を押えた。

 自分は何を期待して、何に失望しているのだろう。


「……あなたは平気なの? ナタレ、私がいなくなっても」

「姫様がお幸せに過ごされるのならば、俺が申し上げることは何もありません」


 彼の顔に貼りついているのは、練習したように端正な微笑だった。いつか来たるべきこんな日のために準備していたのかもしれない。

 本心じゃない、とリリンスは直感した。しかしその笑顔の鎧を剥ぎ取って奥にあるものを暴くのは、あまりにも彼に非礼だと思った。また自分にとっても許されることではない。このまま彼の祝辞を受け止めるのが最善の方法だと、王女は知り尽くしている。


「いいわ。もう帰りましょう」


 声に少し棘があるのは大目に見てほしかった。リリンスが壁から離れて歩き出すと、ナタレも無言で付き従った。

 その時、路地の奥に人の気配が湧いた。

  




 彼らの前に現れたのは、若い男たちだった。

 人数は五人。みな平凡な庶民の普段着に身を包んでいるが、腰には物騒な物を下げている。大振りの剣や、鉈や、太い棍棒――武器というより凶器である。 

 ナタレは素早く人数を数えながらリリンスを背後へ押しやった。どう見ても帰路を急ぐ通行人ではない。今まで気配に気づかないとは油断した、と舌打ちをする。


「ようやく見つけたぜ、お二人さんよ」


 先頭の男が顔を笑みの形に歪めて言う。ナタレもリリンスもその男の顔に見覚えがあった。昼間市場で出会った窃盗団の一人だ。最初に店先で怒鳴り散らしたおとり役で、騒ぎに乗じて逃亡してしまったはずだった。


「何の用だ。仲間を引き連れて仕返しか」


 ナタレは腰の剣に手を伸ばしつつ、男から目を逸らさない。武装した大人数が相手だ。今度は鞘から抜かざるを得ないだろう。

 男は路面に唾を吐いた。


「よくも商売の邪魔してくれたな、ガキども。おかげで仲間が二人も捕まっちまった。正義の味方気取るとどんな目に遭うか、俺たちがお仕置きしてやるよ」

「偉そうに言ってんじゃないわよ、このコソ泥が。お仕置きされるのはあんたたちの方よ」


 リリンスがナタレの後ろで言い返した。姫君は怯えるどころか怒っている。

 ナタレは少し安心した。この様子なら彼女はちゃんと走れそうだ。幸い、敵がいるのは路地の奥――自分が食い止めている間に、彼女だけ大通りに向かって走れば何とか逃げられる。

 男と仲間たちはにやにや笑っている。リリンスの姿を値踏みするように眺めて、


「綺麗な嬢ちゃんだなあ。売り飛ばせばさぞいい値がつくだろうが、この国には奴隷商人がいねえからな……代わりに俺らがたっぷり可愛がってやるよ」


 と、舌舐めずりをした。

 生理的な嫌悪感に身を震わせるリリンスに、ナタレはそっと告げた。


「ここは俺にお任せ下さい。姫様は反対側へ、大通りの方向へ走りなさい」

「駄目よ、ひとりで逃げるだなんて」

「そのための護衛です。大丈夫、俺は強いですから」


 ナタレは剣を抜き放った。触れれば切れるほどの緊張感がリリンスにも伝わってくる。彼が強いのはよく知っていた。しかしこんな状況で五人も敵に回して、無傷で済むとは思えなかった。


「来いよ、兄ちゃん」


 男たちもまた一斉に武器を抜いた。大仰な構えも剥きだしの殺気も、鍛錬を重ねた者のそれではない。しかし相手をなぶってやろうという意思だけは強く感じられた。


「行け!」


 ナタレはリリンスを反対方向へ強く押して、自分は男たちの前へ大きく踏み出した。

 先頭の男が幅広の剣で斬り込んでくるより先に、その懐に飛び込み、剣の柄で思い切り顎を殴り上げる。仰け反ったところに、鳩尾みぞおちへ肘を突き入れた。

 男の身体が大きく跳ね飛ばされ、背後の仲間たちにぶつかった。


 路地の狭さが幸いしたな――慌てて体勢を立て直す男たちを、ナタレは冷静に見極める。一人ずつ相手をしていけば時間が稼げそうだ。剣は振るいにくいが、それは向こうも同じだろう。

 実際、男たちの武器は相手を怯ませるためか必要以上にゴツくて、建物に挟まれた路地裏では大きく振り被れなかった。武骨な鉈が棍棒が壁にガツンガツンとぶつかる隙に、ナタレは素早く間合いを詰める。そして刃ではなく柄や鍔の角で、相手の鼻面や喉元に突きを入れていった。

 ぐっ、とか、ぎゃっ、とか、締められる鶏のような声を上げて、男たちはうずくまっていく。少ない力で最大の効果をあげる人体の急所を、ナタレは知り尽くしていた。しかも彼の身のこなしの速さと正確さは、学舎の剣術師範ですら舌を巻くほどのものだ。かつて御前試合でナタレと戦ったアノルトは、彼の剣筋を評して「兵士というよりは暗殺者向き」と言った。


 これなら何とか勝てそうだ。無用な流血も避けられる――ナタレがそう思った瞬間だった。


「小僧!」


 背後で野太い声が響いた。

 嫌な予感が悪寒となって全身を駆け上がり、ナタレは背を壁にして反転する。

 彼の目に映ったのは、強張ったリリンスの顔だった。苦しげに眉をひそめ、白い喉を仰け反らせている――その華奢な身体は、背後から太い腕で羽交い絞めにされていた。

国王とミモネの不倫愛憎劇については、番外編「幕間劇『追想』」第三話で詳しく描いています。ご興味のある方はぜひどうぞ。

と、宣伝してみる。


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