子どもと力と
一人の少年がベンチに座っている。
目の前には大きな空。ビルは競い合うように高くて、いつかはあの雲まで届くのだろう。
太陽を中心にして廻る雲と、水彩のように淡い空だけが少年の目に映っていた。
身なりは悪くない。空色のシャツと茶の短パンは、春風には少し肌寒かった。
まだ小学生か、七歳、いや六歳ほどだろうか。
大事そうに小さなセカンドバッグを抱えている。しかし、その小さな体ではバッグも大きく見えてしまう。
何かを待っているのだろうか。一心に、ただそれしか許されていないように空を見ている。
もし少年が視線を下ろしても、そこには鮮やかな色を行きかう人込みと、靴の隙間に映る長く続いたアスファルトだけだ。
誰も少年を振り返らない。
人込みなんて波のようなものだ。だとすればこの雑踏は波音とでも表現するべきか。
そして、波は水面に浮かぶ流木のために止まったりはしない。
ベンチに腰掛けていても、少年の姿は流されてしまいそうだ。
ちっちゃくて弱くても、誰も人波に溺れてしまった少年を助けることはしない。
声も出せず、少年は空を見ていた。
涙が出ないように、溢れてしまわないように上を見る。
そうしているうちに、水色が灰色に埋め尽くされていく。
雨が降る前に、聞きなれた声が迎えに来てくれるのだと信じていた。
例え幾万の人込みに溺れていたとしても、絶対に迎えに来てくれるのだと確信していた。
見上げていた空には、既に水色がない。
日が落ちてきたのだろう、空を覆う灰色が濃くなっていき、ビルは影絵のように色を沈めていく。
ぽたり、と、アスファルトを黒く染める雨。
とうとう降りだしてきた雨に、少年は差す傘もなくベンチに縮こまる。
あれほど煩かった波は引き潮のように引いて、誰一人道を歩かなくなった。
雨の通りを彩る傘を持つ人も、強く打つ雨の中から逃げていく。
逃げなかったのはベンチと、その上に腰掛けている少年くらいだった。
俯いて、雨音に声を混じらせる。その声は誰も聞き取られることもない。
笑い声なのか、泣いているのか、誰にも分からない。
俯いた頬から流れる雨は、何故だか少し量が多いように見えた。
それでも、少年はセカンドバッグを抱えて待ち続ける。
悴んだ手でチャックを引いて、中身を確認した。
中身は札束。輪ゴムでとめられた札束が幾つか入っている。
少年には札束なんてどうでもいいものだった。しかし、少年は母親がそれを集めていたのを知っている。
これだけの量を、母親が少年に預けたのだ。
取りに戻ってこないはずがない。
少年はそう確信していた。母親が迎えに来ないはずがないのだと。
だから大事にバッグを抱え、母親が困らないように別れた場所で待っていた。
幾ら雨に打ち付けられても、一心不乱に耐える。
冷たい雨は、少年の息を段々と奪っていく。
指先から始まり、四肢が竦んでいく。
泣きながら願った。
例え自分が目的でなくてもいい。バッグのついででもいいから迎えに来て欲しいと。
そこで気が付いた。少年には、そのバッグほどの価値もないのだと。
初めて、捨てられたのだと気付いてしまった。
×
ベンチには誰もいない。
打ち捨てられたセカンドバッグだけが、雨水を弾いた。
遠くで、空よりも遠くで誰かが少年を呼ぶ声を聞いた。
そう、何所よりも遠くで。