橘響夜 7月10日 午後5時57分 渡良瀬市 私立律明学園
物語内の時間経過が、某執事コメディー並に遅い事に気付きました。
そろそろ時間を先に進めるつもりです。
「やっと作業、終ったのか」
俺は校門とその塀に組み立てられた三つを見つめて、呟いた。
あの少女を助けたはいいのだが、そのお陰で皆の関心が可愛らしい少女にいってしまい、作業の能率がガクンと下がってしまったのだった。
俺は暮れ行く夕陽が照らすグラウンドを見つめた。
家庭科室では今ごろ、コックである尾上を筆頭とした調理チームが夕飯の支度をしている頃だろう。
今晩は洋食らしい。先ほど松山から聞いた話では、ハンバーグとシチューらしい。たしかにシチューは日持ちするのでいいチョイスだろう。ハンバーグは働いた分のエネルギーをきちんと補充することが出来る。流石はプロのコックの腕前だった。
「俺も早く行って、飯でも食うかな?」
今日の見張りに備えて、早めに夕飯を食い終えようというのが俺の考えだった。
ちなみに見張りは三回交代することになっている。
初めの見張りは全員の就寝から午前一時まで。二回目は一時から四時まで、最後は朝までだ。一応、今日は俺が初めに見張りを行い、次に準一。最後は朝比奈となっている。
今は白鳥か誰かが適当に見張っているだろう。
「さて、食堂に行くか」
俺は踵を返し、武道館へと向かった。
食堂である武道館は避難してきた小中高生で溢れかえっている。
その中には、今日修羅場をくぐり抜けてきた寛人の姿も見える。どうやら一緒に避難してきた四人の仲間と雑談を楽しんでいる様だった。ギャルっぽい女子高校生は仲間内でぎゃあぎゃあ騒いでいる。もちろん、左手には携帯電話を忘れていない。大人しく長いすに座って漫画を読んでいる女子生徒は俗に言う腐女子なのだろうか。
俺は空いている席に腰掛けた。ここは大人の席らしく、子供は座っていない。俺の隣の席が一つ空いているので、誰かが座るのだろうか。
そんなことを考えていると、
「あの、橘さん……ですよね?」
若干、幼い声が俺の耳に届いた。声の主は、俺がワクチンを打って感染を防いだ少女、島原和泉だった。
「ああ、そうだが。何か用か?」
俺はいきなりのことだったので、素っ気無く返事を返した。
「ええと、まだ助けてもらったお礼をちゃんとしてないと思うので……、改めてお礼をしたいなぁって」
「いいんだよ。そんなこと。俺は当然のことをしたまでだ」
「でも、貴方に会っていなかったら……今、私はここにいません」
俺は健気に、そして真剣な瞳でそう訴えかけてくる少女を見て、ますます麻里と重ね合わせてしまった。明るい所で見れば、より麻里に似て見える。正直に言えば、生き写しだ。
「まあ、次からは噛まれないようにしろよ。何度もワクチンは使えないからな」
「はい。気をつけます」
そう言って和泉は笑った。
俺も笑顔で返し、そこである事実に気付く。食堂の一部の男子の視線が明らかに自分に集まっている。そして明らかな殺意が篭っていた。
俺は軽く咳払いし、和泉を食事の席へと促した。和泉は大して気分を害した風もなく、自分の席へと戻っていった。
思春期の男子が多いここでは、ああいったことは控えたほうがいいのだろう。面倒な事態だけは避けたい。別に俺は教師でも何でもないので、ここの男女の間で不純異性交遊があったとしても、別に何とも思わないが教師は色々と五月蝿いのではないだろうか。何よりも十八歳未満は犯罪だし。
「面倒になったねえ。俺の学生時代はそこまで厳しくはなかったんだがなあ」
独り言がつい、口から漏れる。
そんなことを考えているうちに、給仕と思わしき女子生徒がハンバーグとシチューを俺の前に置いてくれた。俺は少女に笑顔で礼を述べた。
何故かその少女は急に顔を赤らめ、走っていってしまった。なにかまずい事でもしただろうか。
「ま、そんな事よりも飯だな。さっさと食って、さっさと見張りでもするか」
俺は箸を手に持ち、ハンバーグを口に運んだ。
「あら、お一人ですか?」
不意に女性の声が響く。
俺が横を向くと、空いていた隣の席に浅代が座った。美しい笑みを浮かべ、俺のことを興味深げに見ている。
「ああ、浅代か。どうした?お前こそ一人か?」
「ふふ、私はあまり異性と接しませんので。私は橘さんのような紳士的な方とゆっくりとお話するのが、一番の趣味なんですよ」
俺も自然と笑みがこぼれる。
「俺を紳士的と言うか。いいか、男は皆、羊の皮を被った狼なんだぞ。覚えとけ。まあ、俺は違うがな」
冷静に、冗談を交えて言葉を返す。
不謹慎かも知れないが、こういった状況での穏やかな会話は結構、楽しかった。状況が状況だから、誰かと雑談をすると気が楽だというのもある。
なんか楽しんでるじゃねえか。
俺は心の中で呟いた。
確かに俺たちは明日死ぬ可能性もある。それでもこんなに笑えるのは、ある意味一種の才能かも知れない。或いは、本当に気が狂ったかだ。
しかしまだ俺はマトモだ。
「ねえ、ワクチンを見せてくださる?」
心の中で葛藤をしていた俺は、浅代の質問で脳の思考を中断された。
「ワクチン?ああ、まだ三個残ってるが……、何故だ?」
「実は本社から、ワクチンの研究を命じられているのです。それでサンプルを一つ頂きたいのですが……」
そう言った浅代の顔には意味ありげな笑みが浮かんでいる。
「まあ、一つくらいならいいか。くれてやる。ただ、無駄遣いはするなよ」
「努力しますね」
俺は冗談交じりの浅代の言葉を聞き流しながら、ワクチンを渡した。そして最後のハンバーグの欠片を口へと運んだ。そして立ち上がる。
「じゃ、俺は見張りに行く。出来たら頼みごとがあるのだが……」
「構いませんが、どうぞ」
「ああ、和泉とかは男子生徒から離して寝かせてくれ。一応、トラブルは避けたいからな。俺は男女のドロドロした問題は御免だ」
「分かりました。そのように皆に伝えておきます」
「頼んだ」
俺は89式小銃を掴み、屋上へと向かった。
屋上では白鳥が暗視スコープ片手に見張り番をしていた。
俺は近づき、話し掛ける。
「よお、白鳥。どうだ?」
白鳥は首を横に振った。
「特に以上はありませんよ。奴らは町中を徘徊しています。昨日と違って、獲物が少ないみたいですけどね」
「そうか。生存者は?」
「まだ明かりが灯っている建物がいくつかありますが、外に出てこないんで、生きてるかどうかは分かりませんよ」
そこで白鳥は思い出したように、話し始めた。
「そうでした。実はここから一キロほどの地点にある警察署なんですが、どうやら軍用のハンビーがあるんですよ」
「マジか?それは大発見だぞ」
「ええ。だから明日にでも取りに行ったほうがいいんじゃないですかね?」
俺は無言で頷き、暗視スコープを白鳥から受け取った。
「さあ、見張りは交代だ。飯でも食って来い。さっさと寝ちまえよ」
「お言葉に甘えて」
白鳥はそそくさと校舎内に入っていった。
俺は夜だというに蒸し暑い風を受けて、服の襟を広げた。こんな状況だというに、星は綺麗だった。
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