3 勧誘
香織は、均の妻である。
香織は、混み合うコーヒーショップのテラス席でコーヒーを飲む女性の前を通り過ぎようとした。
その女性が視界の端に、引っかかって剥がれない。振り返ったら、失礼かと思ったが、振り返らずにはいられない。
スマホを見るフリをしながら立ち止まって、ゆっくりと振り返る。
止まった香織に気づいた女性が顔を上げる。
その顔と目が合った。思いっきりタイミングがあってしまった。顔を見たくて振り返ったのはあからさまであろう。
人違いでした、などの挨拶をして、やり過ごすしかないかもしれない、など考えていた。
しかし、その顔を見て、香織は息を呑んでしまった。
座っている女性が先に口を開いた。
「私たち、似てますね」
照りつける夏の日差しの下だが香織の背中に冷たい汗が流れる。何か見てはいけないものを見てしまったような気分である。
「失礼しました。ジロジロ見てしまって」
香織は申し訳ない気持ちをとりあえず伝える。
その間も、ずっと座っている女性の目を見続けてしまった。
「ちょっと座りませんか」女性に席を薦められて、向かいに座る。
「私たち、そっくりですよね」
プラスチックの椅子を引いて、香織は席につく、正面で同じ高さになり、女性の顔をまじまじと覗き込むように見る。
「何か飲む?」
「あ、私頼んできます」
「いいのよ、きっと私のが年長だから」
「え、いや」
「まあまあ座ってて、アイスコーヒーでいいかしら」
「はい、それじゃ。すみません。アイスコーヒーでいいです。
ありがとうございます」女性は立ち上がってドリンクカウンターに注文に向かった。立ち上がった時に、ふわっと、いい香りが流れた。なぜか少し懐かしい気分に包まれた。
自分とそっくりな女性はアイスコーヒーを買ってきてくれて元いた席についた。
「ありがとうございます。すみません、はじめてあったのに、ご馳走していただいて」
「いいですよ。こちらから声をかけたんだから。お仕事の時間は大丈夫?」
「いつもは早いんですが、今日は、デスクワークだけにしているので、ちょっと余裕がある日なんです」
周りの人たちから見たら、さぞや不思議な光景であろう。そっくりな2人が面と向かって話し合っているのだから。
しかし単に双子であろう、くらいにしか思わないのかもしれない。周りからの視線は感じない。
「お仕事忙しいんですか」
「そうですね。業界もあって、割と忙しい方だと思います」
女性はしっかりとアイロンがかかったワンピースを着ている。洗濯機で洗ってノンアイロンで済むものではなさそうだ。
忙しく過ごしている自分には、身だしなみにそんな手間はかけられないな、と香織は思っていた。
アイロンをかける、なんて信じられない手間だと思う。クリーニングも毎日のこととなれば高額だ。
きっと余裕のある暮らし、丁寧な暮らしをしているのだろう、そんなことを考えながらワンピースを見ていた。
「これ、ポリエステルが多く入って、ノンアイロンなの。洗濯機で洗えて、ちょっと信じられないでしょ」
まさに考えていたことを女性が口にしたので、香織は驚いた。
「え、ほんとですか。そんなワンピース、ちょっと欲しいかも。いいですね」
「アイロンなんて、かけてられないわよ。20世紀じゃないんだから」
「そうですよね。わかります」
「まさか、夫のワイシャツのアイロンがけなんてさせられてる?」
ちょうどそのことを考えていた。香織はたまに夫のシャツにアイロンをかけている。
ノンアイロンのシャツが足りない時、クリーニングが間に合わなかった時、夫が自分でかけたアイロンがあまりに酷かった時だ。
女性は、香織の表情を見て頷きながら、
「それは虐待ね」
と笑った。香織も思わず笑った。
「夫を取り替えたい、って思うことない?」
女性はアイスコーヒーの氷をかき混ぜながら、悪戯っぽく聞いた。
「そんなの年中ですよ。
よその優秀な夫の話よく聞くじゃないですか。そういう奥さんはラッキーだなと思います。
ただ、取り替えたいのか、いなくなって欲しいのかは、ちょっとわからないですけど」
香織も冗談めかして返す。
「優秀な夫も、きっと面倒なことがありそうじゃないですか」
「そうよね。同じだったりして、みたいな」女性も笑う。
そして
「それなら、自分が取り替えられる、っていうのはどう?」
「どういうことですか?」
「あなたが別人になる、っていうことよ」
「そうですね、それの方が、興味あるかもです」
女性はにこりとして香織の目を見つめた。
「これって何かの勧誘ですか?」香織が女性に聞く。
「そうね、勧誘といえば勧誘なのかも。でもお金をとったり、何かを売りつけたりするつもりはないわ。あなたに興味があるだけよ」
「ふーん」と香織は曖昧に返事しながら女性の顔を見る。鏡に写したようなそっくりの顔が喋り、動いている。しかし左右が反転して見える。鏡では無いからだ。不思議な感覚になる。
「別人になる方法は、女なら簡単で、メイクするだけよ」
「そうですよね。メイクで全然変わりますからね」
「私、いろんなメイクができるし、自分と同じ顔なら尚更上手にできると思うの。メイクさせてみてくれない?」
「これからですか?」
「今日時間あるんでしょ。メイクルームがあるし、面白いと思うよ」
強引でそっくりな女性に半ば流され、香織は渋々承諾する。
「私は、そうね・・・、瞳見よ」
「瞳さんですか。私は香織です。メイクしてみます」
瞳見は誰かに、ビデオ通話をかけた。
「今から家を出るけど、どこで待ち合わせればいいんだっけ?」
そう言いながら、こっちに画面を向ける、香織の顔がカメラに映った。
相手側の画面には見慣れた均の顔が映った。
「え、私のスマホ?」
均が何か考えている
「ああ、えーとえーと、待ち合わせ場所は・・・、え、駅とか?」
画面の中の均が答えた。
「わかったわ、駅ね。9時には着くと思います」瞳見はそういうと、ビデオ通話を切った。
「そういうことだからもうすぐ、夫が迎えにくるわ」
「あなたの顔見てもわかってなかったわね」
瞳見は悪びれもせず楽しそうだ。
「もう、勝手なことしないでくださいどういうことですか」
香織は半ば呆れ、瞳見に詰め寄る
「私たちと、ゲームをしない?」
「私たち?ゲーム?」
瞳見が、香織の方に手をおいて、鏡を覗き込む。
「そう、あなたは、別人になりきる」
ゆっくりと目を見ながら、瞳見は続ける。ほのかに甘い匂いが香織をくすぐる。
「そして、あなたの夫は訳あってあなたを別人だと思い込んで接してくる」
「そんなこと・・・、」
そう言いかけて、さっきの様子を思い出した。もう別人だと、思っているかもしれない。ありえることだ。
「あなたの夫が、あなたに気がついたら、あなたの勝ちよ」
「もし気がつかなかったら?」瞳見がいう。
「それは、その時になってみないとわからない」香織が答える。
香織は、優しく微笑んで瞳見を見る。
鏡の中に座っている美人が頷く。
二人は、これまで来ていた服を交換して着替える。そしてヘアメイクを仕上げる。
「ほんと、別人ね。今日は、瞳見、ってことで」
「そうですね。私でもよくわからなくなります。メイクってすごいですね。この服も軽くて着心地良くて、すみません、お借りしちゃって」
「いいの、いいの。楽しんできて。仕事は、任せといて、うまいことやっておくわ」
「せっかくだから、記念写真撮りませんか?」
香織は、スマホを取り出して、カメラを構えて、二人でポーズをとって記念写真を撮った。
瞳見が、バッグからハンドクリームを出して、手に塗ってくれる。
「なんか、いい匂いがすると思ってたけど、これだったんですね」
「そう?」瞳見は、ハンドクリームが塗り終わった手を、軽く握りながら「おまじないよ」と笑った。
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