第9話 覚醒した英雄、王城へ「掃除」に行く
「掃除に行こうか。……一番大きな『ゴミ』を捨てに」
シリス様は私の手を握り、静かにそう告げました。
その瞳は、凍てつくような冷たさと、私への熱っぽい色が混ざり合った、不思議な輝きを帯びていました。
「喜んでお供します。分別はお任せください」
私が頷いた瞬間、視界が歪みました。
浮遊感と共に、周囲の景色が北の森の緑から、豪華絢爛な石造りの広間へと切り替わります。
転移魔法。
一瞬で数百キロを飛び越える、大魔導師の特権です。
「……うっ」
到着した瞬間、私は鼻を押さえました。
臭いのです。
腐った生ゴミと、下水の臭いが混じり合った、暴力的な悪臭。
ここが王城の「玉座の間」だとは、信じたくない現実でした。
「な、何だ!? どこから現れた!」
広間に悲鳴が響き渡りました。
目の前には、玉座に座る初老の国王陛下と、その足元で何やら言い訳をしているエドワード殿下の姿がありました。
周囲には高位貴族たちも列席しています。
どうやら、緊急会議の真っ最中だったようです。
「ち、父上! これです! こいつらが元凶です!」
泥だらけのエドワード殿下が、私たちを指差して叫びました。
「この男です! 正体不明の魔術師を使い、ヴィクトリアが城にテロを仕掛けてきたのです! 今すぐ捕らえてください!」
彼はまだ懲りていないようです。
これだけの悪臭の中で、よくもまあペラペラと嘘が出てくるものです。
「……静かに」
シリス様が、たった一言、呟きました。
それだけで、広間の空気が凍りつきました。
エドワード殿下の声が喉で詰まり、衛兵たちの動きが止まります。
圧倒的な「格」の違い。
シリス様が纏う魔力は、王の威光すら霞ませるほど重厚で、神々しいものでした。
「国王陛下。お初にお目にかかります」
シリス様は優雅に一礼しました。
その所作は、どこの貴公子よりも洗練されています。
「北の離宮の主、シリスと申します。……もっとも、以前は『北の賢者』などと呼ばれていましたが」
「な……っ!?」
国王陛下が玉座から身を乗り出しました。
「北の賢者……? あの、国を救った大英雄シリスか!? しかし、彼はもっと……こう、むさ苦しい姿だったはずだが……」
「ヴィクトリアが綺麗にしてくれましたので」
シリス様は誇らしげに私の肩を抱きました。
会場中の視線が私に集まります。
「あの地味な令嬢が?」「嘘だろう、あんな美男子が英雄様?」というざわめきが波紋のように広がりました。
「ち、父上! 騙されてはいけません! そいつは詐欺師です! 私の報告を信じてください!」
エドワード殿下が必死に食い下がります。
「ヴィクトリアは呪いを使い、仕事をサボり、あろうことか私に暴力を振るいました! これは国家反逆罪です!」
「……やれやれ」
私は溜息をつきました。
嘘をつくなら、もっとマシな嘘をつけばいいのに。
掃除のプロとして、汚れ(嘘)を見過ごすわけにはいきません。
「殿下。証拠はありますの?」
「証拠だと!? この城の惨状が証拠だ! 貴様がいなくなってからこうなったのだから、貴様の呪いに決まっている!」
「いいえ、違います。それは単に、『誰も掃除をしていないから』です」
私は一歩前に進み出ました。
「私がいた頃、城の浄化魔導具は毎日メンテナンスされていました。排水溝のヌメリは三時間おきに取り除き、空気清浄の術式には私が魔力を補充していました。……殿下が『地味な仕事だ』と馬鹿にしていた、それらの作業のおかげで、この城は清潔だったのです」
「な、何を……そんなこと、報告にはないぞ!」
「ええ、側近の方々が手柄を横取りしていましたからね。書類上は『聖女マリアの祈りのおかげ』になっていたはずです」
私が淡々と事実を述べると、列席していた貴族たちが顔を見合わせ始めました。
思い当たる節があるのでしょう。
「黙れ黙れ! この嘘つき女が!」
エドワード殿下が逆上し、剣を抜こうとしました。
「見苦しい」
シリス様が冷たく言い放ち、右手を掲げました。
「論より証拠だ。……過去を見ればいい」
彼の指先から、眩い光が放たれました。
それは天井のシャンデリアに反射し、空中に巨大なスクリーンを作り出します。
《過去視》。
この場所に刻まれた記憶を再生する、失われた古代魔法です。
『君のように可愛げのない女は無理だ!』
『書類仕事など、誰にでもできる!』
『この掃除道具、邪魔なんだよ!』
映し出されたのは、数ヶ月前のエドワード殿下の姿でした。
私に暴言を吐き、私が徹夜で仕上げた書類を破り捨て、掃除用具を蹴り飛ばす。
そして、側近たちと笑いながら「ヴィクトリアの手柄を聖女のものに書き換えろ」と命じているシーンまで、鮮明に再生されました。
「な、な、な……っ!?」
エドワード殿下は顔面蒼白になり、パクパクと口を開閉させています。
さらに映像は続きます。
私を追放した後、城が汚れていく様子。
聖女マリアが「祈るだけで掃除をしない」ために、トイレが詰まっていく過程。
そして、殿下が「これは呪いだ!」と責任転嫁する瞬間。
全てが、白日の下に晒されました。
「……これでも、彼女の罪だと言うのか?」
シリス様が映像を消し、静かに問いかけました。
広間は水を打ったように静まり返っています。
悪臭すら忘れるほどの衝撃でした。
「……エドワード」
国王陛下の低い声が響きました。
怒りを超えて、呆れと失望を含んだ声でした。
「ち、父上……これは、捏造だ! 幻覚だ!」
「黙りなさい。……余の目は節穴ではない。シリス殿の魔法に、偽りがないことくらい分かる」
陛下はゆっくりと立ち上がり、息子を見下ろしました。
「自分の無能を棚に上げ、無実の令嬢を追放し、あまつさえ英雄に剣を向けた。……もはや、弁解の余地はない」
「ひぃっ!?」
「衛兵! エドワードを捕らえよ! 廃嫡の上、地下牢へ幽閉する! 側近たちも同罪だ、全員連行せよ!」
「ま、待ってください! 私は王太子だぞ! 離せ! くそっ、ヴィクトリア! 覚えていろーッ!」
殿下は衛兵たちに羽交い締めにされ、ズルズルと引きずられていきました。
その姿は、かつて私を森に捨てた時とは逆の、哀れな敗者の末路でした。
騒動が去り、広間に再び静寂が戻りました。
国王陛下が、疲れた顔で私たちに向き直ります。
「……ヴィクトリア嬢、そしてシリス殿。息子がすまなかった」
「謝罪は結構です」
シリス様は素っ気なく答えました。
「僕たちが求めているのは、言葉ではなく行動です」
彼は私の腰を引き寄せ、宣言しました。
「今後、北の離宮への一切の干渉を禁じます。税も、義務も、王命も受け付けません。あそこは僕たちの聖域です」
「……分かった。英雄シリスの独立領として認めよう。……それで、ヴィクトリア嬢をどうするつもりだ?」
「決まっています」
シリス様は、まるで宝物を見せびらかす子供のような顔で、私を見つめました。
「彼女は僕の妻になります。……文句のある人間は、僕が消します」
広間がどよめきました。
プロポーズと脅迫が同時に行われるなんて、前代未聞です。
でも、不思議と嫌な気分ではありませんでした。
「シリス様……まだ『はい』と言っていませんよ?」
「断るの?」
彼が不安そうに眉を下げました。
その表情が可愛くて、私は思わず吹き出してしまいました。
「いいえ。……私を一番綺麗にしてくれるのは、あなたですから」
私は彼の手を握り返しました。
周囲の貴族たちが、呆気にとられた顔で私たちを見ています。
汚れた王城の中で、私たち二人だけが、スポットライトを浴びたように輝いて見えたことでしょう。
「行きましょう、ヴィクトリア。ここは空気が悪い」
「ええ。早く帰って、お風呂に入りたいですわ」
シリス様が再び指を鳴らしました。
転移の光が私たちを包み込みます。
最後に見たのは、深々と頭を下げる国王陛下と、羨望の眼差しで見つめる貴族たちの顔でした。
さようなら、私の過去。
そして、ざまあみろ、私の元婚約者。
これにて、大掃除は完了です。




