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潔癖令嬢の断捨離婚 汚れた英雄を丸洗いしたら溺愛されました  作者: 月雅


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第8話 元婚約者が土下座しても帰らない



これほど滑稽な光景が、かつてあったでしょうか?


「……おい、聞いているのかヴィクトリア! これは王命だぞ!」


私の目の前で喚き散らしているのは、この国の次期国王、エドワード殿下です。

いえ、正確には「エドワード殿下だったもの」と言うべきかもしれません。


彼の金色の髪は脂ぎってペタリと張り付き、豪華な軍服には謎の茶色い染みが点在しています。

何より、風に乗って漂ってくる臭いが致命的でした。

生乾きの雑巾と、下水を煮詰めたような芳醇な香り。


私は無意識にハンカチで鼻を覆い、二歩ほど後退りました。


「……お久しぶりです、殿下。随分と、ワイルドな装いになられましたね」

「誰のせいだと思っている! 貴様が城に呪いをかけたせいで、王城は今、糞尿の海に沈みかけているのだぞ!」


彼は血走った目で叫びました。

後ろに控える数名の近衛兵も、疲れ果てた顔で槍を支えに立っています。


どうやら、第6話でシリス様が追い返した騎士たちの報告は、彼には届いていないようです。

あるいは、届いていても理解できなかったのか。

彼らは懲りずに、また私のピカピカに磨いた玄関ポーチを土足で汚そうとしています。


「呪い? 何のお話でしょう。私はただ、ここで静かに暮らしているだけですが」

「しらばっくれるな! 貴様がいなくなってから、トイレは逆流し、風呂からはヘドロが湧き、食堂にはゴキブリの山だ! マリアの聖なる祈りも効かん!」


(ああ、なるほど)


私はすべてを察しました。

呪いなどではありません。

単に、私が夜な夜な行っていた「隠密清掃」と、城の浄化システムのメンテナンスが途絶えただけです。

彼らが「自動で綺麗になる」と思っていたあれは、私の無償労働の結晶だったのですから。


「それは残念ですね。ですが、私には関係のないことです」


私は冷ややかに告げました。


「私は追放された身です。不敬罪で捨てられた女が、どうして城のトイレ掃除に戻らなければならないのですか?」


「だ、だから!」


エドワード殿下は焦ったように言葉を継ぎました。


「許してやると言っているのだ! 貴様の罪を不問にし、再び側室として……いや、筆頭女官として雇ってやる! 光栄に思え!」


「……は?」


耳を疑いました。

正妻の座を剥奪し、死地に追放しておいて、今度は「掃除係として戻れ」と?

しかも「許してやる」という上から目線で?


私の心の中で、何かが冷たく冷え切っていく音がしました。

怒りすら湧きません。

ただ、目の前の男が「分類不可能な粗大ゴミ」に見えるだけです。


「謹んで辞退いたします」


私はにっこりと、営業用の笑顔で答えました。


「ここは空気も綺麗ですし、床もピカピカです。悪臭漂う王城に戻るメリットが、私には一つもございませんので」


「な……っ!?」


殿下の顔が赤く染まりました。


「貴様……この俺に恥をかかせる気か! いいから来い! 力ずくでも連れて行くぞ!」


彼は堪り兼ねたように、私の腕を掴もうと手を伸ばしました。

その爪の間には、黒い垢が溜まっています。


(汚い!)


生理的な嫌悪感が走り、私が身を竦めた、その時です。


「――触るな」


ドォォォォォン!!


大気が悲鳴を上げました。

空から雷が落ちたような轟音と共に、エドワード殿下の体が真横に弾き飛ばされました。


「ぐはっ!?」


彼は地面をごろごろと転がり、庭の泥水の中に顔から突っ込みました。

後ろにいた兵士たちも、見えない圧力に押し潰され、その場に平伏しています。


「……シリス様」


私が振り返ると、そこには鬼の形相をしたシリス様が立っていました。

銀髪が逆立ち、全身から紫色の魔力がオーラのように噴き出しています。

その瞳は、凍てつくように冷酷でした。


「僕のヴィクトリアに、その汚い手で触れようとしたね?」


一歩、彼が足を踏み出すたびに、地面がひび割れ、空間が歪みます。

それは、トラウマを克服して全盛期の力を取り戻した、大魔導師の純粋な怒りでした。


「ひっ、ひぃぃ……!?」


泥まみれになったエドワード殿下が、顔を上げて後ずさりました。

彼は目の前の青年を見て、恐怖で唇を震わせています。


「だ、誰だ貴様は! 魔法使いか!? 衛兵、やれ! 殺せ!」


しかし、衛兵たちは動けません。

シリス様が放つ圧倒的な「格」の違いに、本能レベルで屈服しているのです。


「殺す? 君が、僕を?」


シリス様は冷笑を浮かべ、指先を殿下に向けました。


「百年早いよ、坊や」


ヒュンッ。

シリス様の指先から、小さな光弾が放たれました。

それは殿下の足元に着弾し、爆発します。


「うわぁぁぁ!」


殿下は腰を抜かし、無様に尻餅をつきました。

その拍子に、彼の股間あたりから、じわりと暗い染みが広がっていきます。

……ああ、お漏らしですね。

精神的にも、物理的にも、限界だったのでしょう。


「……な、なんだその力は……」


殿下は涙目でシリス様を見上げました。

その美しい銀髪と、紫の瞳。

そして、この規格外の魔力。

この国の王族なら、歴史の教科書で必ず見たことがあるはずです。


「ま、まさか……」


殿下の顔から血の気が引いていきます。


「『北の賢者』……大魔導師シリス……なのか?」


「気づくのが遅い」


シリス様は私の腰に手を回し、守るように抱き寄せました。

そして、ゴミを見るような目で殿下を見下ろしました。


「ヴィクトリアは僕の婚約者だ。二度と『掃除係』なんてふざけた用件で近づくな」

「こ、婚約者……? そんな、馬鹿な……」


殿下は呆然と呟きました。

自分が捨てた「地味で堅物な女」が、世界最強の英雄に溺愛されている。

その現実は、彼のプライドを粉々に粉砕するには十分すぎたようです。


「帰れ。今なら命だけは見逃してやる」


シリス様が低く唸ると、殿下は「ひぃっ!」と悲鳴を上げ、這いつくばって逃げ出しました。

兵士たちも慌てて主君を担ぎ上げ、脱兎のごとく森の奥へ消えていきます。


後に残ったのは、静寂と、彼らが残していった悪臭だけ。


「……行っちゃいましたね」


私が呟くと、シリス様はふぅと息を吐き、魔力を収めました。

そして、心配そうに私の顔を覗き込みます。


「大丈夫? 触られなかった?」

「ええ。間一髪でした」


私はハンカチで、汚れた空気を払う仕草をしました。


「ですが、困りましたね。彼らが諦めるとは思えません。城が汚れている限り、また来るでしょう」

「……そうだね」


シリス様は少し考えてから、私の手をギュッと握りました。

その瞳には、決意の光が宿っています。


「ヴィクトリア。掃除に行こうか」

「え?」

「一番大きなゴミを、捨てに。……王城へ」


彼の提案に、私は目を丸くし、それからふふっと笑いました。

ええ、そうです。

汚い場所を放置するのは、私の流儀に反します。

たとえそれが、国の中枢であろうとも。


「喜んでお供します、シリス様。大掃除の時間ですね」


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