第5話 王都の崩壊、あるいはゴミの逆襲
ヴィクトリアをこの王城から追放して、今日でちょうど一ヶ月になる。
「……おい、どうなっているんだ!」
俺は執務机を拳で叩きつけた。
書類の山が雪崩を起こし、床に散乱する。
だが、それを拾おうとするメイドは一人もいない。
なぜなら、彼女たちは今、廊下で発生した「謎の粘液漏れ」の処理に追われているからだ。
「なぜ俺の探している『西方貿易協定書』が出てこない! 昨日ここに置いたはずだろう!」
俺が怒鳴ると、側近の男が青い顔で縮こまった。
「も、申し訳ありません殿下! ですが、書類整理を担当していた文官が『棚の配置が勝手に変わっている』と申しておりまして……」
「棚が歩くわけがあるか! 無能共め!」
俺は苛立ち紛れに羽根ペンを投げ捨てた。
ペン先が潰れ、インクがカーペットに黒い染みを作る。
以前なら、こういう染みは翌朝には綺麗に消えていたはずだ。
だが今は、一週間前のコーヒーの染みすら、カビが生えたまま残っている。
「くそっ、あの女……ヴィクトリアめ」
俺はギリリと奥歯を噛み締めた。
元婚約者である伯爵令嬢、ヴィクトリア。
地味で、口うるさく、華やかさのかけらもない女だった。
俺が少し羽根を伸ばそうとすれば、「公務が」だの「予算が」だのと小言ばかり。
だから俺は、彼女を捨てた。
代わりに、天使のように愛らしい聖女マリアを選んだのだ。
マリアは良い。
俺のすることに文句一つ言わず、いつもニコニコと「殿下は凄いです」と褒めてくれる。
はずだった。
「殿下ぁ~……」
執務室の扉が開き、そのマリアが入ってきた。
しかし、いつもの笑顔はない。
彼女は鼻をつまみ、涙目で俺に駆け寄ってきた。
「くさいですぅ! 廊下が、下水の臭いで充満してて……ドレスに臭いがついちゃう!」
「何だと? 下水?」
俺は眉をひそめた。
王城の衛生管理は、最高位の魔導具によって自動化されているはずだ。
汚水は浄化され、空気は清浄に保たれる。
それが王族の特権だ。
「おい、魔導具技師を呼べ! 故障か?」
俺が叫ぶと、側近が絶望的な顔で答えた。
「それが……技師によれば『配管に謎の異物が詰まっており、浄化魔法が逆流している』と。修理には数日かかるとのことです」
「数日だと!? その間、この悪臭の中で執務をしろと言うのか!」
「は、はい……さらに、中庭の噴水からは泥水が噴き出し、食堂ではゴキブリの大量発生が確認され……」
「ええい、黙れ黙れ!」
俺は頭を抱えた。
おかしい。あまりにも異常だ。
ヴィクトリアがいなくなるまでは、こんなことは一度もなかった。
コップの水は常に清冽で、窓ガラスは一点の曇りもなく、空気は森のように澄んでいた。
これは偶然ではない。
俺の優秀な頭脳が、一つの結論を導き出した。
「……呪いだ」
俺は確信を持って呟いた。
「呪い? ですか?」
「そうだ。あの陰気な女だ。追放された腹いせに、城の魔導具に細工をしたに違いない!」
そうでなければ説明がつかない。
あの女は、異常なまでに掃除にうるさかった。
きっと、その執着心で城全体に「汚れる呪い」をかけていったのだ。
「許さんぞヴィクトリア……! 俺を困らせて、泣いて謝らせようという魂胆か!」
俺は立ち上がり、マリアの手を取った。
「マリア、君の出番だ。君の聖なる祈りで、あの女の薄汚い呪いを浄化してくれ」
「えっ? わ、私が?」
マリアはきょとんとしている。
「そうだ。君は聖女だろう? 祈れば光が降り注ぎ、すべてが清められる。そう言っていたじゃないか」
「あ、はい! そうです! 私が祈れば、キラキラ~ってなって、綺麗になります!」
マリアは自信たっぷりに胸を張った。
やはり彼女こそが本物だ。
ヴィクトリアのような陰湿な工作とは無縁の、純粋な光。
「頼むぞ。まずはこの執務室からだ」
「任せてください、殿下!」
マリアは部屋の中央に立ち、可愛らしく両手を組んだ。
「えーっと……悪いもの、飛んでいけ~! キラキラ~!」
彼女の体から、淡い光の粒が舞い散る。
演出としては悪くない。
俺は期待して見守った。
しかし。
ボコッ。ボコボコッ。
部屋の隅にある観葉植物の鉢から、不気味な音が聞こえてきた。
見ると、土の中から黒いヘドロのような泡が湧き出し、溢れてくるではないか。
「ひっ!?」
マリアが悲鳴を上げる。
光の粒に反応したのか、ヘドロは勢いを増し、カーペットを浸食し始めた。
「な、なんだこれは!? 浄化しているんじゃないのか!?」
「わ、わかりません! いつもならこれで『すごーい!』って言われるのに!」
マリアがパニックになって逃げ惑う。
ヘドロはまるで意思を持っているかのように、俺の足元へ迫ってきた。
『不衛生です……掃除ヲ……掃除ヲ……』
どこからか、怨嗟のような声が聞こえる。
これは、城に溜まった「汚れ」の精霊たちの声か?
「ひいぃっ! 殿下、助けてぇ!」
「ええい、離せ! 俺の服に泥がつくだろう!」
俺はマリアを振り払い、椅子の上に避難した。
だが、事態はそれだけでは終わらなかった。
ドーン!
遠くで爆発音がした。
続いて、廊下の方から衛兵たちの悲鳴が響いてくる。
「報告! 報告ぅッ!」
泥だらけになった伝令兵が、執務室に転がり込んできた。
「た、大変です! 大広間のシャンデリアが落下! それと、トイレが……トイレが一斉に逆噴射を!」
「逆噴射だと!?」
「はい! 城中の汚物が、間欠泉のように……! もはや一階は水没状態です!」
俺は目の前が真っ暗になった。
王城が、糞尿に沈む?
あり得ない。あってはならないことだ。
これはもはや、単なる呪いではない。
テロだ。
ヴィクトリアによる、国家転覆を狙った大規模な汚染テロに違いない。
「おのれ……よくもここまでコケにしてくれたな!」
俺は椅子の上で震えながら、拳を握りしめた。
このままでは、来週の他国との晩餐会も開けない。
国の威信に関わる大問題だ。
解決策は一つしかない。
原因であるあの女を捕らえ、呪いを解かせるのだ。
そして、この汚物をすべて舌で舐め取らせてやる。
「おい! 誰かあるか!」
「は、はい!」
「近衛騎士団を動かせ! 北の森だ! ヴィクトリアを今すぐ探し出せ!」
俺は血管が切れそうなほどの怒りを込めて叫んだ。
「死体でも構わん! いや、生きて連れてこい! この城を元通りにするまでは、死ぬことすら許さんぞ!」
「は、ハッ! 直ちに!」
側近と伝令兵が逃げるように部屋を出て行く。
残されたのは、ヘドロに囲まれた俺と、泣きじゃくるマリアだけ。
窓の外を見ると、王都の空には不吉なカラスが舞っていた。
俺の完璧だった人生設計に、初めて黒いシミが落ちた瞬間だった。
だが、俺はまだ知らなかった。
俺が「ゴミ」として捨てた女が、今頃どこで何をしているのかを。
そして、彼女を連れ戻そうとすることが、この汚染パニック以上の災厄――「世界最強の男」を敵に回すトリガーになることを。
「……くそっ、臭い! 誰か、誰か芳香剤を持ってこいーッ!」
俺の絶叫は、誰にも届くことなく、汚水の流れる音にかき消されていった。




