第2話 英雄様の顔を洗ったら美形すぎた件
ジャバジャバと、冷たい水音が石造りの空間に反響していました。
「……しぶとい汚れですわね」
私は額に張り付いた汗を拭い、手に持ったデッキブラシを握り直しました。
そこは、城の奥にあった大浴場です。
かつては王族が使っていたのでしょうか。広さは学校のプールほどもあり、壁にはライオンの彫刻が並んでいます。
もちろん、ここも最初はカビとヌメリの魔窟でした。
ですが、私が給湯魔導具の配管に詰まっていたヘドロ(のような魔物の巣)を棒で突き崩したところ、奇跡的にお湯が出たのです。
お湯が出るなら、洗うしかありません。
何を?
もちろん、床に転がしているこの「泥人形」を、です。
「失礼します。少し擦りますよ」
私は遠慮なくブラシを振り下ろし、男性の背中をゴシゴシと擦り始めました。
彼は依然として気絶したままです。
服はもうボロボロで再起不能だったので、誠に遺憾ながら剥ぎ取らせていただきました。
現在は腰にタオルを巻いた状態です。
普通なら、淑女が殿方の裸体を見るなど言語道断。
赤面して逃げ出す場面でしょう。
しかし、今の私には彼が「人間」に見えていませんでした。
全身が煤と油と泥でコーティングされ、肌の色すら判別不能。
これはもう、洗浄対象物です。
「髪の毛が一番厄介ですね……鳥の巣どころか、何かの繭みたいです」
私は彼の上半身を起こし、頭から桶一杯のお湯をぶっかけました。
ザバーッ!
「う……」
お湯の熱さに反応したのか、彼が小さく呻きました。
泥水が滝のように流れ落ちていきます。
私は石鹸(幸い、備蓄倉庫から干からびた石鹸を見つけました)を泡立て、剛毛と化した彼の髪に揉み込みます。
指が通りません。
長年の汚れが、髪の毛同士を接着剤のように固めています。
「くっ、負けませんわよ! 私の指先テクニックを舐めないでください!」
前世、特殊清掃の現場で培った技術が火を噴きます。
絡まった毛先をほぐし、頭皮をマッサージするように汚れを浮かせ、二度、三度と濯ぎを繰り返す。
すると、どうでしょう。
ドロドロの黒い汁が流れた後から、銀色の糸のような輝きが見え始めました。
「……あら?」
綺麗な髪です。
月明かりを溶かしたような、透き通る銀髪。
手触りも絹のように滑らかになってきました。
その時でした。
「――っ!」
私の腕の中で、彼がカッと目を見開きました。
焦点の合わない瞳。
その色は、深いアメジストのような紫でした。
美しい、と思う間もありません。
彼は私が背後にいることに気づくと、野生動物のような俊敏さで飛び退きました。
濡れた床で滑りそうになりながらも、壁際まで後退し、私を睨みつけます。
「……誰だ」
掠れた、低い声。
警戒心むき出しです。当然でしょう、起きたら見知らぬ女に洗われていたのですから。
「目が覚めましたか。私はヴィクトリアと申します。通りすがりの――」
「寄るな!」
彼は叫ぶと同時に、私に向かって右手を突き出しました。
その指先に、バチバチと不穏な光が集束します。
周囲の空気がビリビリと震え、浴室の湯気が渦を巻き始めました。
(……何でしょう? 手品?)
私が首を傾げた、次の瞬間です。
「消えろ! 《ヴォルテクス・ブラスト》!」
彼の手から、凄まじい光の奔流が放たれました。
……放たれたように見えました。
ドンッ! という衝撃音と共に、浴室の窓ガラスがガタガタと揺れます。
壁のライオンの口から出ていたお湯が、一瞬逆流しました。
しかし。
「…………はい?」
私は無傷でした。
ただ、少し前髪が風で揺れただけです。
彼の手から出た光は、私に触れる直前で「スンッ」と霧散してしまいました。
まるで、マッチの火が風で消えるように。
静寂が訪れます。
ポチャン、と蛇口から水滴が落ちる音だけが響きました。
彼は自分の手と、ピンピンしている私を交互に見比べて、信じられないものを見るような顔をしています。
「な……なぜ、消えない?」
「消えろとは失礼な。私は幽霊ではありません」
私は腰に手を当てて溜息をつきました。
どうやら彼は、相当衰弱しているようです。
今の光はきっと、威嚇のための精一杯の魔術だったのでしょう。
ですが、お腹が空きすぎて不発に終わったに違いありません。
「変な手品を使っている場合ですか。あなた、自分の姿を見てみなさい」
私は壁にかけてあった鏡を指差しました。
彼は呆然としたまま、ふらふらと鏡の方へ視線を向けます。
そこには、一人の青年が映っていました。
濡れた銀髪が肩まで流れ、水滴を滴らせています。
陶器のように白い肌。
長い睫毛に縁取られた紫の瞳は、宝石のように輝いています。
筋の通った鼻梁、形の良い薄い唇。
息を呑むほどの、絶世の美青年です。
さっきまでの泥人形とは、まさに別人。
「……これが、僕?」
彼は自分の頬に手を触れました。
指についた泥がなくなっていることに、ひどく驚いているようです。
「ええ。顔だけは王族級ですね」
私は正直な感想を述べました。
元婚約者の王太子殿下もそこそこの美形でしたが、この男性の前では霞んでしまうでしょう。
中身がゴミ屋敷の住人でなければ、完璧なのですが。
「さて、まだ途中です。顔と髪は綺麗になりましたが、体はまだ薄汚れています。そこに座ってください」
私はデッキブラシを構え直しました。
すると、彼はビクリと肩を震わせ、後ずさりました。
「ま、待て。君は何なんだ。なぜ僕の結界を抜けてきた? なぜ魔法が効かない?」
「質問が多いですね。あとで答えますから、大人しくしてください。お湯が冷めます」
私は彼の質問をスルーして、距離を詰めました。
彼は困惑した表情で、逃げ場を探すように視線を泳がせます。
「さわ、触るな。僕は人が嫌いだ。近寄ると……吐くぞ」
「あら奇遇ですね。私も汚いものを見ると吐き気がします。ですから、お互いの利益のために、あなたを無菌状態にする必要があるのです」
私は問答無用で彼の腕を掴みました。
抵抗しようとした彼ですが、やはり体力が限界なのでしょう。
ずるずると私に引き寄せられ、洗い場の椅子に座らされます。
「や、やめ……そこはくすぐったい!」
「動かない! 脇の下が洗えません!」
「ひゃうっ!? だ、だから僕は……!」
そこからは、ちょっとした戦争でした。
彼は嫌がって暴れ、私はそれをプロの拘束術(介護清掃で習得)で制圧し、タオルで磨き上げる。
悲鳴と水音が浴室に響き渡ります。
そして、三十分後。
彼は脱衣所のベンチで、真っ白なバスタオルに包まって呆然としていました。
全身から湯気を立て、肌は茹で上がったカニのようにほんのりピンク色です。
髪からは石鹸の良い香りが漂っています。
「……終わりました」
私もクタクタでした。
でも、目の前の成果物を見れば疲れも吹き飛びます。
ピカピカです。
どこに出しても恥ずかしくない、最高級の仕上がりです。
「どうです? 少しはサッパリしたでしょう」
私が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げました。
その瞳は、まだ混乱しているようでしたが、先ほどのような鋭い敵意は消えていました。
彼は自分の手のひらをじっと見つめ、それから恐る恐る匂いを嗅ぎました。
腐敗臭も、カビの臭いもしません。
あるのは、清潔な石鹸の香りだけ。
「……痒く、ない」
彼がぽつりと呟きました。
「重くない。ベタベタしない。息が……しやすい」
彼は信じられないという顔で、自分の体を抱きしめました。
まるで、数年ぶりに呼吸の仕方を思い出したかのような表情です。
「君は……魔法使いなのか?」
彼が私を見つめました。
濡れた前髪の隙間から覗くその瞳に、吸い込まれそうな引力を感じます。
「いいえ。ただの通りすがりの、掃除好きな女です」
私は濡れた手を拭きながら答えました。
彼はしばらく私を見つめていましたが、やがてふっと力を抜いて、ベンチに背中を預けました。
「……悪くない」
小さな声でしたが、それは確かに聞こえました。
どうやら、私の清掃サービスはお気に召したようです。
ですが、安心するのはまだ早いです。
衣食住の「住」と、彼の「衣(裸ですが)」は解決しましたが、一番重要な問題が残っています。
グゥゥゥ……。
盛大な音が、彼の腹の虫から響きました。
同時に、私のお腹も可愛くない音を立てて主張します。
「……そういえば、ここには食べ物があるのですか?」
私が尋ねると、美貌の青年は気まずそうに視線を逸らしました。
「あるよ。……たぶん、三年前のパンなら」
私は天を仰ぎました。
どうやら次の戦場は、台所のようです。




