第10話 世界一清潔で幸福な引きこもり
穏やかな陽光が、塵一つない窓ガラスを通して降り注いでいました。
「……はい、そうです。その角度でブラシを入れるのがポイントですわ」
私は優雅に紅茶を飲みながら、宙に浮いた水晶玉に向かって話しかけました。
水晶の向こうには、王城のメイド長が熱心にメモを取る姿が映っています。
『なるほど! 排水溝のヌメリには、重曹とクエン酸だけでなく、微量の風魔法を混ぜるのですね!』
「ええ。物理的な汚れと魔力的な淀みは、同時に落とすのが鉄則です。……ああ、そこの新人さん、雑巾の絞り方が甘くてよ」
『は、はいっ! 申し訳ありませんヴィクトリア様!』
画面の向こうで、若いメイドが慌てて雑巾を絞り直しました。
ここは北の離宮。
かつてゴミ屋敷だったこの城は、今では「世界一清潔な聖域」として生まれ変わっています。
あの一件から半年。
私はシリス様の妻として、そして王国の「特別衛生顧問(リモートワーク限定)」として、忙しくも充実した日々を送っていました。
『ヴィクトリア様のご指導のおかげで、城内の魔導具トラブルはゼロになりました。国王陛下も感謝しておられます』
「それは何よりです。衛生環境の乱れは心の乱れ。国の中枢が汚れていては、良い政治などできませんから」
私は微笑みました。
あの大騒動の後、王城は劇的に改善しました。
元凶だったエドワード元王太子は廃嫡され、現在は辺境の修道院で「修行」に励んでいるそうです。
聞くところによれば、毎日朝から晩までトイレ掃除をさせられているとか。
彼も少しは、清掃の尊さを学んでくれると良いのですが。
『では、また来週の定例報告で……』
「ええ、ごきげんよう」
私が通話を切ろうとした、その時です。
「……ヴィクトリア」
背後から、ぬっと長い腕が伸びてきました。
水晶玉の映像がプツンと途切れます。
強制終了です。
「あら、シリス様。まだ会議の途中でしたのに」
私が振り返ると、そこには不機嫌そうに唇を尖らせた、世界最強の旦那様が立っていました。
洗いざらしの白いシャツに、銀色の髪がサラサラと流れています。
その美貌は相変わらず人間離れしていますが、今の彼は完全に「構ってちゃんモード」です。
「長い。……もう一時間も喋ってた」
シリス様は私の背中に抱きつき、肩に顎を乗せました。
重たいですが、心地よい重さです。
彼の体からは、私が調合したハーブ石鹸の良い香りがします。
「仕事ですよ。あなたが王城に行きたくないと言うから、こうして通信で指導しているんじゃありませんか」
「だって、外は汚いから」
彼は私の首筋に顔を埋め、すぅーっと息を吸い込みました。
「ここは綺麗だ。君がいるから。……外に出る必要なんてない」
「引きこもり発言ですね。まあ、否定はしませんけれど」
私も、この城での生活が気に入っていました。
シリス様が張った強力な結界のおかげで、害虫一匹、埃一つ侵入できません。
庭のトマトは相変わらず巨大化しますが、味は絶品ですし、家事は魔法と私のスキルで完璧に回っています。
何より、ストレスがありません。
理不尽な上司も、マナーにうるさい貴族も、浮気性の婚約者もいない。
あるのは、私の掃除を褒めてくれる旦那様と、ピカピカの部屋だけ。
「……ねえ、ヴィクトリア」
「はい?」
「ヴィクトリア成分が足りない。補充させて」
「さっき朝食の時に補充したばかりでしょう?」
「あれから三時間も経った。枯渇する」
シリス様は駄々っ子のように私を抱き締め直しました。
大魔導師の威厳はどこへやら。
どうやら彼は、トラウマを克服した反動で、私への依存度がカンストしてしまったようです。
「困った人ですね……。掃除の途中なのですが」
「あとで僕がやる。魔法で一瞬だから」
「駄目です。あなたは『一瞬』と言って、家具ごと消し飛ばす前科があります」
私がジト目で睨むと、彼は気まずそうに視線を逸らしました。
そう、先週も「窓拭きが面倒だ」と言って、窓ガラスを空間ごと消去してしまったのです。
おかげで風通しは良くなりましたが、虫が入ってくるので大説教をしたばかりです。
「……手伝う。雑巾がけ、するから」
「本当に?」
「うん。だから……今は、こっちを見て」
シリス様が私の肩を回し、正面から向き合いました。
その紫色の瞳が、真剣な光を帯びて私を見つめます。
こういう時の彼は、ズルいのです。
あんなに子供っぽかったのに、急に大人の男性の顔をするのですから。
「ヴィクトリア。……愛してるよ」
直球でした。
何度言われても、心臓がトクリと跳ねてしまいます。
「君が来てくれて、本当に良かった。君がいなかったら、僕は今でもゴミの中で腐っていたと思う」
「……そうですね。私が拾わなければ、今頃は立派な粗大ゴミでしたわ」
照れ隠しに軽口を叩くと、彼はふわりと笑いました。
その笑顔は、かつて煤だらけだった頃には想像もできなかったほど、明るく、澄み渡っています。
「君は僕を綺麗にしてくれた。部屋も、体も、心も」
彼の指先が、私の頬を優しく撫でました。
「一生、離さないよ。……君が綺麗にしてくれたこの世界で、ずっと一緒に暮らそう」
それは、世界で一番甘い監禁宣言でした。
でも、不思議と嫌ではありません。
むしろ、望むところです。
私は彼の手を取り、その掌に頬を寄せました。
「ええ、シリス様。覚悟してくださいね?」
私は悪戯っぽく微笑み返しました。
「私は潔癖症ですから。あなたの心に少しでも浮気心や淀みが生まれたら、即座に消毒(物理)しますからね?」
「……望むところだ」
シリス様は嬉しそうに目を細め、ゆっくりと顔を寄せました。
窓から差し込む陽光の中で、私たちの影が一つに重なります。
キスの味は、甘いハーブティーのようでした。
◇
午後。
私たちは並んで廊下の雑巾がけをしていました。
「そこ! シリス様、四隅が甘いです!」
「えぇ……細かいなぁ」
「細部に神は宿るのです! ほら、やり直し!」
文句を言いながらも、彼の手つきは随分と様になってきました。
かつての「北の賢者」は、今や「北の清掃員」としても一流になりつつあります。
ピカピカに磨き上げられた床には、二人の笑顔が鏡のように映り込んでいました。
外の世界がどうあろうと、関係ありません。
ここには、私たちが作り上げた、世界で一番清潔で、静かで、温かい幸せがあるのですから。
「さて、掃除が終わったらお茶にしましょうか。今日は特製のスコーンを焼きましたよ」
「やった! 苺ジャム、たっぷりつけていい?」
「ふふ、ご褒美ですね。特別ですよ」
私の新しい人生は、想像していたよりもずっと騒がしく、そして愛おしいものでした。
これからも私は、この愛すべき引きこもりの旦那様と共に、汚れなき幸せを磨き続けていくのでしょう。
これにて、一件落着。
私の人生の大掃除は、大成功です!
(完)
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