第1話 ゴミ屋敷は王城の離宮でした
「……開かないなら、蹴破りますわよ!」
私はドレスの裾をまくり上げ、蔦の絡まる古びた扉に渾身の回し蹴りを叩き込みました。
蝶番が悲鳴を上げ、ズドンという重い音と共に扉が内側へ倒れ込みます。
もう、我慢の限界でした。
優雅さ? 淑女の嗜み?
そんなものは、三時間前に元婚約者の馬車からこの森へ放り出された瞬間に捨ててきました。
今の私が求めているのは、雨風をしのげる屋根と、安全な寝床だけです。
「失礼いたします。どなたかいらっしゃ……」
一歩、中に足を踏み入れた瞬間です。
私の思考はフリーズしました。
「……は?」
そこは、地獄でした。
いえ、地獄の方がまだ清潔かもしれません。
かつては豪華だったであろうエントランスホール。
しかし今は、床が見えないほど積み上がった古紙、衣類、謎の木箱、そして正体不明のヘドロ状の物体によって埋め尽くされています。
空気は澱み、カビと埃の臭いが鼻を突き刺します。
窓ガラスは泥で曇り、蜘蛛の巣がレースのカーテンのように垂れ下がっていました。
「ごほっ、ごほっ! な、何ですかこの空気の悪さは! 換気は!?」
喉が焼けるような不快感。
まるで空気が物理的な重さを持って肌にまとわりついてくるようです。
(※注:高濃度の魔力ですが、ヴィクトリアは換気が悪いと思っています)
私はハンカチで口元を押さえながら、震える声で叫びました。
「汚い……汚すぎますわ! 人間が住む場所ではありません!」
あまりの惨状に、怒りが恐怖を上回ります。
私の名前はヴィクトリア。
今日のお昼までは、由緒ある伯爵家の令嬢でした。
『君のように、絨毯の埃をいちいち指摘するような神経質な女とは結婚できない』
そう言って、王太子エドワード様は私を切り捨てました。
ええ、そうです。私は潔癖症です。
整理整頓されていない場所を見ると、背筋がゾワゾワして吐き気がするのです。
前世、私が「特殊清掃員」としてゴミ屋敷や事故物件を掃除し続けていた記憶のせいかもしれません。
どんなに汚れた部屋でも、私の手にかかれば新品同様に蘇る。
その快感を知っているからこそ、汚れた状態を放置するのが許せないのです。
「……落ち着きなさい、ヴィクトリア」
深呼吸をしようとして、埃っぽさに咽せました。
現状を整理しましょう。
外はもうすぐ日が暮れます。森には魔物が出ると聞きます。
今から他の隠れ家を探すのは自殺行為です。
つまり、今夜はこのゴミ屋敷で寝るしかないのです。
「……無理です」
即答でした。
この床で寝るくらいなら、外でオオカミに噛まれた方がマシです。
私の瞳に、清掃員時代の炎が宿りました。
ドレスの長い袖を躊躇なく引きちぎり、動きやすいように結びます。
髪を高い位置でポニーテールにまとめ、足元の瓦礫から手頃な長さの棒切れを拾い上げました。
先端にちぎった布を巻き付ければ、即席モップの完成です。
「排除します。私の視界に入るすべての汚れを」
戦闘開始です。
まずは足の踏み場を確保するため、玄関付近のゴミの山に取り掛かりました。
ガサガサッ!
ゴミの山を崩した瞬間、黒い塊が飛び出してきました。
真っ黒な毛玉のようなものが、無数に蠢いています。
大きさは猫ほどもあるでしょうか。
「キシャーッ!」
それらは赤い目を光らせ、私に向かって威嚇してきました。
普通の令嬢なら悲鳴を上げて気絶する場面でしょう。
魔力を帯びた「ホコリの精霊」だと気づくかもしれません。
ですが、私には「巨大化したダニ」にしか見えませんでした。
「不潔です! 寄らないでください!」
バチコーン!
私の繰り出したモップの一撃が、先頭の一匹を正確に捉えました。
手応えあり。
黒い塊は悲鳴を上げることもなく霧散し、ただの塵となって消え失せます。
「キッ!?」
残りのダニたちが怯んだ隙を逃しません。
私は流れるような動きでモップを振るいました。
「そこ! 隅に溜まらない! 天井からぶら下がらない! 存在自体が公害です!」
バシュッ! ドカッ! バシィッ!
無我夢中でした。
こびりついた汚れを削ぎ落とし、散乱した本をサイズ順に積み上げ、腐った家具は窓から外へ放り投げます。
邪魔をする黒いダニたちは、片っ端から浄化(物理)していきました。
一時間後。
「ふぅ……」
私は額の汗を拭い、腰に手を当てて満足げに息を吐きました。
目の前には、見違えるように輝く大理石の床が広がっています。
窓ガラスは磨き上げられ、夕日が差し込んでキラキラと反射しています。
空気も入れ替わり、あの重苦しい淀みも消え失せました。
「やればできるではありませんか」
完璧です。
これでようやく、安心して座れるスペースが確保できました。
その時です。
部屋の奥、かつてゴミの山脈だった場所に、何かが残っているのに気づきました。
「……何でしょう、あれ。大きなボロ雑巾?」
人間ほどの大きさがある、泥だらけの布の塊。
さっきまでゴミに埋もれていて気づきませんでした。
まさか、燃えないゴミでしょうか。
私はモップの先で、つんつんとその塊をつつきました。
「もしもし、ゴミ出しの時間ですよ」
反応はありません。
仕方なく、私はその汚れた布をめくり上げました。
そこにあったのは――。
「……え?」
人間でした。
それも、若い男性です。
泥と煤で顔は真っ黒ですが、閉じられた瞼の形や、すっと通った鼻筋は、美術品のように整っています。
まるで死んでいるかのように青白い顔色。
ピクリとも動きませんが、胸はわずかに上下していました。
生きています。
このゴミ屋敷の主でしょうか。
だとしたら、私を追放した元婚約者以上に許しがたい「怠惰の罪」を犯しています。
普通なら、見知らぬ男性、しかも倒れている不審者を警戒すべきです。
けれど、今の私の思考回路は「清掃モード」から切り替わっていませんでした。
私は彼のドロドロに汚れた髪を見て、そして煤けた頬を見て、ごくりと喉を鳴らしました。
清掃員としての本能が、激しく警鐘を鳴らしています。
『汚い。洗いたい。綺麗にしたい』
その衝動は、抑えようがありませんでした。
「……拾ったからには、責任を持って綺麗にいたしますわ」
私は腕まくりをして、気絶している彼の手首を掴みました。
ずしりと重いですが、今の私ならドラゴンでも引きずっていける気がします。
さあ、次は浴室の大掃除です。
ついでに、この「大型の生ゴミ」も洗濯して差し上げましょう。
私の新しい生活は、こうして始まりました。




