『聖女』も過ぎれば『毒婦』になる
薄めた毒は薬にもなる。
この女を見ていると幾度も脳裏をよぎる言葉だ。
「まあまあ、それは大変なことでしたわね……いくら貴族様といえども、やっていいことと悪いことがございますでしょうに」
「そうでございますよね!? しかし、しかし兵を引き連れたあの方に物申すことなど出来るわけもなく!」
「わかります、お気持ち、わかりますとも」
両膝を突いてにじり寄ってくる中年男性の両手をしっかりと握り、彼女が言う。
ふわりとした長い金髪に、真っ白な肌。
優しげな笑みを浮かべる整った顔立ちと、禁欲的な聖職者の衣装でも隠し切れない柔らかな曲線を描く豊満な体つき。
『聖母』セレスティア。
この国の、いや、この宗教を信仰する皆がそう呼ぶ女性。
若い頃は『聖女』としてあちこちで奇跡を起こし、数多の魔物を打ち払って人々の生活を安定させた、ある種の英雄。
三十を越えて体力に衰えが見えた後は、王都に腰を据えて後進を育てつつ様々な陳情を受け付けて人心の安堵に努めている。
当然民衆の支持は厚く、貴族はもとより国王すらこの女の意向を無視できない。
流石に現世的な権力は与えられていないものの、それらの支持をバックに教皇補佐の地位に納まっており、次は世界初の女教皇誕生も間近だとか。
……この女を知るあたしからすれば、とんでもない話だが。
「ですが、各方面にお話を通すには、その……不徳たるこの身では、お金の力も必要でございまして」
「そのようなことをご心配なさる必要はございません! こちらに喜捨をご用意しておりますので、是非ともご活用いただければ!」
「まあ、なんと素晴らしいお心構え! きっと神もお喜びになることでしょう!」
よく言うよ。
と内心で思いはすれども、顔には出さない。
今のあたしはこの女の護衛。感情一つ浮かべず、冷静に周囲を警戒するのがお仕事だ。
そして何より、この場で行われることに一切干渉しないこと。これが何よりも大事である。
この場で行われるのは、この女とこの商人のやり取りだけ。
あたしは必要な時にだけ動く装置でしかないのだから。
でないとこの『商談』が上手くいかない可能性も出てくるし、万が一そうなれば、夜に癇癪を起されて面倒くさい。
だからあたしは、何も言わず感情も顔に出さず、ただそこに立っている。
こんな時ばっかりは、短いこげ茶の髪に少々日に焼けた肌、細い体格という目立ちにくく平民の下女らしい身体に生まれて良かったと思ったりしなくもない。
「まずは手付けとしてこちらを。明日にはこの十倍をお持ちいたしますので、なにとぞ、なにとぞよしなにっ!」
「神のためにここまでの財を喜捨する方など、恥ずかしながらわたくし、今までお会いしたことはございませんでした……。
どうぞ全てお任せくださいまし。神の恵みは、きっとあなた様の元に訪れます」
「なんと心強いお言葉……ありがとうございます、その暁には、きっと私の魂は神に捧げられることでしょう!」
おいこら、手付けとか言ってんじゃない。
とかいう言葉を無表情で飲み込んでいる間に、無事取引は成立したようだ。
口約束だけで。
この二人が交わした約束事は、あくまでも信徒の訴えを『聖母』が聞き届けた、というだけのもの。
契約書が必要な商取引ではないのだ。建前上は。
そしてこの女は、絶対に約束を違えない。
不可能なことを約束しないし、裏切ることも絶対にない。
自分の立場が『信頼』と『信仰』だけで支えられている不安定なものだとわかっているからだ。
……その不安定さを楽しんでいる節もあるのだから、なんとも度し難い。
「さすが『聖母』様、私の心は羽のように軽くなりました。これからも一層の信仰を捧げます!」
「ええ、どうぞお励みください。神の恵みはあなたと共にあります」
これっぽっちも疑っている様子なく、商人が言う。
平民が数年かけて稼ぐ金額を手付けと言ってポンと出し、その十倍も翌日に持ってこれるほどえげつなく稼いでいる男が、だ。
人の汚いところを幾度も見てきて、酸いも甘いもかみ分けてきたであろう海千山千の大商人であれば、人を見る目も磨かれているはずだ。
そんな男すら、ただの信徒に変えてしまう。
この女は、本当に底が知れない。
「ふふ、見てラナ。これでまた『聖母』の衣装が新調出来るわよ」
商人が出ていって部屋に二人きりとなってしばらく、他に誰も聞いてないとなった途端にこれだ。
まあ、いつまでもあの調子でいられたら、こっちの息が詰まりそうになるから、いいんだけど。
「はいはい、ようございました。ですが、そもそもそれは、裏工作に使う資金だったのでは?」
「ガッツリやるなら、そうなのだけれど。今回はちょっと話を通すだけだから、この十分の一もあれば十分だし」
悪びれた様子もなく笑うその姿に、頭痛がした気がしてあたしは額を抑える。
計算が苦手なあたしにだってわかる。
「つまり、後払いも含めれば必要経費の百倍も分捕った、と?」
「あら人聞きの悪い。わたくしは何も要求していないわ。あちらが進んで喜捨してくださっただけの話よ?」
この女……。
頭痛が酷くなった気がして、顔がわずかばかりしかめられた気がする。
言うまでもなく、こいつはそうなるように仕向けているし、それにひっかかった連中は数え切れない。
おまけにそいつらは、どうしたわけかこの女の熱狂的な信者になっているのだから、始末に負えない。
「それにほら、これだけの喜捨をしたあの方には神の恩寵が与えられるでしょうし」
「それはまあ、そうなんでしょうが」
残念ながら、否定はできない。
それは、神の奇跡だとか曖昧で不確かなものではなく、確かな形としてやってくるのだから。
例えば、さっきの商人の喜捨によって『聖母』が新たな素晴らしい衣装を仕立てたと評判になればどうなるか。
腹立たしいことに、この宣伝効果は絶大である。
また、それだけでは終わらない。
というか、こっちが『恩寵』の本体だったりする。
「で、袖の下がそこまで要らないってことは、あたしの出番ですか?」
あたしが問えば、彼女は人差し指を顎に添えて首を傾げた。
……こんな仕草だけを見れば、愛らしい『聖母』ではあるのだけれど。
その腹の中は、真っ黒だ。
「そうなるわねぇ、流石にあのご老人はやりすぎだわ。彼絡みでもう何件も訴えがきているもの」
出てくるのが、こんな言葉なのだから。
もっとも、その手先をやってるあたしもまた、似たようなもんなんだろうけど。
「なるほど。じゃあ寝てもらいますか。長さはいかほどで?」
「永遠に、と本当は言いたいところだけれど……それだと混乱が大きくなりすぎそうなのよね。
数年ばかり寝込んでくれたら、良い感じで内輪もめしてくれると思うわ」
「承知しました」
間接的な言い回しでも物騒さが隠せないやり取り。
これが、『恩寵』の正体。
この国は、いやこの辺りの国は大体、国王だとか貴族の力が強い。
ただそれは、権力や武力の話。
最近では、平民の商人たちが財力においては彼らを凌ぐほどの存在になってきている。
そんな情勢では、国王や貴族と商人の間で軋轢が生じることも少なくない。
そして、多くの場合、商人たちは泣き寝入りすることが多い。
彼らに財力はあれど、権力も武力もないからだ。
しかしそこに、彼らの助けとなる別の権力があれば。
それが、この『教会』だ。
『聖女』をはじめとして、様々な奇跡を起こす人材を抱えた、王権から独立したもう一つの権力。
国王すら『教会』の意向は無視できず、しかもその威光は複数の国にまで及ぶ。
そんな『教会』に泣きつく平民は多く、この女はその声に出来る限り応えている。
主に、多額の喜捨をする商人の声に、だが。
それも、ある程度は仕方がないところもある。
さほど低くない頻度で、非合法な手段を用いるというハイリスクなことをしているのだ。
であれば、リターンが大きくないと割に合わない。
「あの家が内輪もめしてくれたら、また切り崩しが進みますか」
「それはもちろん。そうしたらまた教皇様がお忙しくなるから、わたくしの仕事も増えると思うわ」
「……仕事が増えて喜ぶなんて、あなたくらいのもんですよ、ほんと」
思わず、ため息をついてしまう。
あたしには理解できないが、この女にとってそうであることは理解している。
普通の仕事と違って、教皇の代理として動いているこの女の仕事が増えるということは、裁量権が増えるということ。
その分、掌握する権力が増える、ということでもあるわけだ。
女教皇の座を狙っているこの女としては、それはもう嬉しくて仕方がないところだろう。
リスクに見合うリターンかと言われたら、あたしにはわからないけど。
「あら、あなたも仕事が出来たら喜ぶんじゃないの?」
「馬鹿言わないでください、あたしは平穏な暮らしを望んでるってのに」
「でもそれじゃ、ご褒美がもらえないわよ?」
小首を傾げながら言われて、思わず咳き込みかけた。
いきなりぶっこんでくるな、この女!
「いや別に、あたしはご褒美なんていらないんですが」
「嘘おっしゃい、好きにしていいわよって言ったら、目の色が変わるじゃない」
「何のことかわかりませんが、気のせいじゃないっすかね~?」
さらっと受け流してるつもりだけど、全然出来ていない自覚はある。
何しろ、がっついてる自覚もあるからだ。悲しいことに。
この性悪腹黒女が、抵抗もせず言い返しもせず、あたしのなすがままに翻弄されて乱れている様を見ているのは、背筋が震えるほど興奮してしまう。
しかもそんな顔を見ることが出来るのは、この世であたしだけときたら、なおのこと。
だからあたしは、命と身体を張って汚れ仕事をやっている。
それこそリスクに見合うリターンかと言われれば。
……あたしにとっては見合うリターンだってのが、困ったものだ。
そんなあたしをしばし見つめていた『聖母』様が、くすりと小さく笑う。
「何がおかしいんです?」
「いえね、ご褒美なのは否定しないんだなって思って」
言われて、あたしは硬直した。
何か言い返さなければと思うけれども、喉が固まったかのように何も出てこない。
……出るわけがない。
「ほんと、急に可愛くなるんだから、困っちゃうわ?」
「そんな奇特なこと言うのは、あなただけですよ」
きつい目つきだとか不愛想な顔だとか、およそ愛嬌というものから縁遠い自覚はある。
恐らく知り合い全員に訪ねても、同じように答えることだろう。
ただ一人、この女だけが、あたしを可愛いだとか頭のおかしいことを言ってくる。
……だからあたしも、頭がおかしくなりそうになることもある。
ほんとに勘弁して欲しい。
「うん、悪だくみの時間は終わりにしましょ」
「悪だくみって自覚はあったんですね」
「それはもう。自覚のない悪だくみは破滅の元よ」
「……まあ、確かに」
今までやらかしてきた仕事のいくつかが、脳裏をよぎる。
あたしらの的になるような連中は、当然貴族連中がほとんど。
そんな生まれの連中は、特権が当たり前のようにある環境で育つから、色々と自覚がないことも少なくない。
だから悪気なく他人を踏みにじるし、懐が甘くなって付け入る隙も生じてくる。
そうして恨みを買うから、この女のところに助けを求めて人がやってくる。
この女はそれを利用して、ここまで登りつめてきた。
「んなこと言ってると、あたしらもいつか破滅しそうな気もしますけどね」
「あら、それも悪くないわ」
何言ってんだこの女。
口には出さず、しかし目で力いっぱい物申せば。
返ってきたのは、なんとも楽し気な微笑みだった。
「だって、破滅するその時も、あなたが一緒なんだもの。『あたしら』、なんでしょ?」
「……縁起でもないこと言わないでください」
くそっ、口が滑ったっ!
と内心で思うのを、顔には出さない。
多分、出さずにいられているはず。
……この女にはバレバレな気がしなくもないけども。
「大体、そんなことになったら、孤児院訪問だとかもできなくなるでしょ」
「それはそうねぇ、確かに嫌だわ」
そして、この女もあたしの前では心を隠さない。
さっきまでとはまるで違う笑みに、あたしの心は持ってかれそうになる。
この女は、毒だ。
薬も過ぎれば毒となるように、聖女が過ぎて毒婦になった女。
だから薄めればこうして薬にもなるし。
……別の薬にもなる。
「じゃあ明日は早いし、今夜は軽くにしておきましょうか」
「しないって選択肢はないんですね……」
呆れたようにため息を吐くあたしだが、しかし、断れない。
蠱惑的な瞳に誘われて、逆らえない。
この女はあたしにとって、何よりの媚薬なのだ。
だから上り詰めるならその果てまで。
破滅するなら、落ちて堕ちて地の底まで。
きっとあたしは、この女の傍を離れないんだろう。
「ないに決まっているでしょ? あなたはわたくしのものなんだから」
……いや、離してくれない、のかも知れないけれど。
逆らえないあたしは、誘われるままに、請われるままに、彼女の寝台へと連れ込まれたのだった。
※ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
私が普段書く作品とは違った雰囲気だったのではないかと思うのですが、いかがだったでしょうか。
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