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戦国数奇伝 お手紙差し上げそうろう われ、細川幽斎なり 後編

10月から11月ころに、よく熟した果実が収穫される黄金色の柑橘系果物・・・きんかん。


中国方面からの商船より伝わったその果実は、太陽光に反射してきらきらと実にまばゆい。



琵琶湖の西部に位置する高嶋の地。


細川幽斎は、永禄9年(1565年)、田中城・・・近江の国、湖西から越前方面へ向かう交通の要衝を押さえる城・・・において、その男に出会った。


この男こそ、まだ若い時分から金柑のようなハゲ頭をしていた明智十兵衛こと、光秀である。


前年の永禄8年5月(1565年6月)、室町幕府第13代将軍・足利義輝が、三好義継や三好三人衆らによって殺害された。


ルイス・フロイスの書いた『日本史』によると『義輝は、自ら薙刀を振るい、その後、刀を抜いて抵抗。しかし、槍・刀で地面に伏せられたところ、雑兵に一斉に襲い掛られて殺害された。』と伝える永禄の政変である。


三好氏が、将軍として擁立することになる足利義栄は、第10代将軍・義稙の養子である堺公方・義維の子供である。


大永7年(1527年)、義栄の父の義維は、細川晴元、三好元長らに擁立され、朝廷から従五位下・左馬頭に叙任される。


これは、事実上の将軍就任である。


畿内に、足利義晴と足利義維の2人の足利将軍が存在することとなったのだ。


少々ややこしいが、ここでは仮に、足利義晴を「義澄系」将軍と、足利義維を「義稙系」将軍と呼ぶこととしよう。


 ※『参考:足利将軍家系譜』

 ※

 ※★足利[義稙]10代-養子-義維─★ 義栄 14代将軍

 ※

 ※★足利[義澄]11代-義晴12代 ┬★(幽斎)→細川家へ

 ※             ├★ 義輝 13代将軍

 ※             └★ 義昭 15代将軍

 ※

 ※ 幽斎の母智慶院は、足利義晴の子をみごもったまま

 ※ 細川晴員に嫁いで幽斎を生んだと言われている。

 ※ 

 ※ 室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、

 ※ 兄の養子として継嗣に擬せられた義視の代より、

 ※ 足利将軍は、事実上2系統の将軍が

 ※ 擁立される状態になり、応仁の乱の遠因に

 ※ のなったとも言われている。

 ※


三好義継や三好三人衆らが、13代将軍・足利義輝とその一族を皆殺しにしたのは、「義澄系」を根絶やしにして、2つの将軍家を「義稙系」1本に統一しようとする意図があったと言われる。


しかし、弟である13代将軍・義輝を殺害された幽斎が、立ち上がる。


彼は、奈良・興福寺勢力によって守られたため、唯一生き残ることができた「義澄系」の系譜を継ぐ弟を将軍として擁立しようとしたのである。


弟の法名を覚慶という。


そう、15代将軍となる足利義昭その人であった。


覚慶こと義昭は、義輝殺害の後、三好家家臣・松永久秀らにより興福寺の一乗院に幽閉・監視されていた。


義昭が、松永久秀に殺されず処分が幽閉にとどまっていたのは、三好家が、興福寺勢力を敵に回すことを恐れたためと言われている。


当時の記録である『上杉古文書』によると、上杉謙信宛に、京都の真言宗大覚寺派の大本山の門跡・義俊より届いた手紙には、「厳重な監視」と表現される程度の外出禁止で、行動は自由であったようだ。


幽斎と、義昭にとって、このゆるさが、幸いした。


彼は、幕臣一色藤長と協力して、義昭を寺より脱出させる。


木津川を伝い、奈良を抜け伊賀・近江へ。


伊賀・近江の国境近くで、豪族である和田惟政の支援を受け、そこを抜ける。


近江の六角氏の助けも借りながら、たどり着いたるは、近江田中城。


幽斎は、近江の六角、河内の畠山、越後の上杉、能登の畠山らとも親密に連絡をとり、上洛の機会を窺う。


先に述べた通り、田中城は、近江の国、湖西から越前方面へ向かう交通の要衝を押さえる城。


当時、越前国で力を振るうは、朝倉義景であった。


朝倉氏は、足利一門の管領・斯波氏の被官で、越前守護代より戦国大名へと転身を遂げた一族。


田中城で明智光秀と出会えたことは、幽斎にとって僥倖であった。


一時、朝倉氏のもとで禄をはんでいた光秀の伝手を使い、越前・朝倉義景の軍勢とともに上洛を企図することができたのだ。


しかし、加賀一向一揆や義景の嫡男・阿君丸急死などの理由をつけ、朝倉義景は、延々として上洛の軍を動かそうとしない。


焦れた幽斎が、次に目を付けたのは、近江の隣国である美濃国を支配下において勢いに乗る織田信長であった。


これもまた、美濃出身で、信長の妻お市の縁者でもある光秀の仲介であった。


織田信長との交渉を光秀とともに行うと、そのあとの進展は、早かった。


幕府再興の名目で上洛の兵を起こした尾張・美濃・伊勢の3か国からなる信長の軍勢が、わずか2か月で、畿内を平定したのだ。


あっさりと三好勢や14代将軍・義栄を京から追放し、義昭は朝廷から将軍宣下を受けて、第15代将軍に就任する。


しかしながら、歴史というものは魔訶不思議なものだ。


義昭を奈良の興福寺から脱出させたあの当時では、予想することすらできない急流のような時代の流れに幽斎は、振り回されることとなった。



 ***



さて、秀頼とその生母・淀の方との茶談義を済ませ、大阪城から屋敷へと戻る幽斎は、かの本能寺の変の際、光秀がよこした手紙を思い出すのであった。


あのあと、織田信長によって、将軍義昭は追放された。


室町幕府の終焉である。


そうして、今度は、信長の筆頭家臣として、大領を得た光秀が信長を討つ。


天正10年6月(1582年)、早朝の午前4時ごろに起こった本能寺の変である。


信長は寝込みを襲われ、寺を包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害する。


そうして、主君信長を殺害した後、光秀は、寄騎でもあり、姻戚関係もある幽斎に悲鳴を上げるような手紙をよこした。



「この度、信長に背いたのは、あなたの息子・忠興を取り立てるためである。あなたへの領地は、摂津を用意している。もし、若狭を望むなら若狭を用意しよう。他にも欲しいものがあれば、必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したらならば、あなたの息子である忠興に全てを譲って私は隠居してもよい。どうか、我が方の味方として兵を出してほしい。」



幽斎の息子・忠興は、光秀の娘・玉子を正室としている。


光秀は、忠興の岳父にあたるわけだ。


「岳父・光秀に、味方すべしっ。」


しかし、息子・忠興の反対意見を一蹴し、幽斎の取った道は、剃髪し信長の喪に服す事であった。



━━ 歴史に名を残すひとかどの人物を気取るのであれば、常に人の目を気にせねばならぬ。



彼は、のちの世に裏切り者・・・天下を盗んだ共犯者として後ろ指をさされることを恐れたのである。


これが、その後の運命を分ける決断となった。


光秀の婿だった織田一門衆の津田信澄は、秀吉により討伐されたが、同じ立場の幽斎と忠興親子は、速やかに剃髪して弔意を示していたことで、光秀との内通を疑われることもなく、丹後一国を与えられることとなったのであった。


その後、光秀が幽斎に宛てた懇願する様子が手に取るようにわかる手紙は、秀吉によって公開されることとなる。


これによって、裏切者、逆賊・光秀の情けないイメージが世間に広く知れ渡ることとなった。


しかしながら、本物の光秀は、そのような者では無かった。


織田家に仕えた者のうち、光秀が1番の出世頭であったのだから。


「金柑頭」と呼ばれたのは、彼の風采が、金柑のようなハゲ頭をしていたということだけではないのだ。


太陽光に反射してきらきらと実にまばゆい果実。


それが、まばゆいばかりにきらめく光秀の才気あふれる様子を表現するにふさわしいものであったからなのだ。


しかし、それを今、語る者はない。


あの本能寺以降、彼の評価は、裏切者の逆賊と定まったのだ。



━━ 人の目は恐ろしい。



世の人の光秀への評価の変遷を目の当たりにし、幽斎は、さらに後世の人の目を気にしながら生きることとなるのであった。



 ***



さて、大阪城にて、彼が豆菓子の歌を詠んだ 翌慶長5年7月(1600年8月)のことであった。


かの関ヶ原の戦いの前哨戦として、現在の京都府舞鶴に位置する丹後田辺城を西軍の小野木重次・前田茂勝・織田信包らが囲んだ。


その兵数は1万5000。


城中に籠るは、細川幽斎。


わずか500人の兵をもって、1万5000の西軍の包囲を受けることとなったのである。


兵力の差は隔絶し、当然、援軍の見込みもない。


7月(8月)末には、もはや落城は、時間の問題となった。


それでも、彼は、人の目を気にし続けた。


そうして、後世の歴史家の筆を大いに恐れた。



━━ 自らの役割を・・・そして、立ち位置を理解すれば、道は開ける。



かつて、石田三成らに対して、分をわきまえず、自らの役割や、立ち位置を理解出来ていないと評価した彼は、逆にそれさえ理解して行動すれば、暗闇に光が射し、道が開けると考えたのだ。


幽斎は、紙に筆を走らせて、1通の手紙を書き始める。



  一時休戦し、古今のこと伝えたし


  古今伝授相伝後、城を枕に討ち死にせん


                幽斎玄旨



その宛先は、八条宮智仁親王。


正親町天皇の孫で、誠仁親王の第六皇子である。


討ち死に前に、秘伝の『古今和歌集』の読み方や解釈を伝えたいという手紙を送ったのである。


古今伝授は、藤原俊成・定家の嫡系子孫である御子左流二条家が、勅撰和歌集である『古今和歌集』の解釈を、秘伝として伝えたものである。


平安時代末期から、『古今和歌集』の解釈は歌学を家職とする二条家の秘事として代々相承されるようになった。


しかし、二条為衡の死によって二条家が断絶してのちは、その教えを受けた者が、口伝と紙に記したものを伝える「切紙伝授」によって教授され、古今伝授を相伝されたものは、その和歌の権威となる。


当時、幽斎は、三条西実枝から歌道の奥義を伝える古今伝授を相伝されていたのであった。


手紙を読み、幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れた八条宮智仁親王は、その兄・後陽成天皇に奏請する。


事態は、動いた。


奏請をうけた後陽成天皇は、三条西実条、中院通勝、烏丸光広を勅使として派遣する。


こうして、関ヶ原の戦いの2日前、勅命による講和が結ばれることとなった。


2ヶ月間に及ぶ籠城戦は、前田茂勝の丹後田辺城への入城により、実質、西軍の勝利・・・つまり幽斎の敗北となったわけである。


しかし、この丹後田辺城の戦いを関ヶ原の戦いの一環としてみるならば、どうであろうか?


幽斎が抵抗し続けることによって、東軍・徳川家康の統治の正当性が、朝廷をはじめとして各方面に周知されることで、相対的に西軍・毛利輝元・石田三成らの正当性が、否定されることとなったこと。


小野木・前田・織田らの丹波・但馬の西軍1万5000人は、田辺城に釘付けにされ、講和から2日後の関ヶ原の戦い本戦に間に合わなかったこと。


これをもって、大局的には幽斎の勝利と見なすこともできるであろう。


まぁ、丹後田辺城の戦い事態も、名目上は、朝廷の斡旋による講和で引き分けある。


幽斎は、1本の手紙を書くだけのことで、その面目を保ち、窮地を脱するだけではなく、自身の勝利を印象付けることに成功したと言えよう。


なお、関ヶ原の後、幽斎は、八条宮智仁親王に古今伝授を行い、その約束を果たした。



━━ 歴史に名を残すひとかどの人物を気取るのであれば、常に人の目を気にせねばならぬ。



人の目を気にしづけた男、細川幽斎は、その後も当代随一の評判をほしいままにし、京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。


そうしてかの籠城戦から10年たった慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去した。



享年77。



塚原卜伝に学び、吉田雪荷から弓術の印可を受け、武田信豊から弓馬故実相伝されるなど武芸百般。


和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、随一の教養人。



こういった、後世の歴史家の評価は、天高くのぼった幽斎をうなずかせるものであったであろう。

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