戦国数奇伝 お手紙差し上げそうろう われ、細川幽斎なり 前編
時は、慶長4年(1598年)。
大阪城本丸。
幼き秀頼の名で、その生母である淀の方に招かれた彼は、茶菓子を前にフッと息を吐いた。
「されば・・・。」
君が代は 千代に八千代に さざれ石の巖となりて 苔のむす豆
彼の名は、細川 与一郎 藤孝。
あの 本能寺の のち、剃髪して、雅号の幽斎玄旨を名乗っているため、もっぱら、細川幽斎と呼ばれている。
幽斎は、淀の方に この菓子に合う和歌を詠むよう 命じられたのだ。
菓子をみるとその通り・・・炒り豆に青海苔をふりまいたものであるが・・・なるほど、豆を小石と見たてると、青海苔は、あたかも こけがむしたように見える。
彼は、『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として載せられた祝賀の歌を1文字変えて詠んだのであった。
そう、「苔のむすまで」を「苔のむす豆」とすることで、この豆菓子を主題とする歌としただけではなく、祝福を受ける人の寿命を歌った元歌の意味から転じて豊臣家の繁栄を祝う意図を、さりげなく伝えたのだ。
「ほほほっ」と笑う淀の方の横で、幼き秀頼は、歌の意味を解していないのだろう。
ただ、ボーっと豆菓子を眺めている。
天下の権を握る6歳の幼子にとって、この豆菓子のある空間において、母御の前で家臣である幽斎が短歌を詠み、母が笑う・・・この世界が全てなのであろう。
がしかし、実際の所、昨年8月に秀吉が亡くなってから、世間はなかなかに騒がしいものになっている。
豊臣譜代ともいえる、尾張や美濃の将と、近江官僚との争いが目に見えて激しくなってきたのだ。
━━ 小粒な争いよ。
幽斎は、五奉行と呼ばれる近江系の面々を思い浮かべる。
尾張より出でて、秀吉の正妻である寧々の縁者でもある浅野長政は、ともかくとして、 石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以は、小さい。
前田は、美濃国の生まれも、比叡山の僧として過ごした期間が長い。
近江の者と言ってよい。
そして、石田は、近江の石田村。
増田は、近江の益田郷。
長束は、近江の長束村。
どの者も、村の名を苗字としておることから、元々は、近江の村々で生まれ育った 名を持たぬ者たちであったのだろう。
幽斎自身は、父に足利義晴、母に清原宣賢の娘である智慶院を持ち、細川晴貞の養子として細川家に入ったいわば、名家の出である。
しかしながら、彼が、出自の善し悪しでその者をみるわけではない。
それは、幽斎が、出自不明である秀吉を評価していることでもわかる。
━━ 人には、分相応というものがある。
天下人なら、天下人の。宰相なら宰相の分というものが。
残念ながら、かの官僚集団には、奉行としての身の丈に合わせた分別というものが欠けておる。
恐らくあの者たちは、自らがその持てる力で天下を動かしておると勘違いしているのだ。
なるほど、彼らが、文字や数字に明るいことは分かる。
しかし、人は、文字や数字だけで動くものではない。
あの様子が続くようであれば、朝鮮半島から、帰国した将たちを怒らせ続けるであろう。
***
天正19年(1591年)、秀吉は「唐入り」を決行することを全国に布告。
文禄元年(1592年)には、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢をもって朝鮮半島に出兵した。
応永26年(1419年)に起きた李氏朝鮮による対馬侵攻以来となる半島勢力との戦争である。
戦のはじめは、西国の諸大名たちが中心となった遠征軍が優勢であった。
朝鮮軍は緒戦で衝撃的な大敗をして釜山周辺の沿岸部分を失う。
混乱し首都・漢城を放棄した朝鮮国王は、明国の援軍をあおいだ。
しかしながら、当時、世界最強の陸軍であった遠征軍の勢いを、朝鮮国・明国の連合軍が止めることは難しい。
早雲の時代より・・・15世紀半ばから日本は長い内戦状態にあった。
そのため、秀吉の指揮下には、実戦経験の豊富な50万人を超える兵がおり、これは、当時世界最大最強の軍隊であったのだ。
武器の優位もある。
最大でも100メートルほどの射程しかない朝鮮弓に対し、日本軍は、貫通力があり、500メートルほどの射程を持つ火縄銃の一斉射撃という戦国期に改良を加えられた戦術で攻勢をかけたのだ。
しかし、この勢いに水を差したのは、水軍であった。
例えば、遠征軍が攻め込んでから2か月後には、全羅左水使の李舜臣、全羅右水使の李億祺らが、魚泳潭を先鋒とし、巨済島東岸に停泊する藤堂高虎、堀内氏善ら紀伊・熊野連合水軍とそれらに率いられた輸送船団を攻撃している。
この時、朝鮮水軍の火箭・火砲により、多くの船が焼き払われ、藤堂、堀内らは敗戦している。
もちろん、朝鮮の艦隊が日本船からの火縄銃・弓矢などによる反撃の射程外から日本船を撃破できたわけではない。
しかし、高麗時代から、倭寇への対策が進んでいた朝鮮水軍は、海のゲリラ戦を得意としていた。
正面からの舟戦であれば、日本船が勝利を収めることは珍しいものではなかったのだが、しかし、高麗王朝の時代に火薬が導入され、火砲が開発されており、これが海戦では大きな威力を発揮したのだ。
これらによる、敵船の焼き討ちが、海戦における朝鮮優位につながった。
その後も、小西行長らが平壌を制圧するなど、ほとんどの場合は、陸においては遠征軍が明と朝鮮軍を圧倒し、海のゲリラ戦においては朝鮮水軍が優位に戦をすすめる。
そんな中で、石田三成ら、近江ゆかりの官僚集団が力を発揮したのは補給である。
まず、彼らは、開戦当初の兵16万人超に対する輸送補給を見事になしとげた。
その後も、肥前から海路壱岐を経て対馬に到り、対馬北端から釜山に着岸、その後漢城に向かう補給ルートを確保。
各地に、倭城と呼ばれる多数の城郭群を構築し、長期の駐留体制を整えた。
これらの城郭には、海路輸送された兵糧・弾薬が豊富に備蓄され、そこでは古米と新しい兵糧米を入れ替えることすらされていたという。
その備蓄は、ルイス・フロイスの『日本史』に「その量、兵20万人が2年以上持ち堪えるほど莫大な量であった」と記録されている。
これが、どれほどの特筆すべき驚異的な仕事であったのかは、幽斎の時代から300年ほど経過した後のロシア帝国を見てみると良く分かる。
当時、ロシア帝国の皇帝は、プーチ・・・じゃないやっ、ニコライ2世であった。
この時代に起こったのが、あの有名な日露戦争。
ここで、圧倒的に不利に見えた日本がなんとか勝利にこぎ着けた1つの要因が、ロシアの補給のまずさであった。
真珠湾・・・ではなく、旅順のロシア艦隊が、宣戦布告なく日本軍の奇襲を受けたことが開戦のきっかけであったことから、十分な準備が出来ていなかったことについて、ニコライ2世を責めることは出来ないだろう。
しかし、単線のシベリア鉄道を効率的に運用できず、また、その路線改修もせずに補給や兵員輸送が十分にできなかったことは、指揮系統の混乱を呼び、彼らは、そのまま敗戦へと向かうこととなった。
その後に起こった第一次世界大戦もそうであった。
1914年、サラエヴォ事件が起き、オーストリア=ハンガリーによるセルビアへの宣戦布告を受け、皇帝プーチ・・・ではなく、ニコライ2世は、ロシア軍部からの戦争参加の進言を受けいれる。
軍部の「短期決戦でオーストリア=ハンガリーおよびドイツを破ることが出来る」という楽観的な主張を真に受けたニコライ2世は、ロシア軍総動員令を布告したのだ。
そのままニコライ2世は、参戦を表明し、ドイツとの戦端を開くこととなった。
開戦時のロシア軍の規模はヨーロッパ最大のもの。
この部分は、朝鮮半島へ出兵した当時世界最大規模の秀吉軍と同様である。
しかし、鉄道網の慢性的な非効率的運用は、ロシアの補給および部隊輸送を大きく減じていた。
また、軍の自動車は700台に満たず、輸送に用いるどころか、幹部の移動用にすら、それを充足することはできなかった。
さらに、司令部と兵站部は、汚職・横流しによって弱められており、さらに、工場生産の不備から武器弾薬が不足し、開戦し総動員をかけてから、武器弾薬を買い集めようとする有様であった。
その上、通信システムが未整備で、師団司令部が、暗号を使わずに無線連絡を交わし合う有様・・・これは、現代戦において、指揮を執る将軍が、相手国の回線を使ってスマートフォンで連絡をしあうようなもの。
つまり、兵站を担当する将校たちが、日露戦争当時から改善されていなかったのだ。
こう見ると、その場に石田三成ら豊臣の近江出身官僚が居たならば、間違いなく重用されたであろうことが想像ができる。
それはさておき、朝鮮半島での戦争の最終盤まで、遠征軍の補給路は堅持され、制海権もその撤退まで維持し続けた。
このことは、石田三成らの評価されるべき大きな功績であるのだが、いかんせん自らの役割を・・・そして、立ち位置を理解していない。
確かに彼らは、完璧な輸送体制を築いて、その運用を成功させている。
しかし、物資の補給と兵員の輸送が完璧に出来ていても、それを評価することができるのは、その価値とその難しさを理解している人間だけである。
特に武系の将にとっては、補給など出来ていて当たり前。
少しでも不足があれば、不満をつのらせる。
朝鮮半島において、前線で戦っていた武将たち・・・福島、加藤、黒田といった面々は、石田らが誇っている輸送の功績について、今回の戦争における武功であると考えていないであろう。
朝鮮出兵の総奉行を務め、秀吉と現地の連絡役という立場。
和平にむけた講和交渉に積極的に働いた彼らの行動は、半島において前線を担い戦った武断派・・・福島正則、加藤清正、黒田長政らの反発を招いたことが想像に難くない。
そうして、自分たちが半島の最前線で戦っている間に、ちょっとだけ安全地帯に顔を出しただけの三成は、佐和山に20万石の所領。
長束正家は、近江水口に12万石。
増田長盛などは、大和国郡山城22万石といった大領を得ていたのだから。
彼ら尾張以来の古参からすれば、「何もしていない」近江系新参が、戦場で働いた自分たちを差し置いて大きく所領を伸ばしている上、自分たちの上位に位置し、命令をしてくることが、癇に障り、鬱憤のモトとなる。
おそらく彼らは、後世の書家に、自分たちがどのように描かれるかを想像していない。
歴史に名を残すようなひとかどの人物を気取るのであれば、常に人の目を気にせねばならぬのだ。
しかしながら、近江官僚勢は、秀吉生存時にはその権威を背景に・・・そして今は、豆菓子を前に「ほほほっ」と笑うおなごの威勢を借り、周りの目を一切気にせず、権力をほしいままにふるっている。
そうして、今、幽斎の目の前で笑う茶々姫・・・淀の方もそうであろう。
━━ 秀頼は乳飲子なり、お袋(淀の方)専制なり
後世の歴史家が、このように筆を走らせることは、想像に難くない。
彼が、そんなことを考えている間も、茶談義はすすむ。
そうして幽斎は、目の前の茶をすすり、かつての ともがら・・・金柑に似た頭を持った男の手紙を思い出すのであった。
まだ続きを1文字も書いていないのですが、後編に続く!・・・といいなぁ