第三十三話 港湾都市エムス
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獣憑きによる変異が安定化し、アルエはベッドの上で目を覚ました。
変異は頭の耳と、尻尾のみ。その程度で済んで良かったと、アルエに付き添っていたザリアーナは胸を撫で下ろす。
実のところ、彼女はアルエのそれよりも酷い変異を目の当たりにした事もある。ましてや、アナンタの使徒なるモノに攫われてこの程度で済んだ事が奇跡と言っても良かった。
「気が付いたようね」
目を覚ましたアルエに、ザリアーナが優しい声色で語りかける。
「……ザリアーナさん。私、どうしたんですか?」
「それは、こういう事だよ」
ザリアーナはそう言って、アルエの頭に生えた、狐を思わせる耳を触った。慣れない感覚と、それまで自分の身体に存在していなかった器官の存在に、アルエは思わず声を上げる。
「ななななな、何ですかこれ!?」
「獣憑きっていう、まあ病気の一種だね。私達はそれを治療する為に、海を渡る準備を進めている」
真剣な面持ちで説明しつつ、その感触に快感を覚えたのか、ザリアーナの手はアルエの耳を触り続ける。
フェーズ・ワンの獣憑きは変異した部位の神経が過敏になりやすいらしく、それはアルエも例外では無かった事を、彼女のその反応が物語っていた。
一方で、新しく生えた耳を絶え間なく触られ続ける側は、ただただ顔を赤くするしかなかった。
「んっ……んん……ッ!」
「なるほど、君は耳が弱いのかな?」
症例を知った上で、ザリアーナはあえてアルエを茶化す。事実、アルエの耳のさわり心地は至高と言っても過言ではなく、ザリアーナはアナンタの使徒に心の何処かで微かに感謝してしまっていた程だ。
「そ、そんなんじゃないですッ!」
アルエは大声でそう叫び、赤くなった顔を更に赤くした。
また、彼女らが居る船室の隣、男部屋でも、薄い壁の向こうから聞こえてくる如何ともし難い声に悩まされる男子が二人いた事も、ここに付け加えておこう。
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ノヴァ唯一の港湾都市、エムス。
砂漠に浮かぶ「島」を起点に発展したコロニーとは違い、商港と漁港を併せ持ったそこは、海から得られる海洋資源や海外からの輸入品をノヴァの各地へと運ぶ為の窓口として機能していた。
当然、その重要性から郊外には軍港も作られ、更にそこを基点として幾重もの防衛ラインが構築されており、幾つもの検問が設けられていた。
一世達はネビュリアでギルド絡みの輸出品の輸送依頼を幾つか引き受け、エムスまでの通行手形を入手。それを駆使し、二日かけて四つの検問をくぐり抜けた。
ギルドの影響力の強さは、それ程までに強いのだ。
だが、ようやくたどり着いた港湾都市は、都市の規模に反して明らかに人の数が少ない。
「思っていたより閑散としてるな」
「それはまあ、ここが戦場になるかもしれないってなれば誰だって逃げるよね」
閑散としたメインストリートを目の当たりにして一世が抱いた感想に、ザリアーナはそう言って答えた。
ザーズの崩壊に加え、敵の攻撃が何時迫るとも分からない状況に住民は皆不安を抱き始め、遂には国内外へと逃亡を図ったのだ。
疎開。
自分が元いた世界ではどこか他人事のように思っていたそれが、眼前に広がっている事を実感し、一世は虚しい顔をした。
「ともかく、今はスートアーマーを運んでくれる船を探そう」
一世達はギルドの荷物を所定の場所に届けると、ザリアーナに言われるまま港に足を運んだ。
疎開が始まっているとは言え、停泊している船の数はそこそこ多い。
だが、客船やフェリーなどは、街から逃げ出す避難民を収容しており、港の係員も、やはりそれへの対応に追われていた。
「船は、そう簡単に手配出来そうに無いな」
仕方がない。この港はアガトラとその周辺国から圧力を受けており、港周辺の海域は、一部を除き海上閉鎖されている。その為、エムスへの貨物船の出入りには高いハードルが存在していた。
加えて、一世達はアルカニック・ギアという最重要物資を擁しており、それもおいそれと手放す事が出来ない。正規ルートでの出国に一苦労するのは、目に見えていた。
「仕方がない。ここは一つ、運び屋に頼むしかないか」
「運び屋?」
ザリアーナの言葉に、一世はオウムを返す。
「そう、運び屋。非合法なルートで色んな物資をノヴァとそれ以外の国に輸送してるんだ。まあ、その分お金もかかるけど、ね」
そう言って、ザリアーナは金を表すジェスチャーを示す。
また、金か。
オルベイルがアルカニック・ギアとしての性質を完全に開放した事で、機体にかかるメンテナンスコストが文字通り消失したものの、一行の手持ちが心許ないのはいつもの通りだ。
だが、その少ない手持ちを、どうしても使わざるを得ないもう一つの事情が今の彼らにはあった。
「……どう、かな」
そう言って店から出てきたアルエの姿を見て、一世は思わず言葉を失った。
変異した耳と尻尾を隠しつつ、適度にコーディネートされた衣装は、一世の脳内から「かわいい」以外の語彙を奪い去る。
アルエはアナンタの使徒に連れ去られた際に衣服を奪われ、ここまであり合わせの服で生活をして来た。被覆店にやって来る時も、ローブで耳と尻尾を隠していた程だ。
ベッドの上で養生していた時は気に留める事は少なかったが、ここからはそうは行かない。船に乗るとなれば、他人の目も気にしなければならないからだ。
当初はザリアーナの着替えを貸して貰う予定ではあったが、身長差(と胸)から来るサイズの違いもあり、こうして新しく調達する事になったのだ。
また、ネビュリアで衣服を調達するのも手であったが、あそこで取り扱っている衣類はノヴァの民族性が強く出ており、海を越えてゾリャー大陸へと向かう今、それをアピールするような服を選ぶのは避けた方が良く、そういった意味でも輸入雑貨商が盛んなエムスの方が都合が良かった。
「うん、いいんじゃないですかね」
ネインが、装いを新たにしたアルエの姿に素直な賛辞を送る。
ザリアーナも、自分の見立ての完璧さに満面の笑みを浮かべている。
「ま、素材がいいからね」
アルエも、新しい衣服にご満悦といった様子だったが、同時に終始無言でいる一世とシイナが気になって仕方がなかった。
一世はアルエの姿に素直に言葉を失っている様子だが、対するシイナの方はまるで無関心といった様子だ。
彼女が本当にシイナであれば、気の利いた台詞の一つや二つくらいはかけてくれるものだが、記憶を失っているという今の彼女は、シイナであってシイナではないのだと、改めて実感させられる。
シイナの記憶と、自身の身体が一刻も早く元に戻る事を、アルエは改めて願った。
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「よう、あんたらもここに来ていたのか」
一世達は、街中で見知った顔と遭遇する。
マルコとポーロの二人だ。
特に一世はマルコがリーテリーデンとの戦闘で死んだものと思っていた為、彼が生きていた事に度肝を抜かれた様子だった。
「マルコさん、生きてたんですか」
「ははっ、暫くぶりだったからな。ご覧の通りピンピンしてるよ」
「マルコは殺されても死なない……」
一世との再会に気を良くした二人は、運び屋が詰めているという酒場を紹介してくれた。
「海を渡る為に運び屋を探しているなら、そこの角にある酒場に行けば、そういった奴らがたむろしてるぜ」
「ありがとうございます」
マルコとポーロに礼を言って、一世は早速その酒場に向かう。
案の定、と言うべきだろうか、店の中に入るとガラの悪い屈強そうな海の男達が待ち構えており、明らかに場違いな来店者の存在を一斉に睨み付けて来た。
だが、こちらには突き刺さる視線を物ともしない同行者が一人居る。
ザリアーナだ。
彼女は、男どもの視線を物ともせずにカウンター席に座ると、酒場のマスターに堂々と水を注文した。
「おいおい、姉ちゃん。ここは酒場だ、なら酒を飲まなきゃ失礼ってもんだろ」
「おや、昼間から働かずに酒浸りな人の方が、社会的にどうかと思うけど?」
詰め寄ってきた男に、強気の反論。
ザリアーナは涼しい顔をして、差し出された水を一口。
「ざ、ザリアーナさん……」
このような雰囲気の店など入ったことすら無かった一世は、ただ事の成り行きを隣で見つめる事しか出来ない。
「それに、私達は砂漠を渡ってようやくここまで辿り着いたの。水を求めてもバチは当たらないでしょ?」
「へっ、言ってくれるじゃねぇか。姉ちゃん、名前は?」
男はザリアーナの強気の姿勢を気に入ったのか、彼女の隣に座り、名前を聞いてきた。
「ザリアーナよ。ところで、腕利きの運び屋を探しているんだけど、誰か知らないかい?」
「ザリアーナさん、あんた運がいいな。俺がその腕利きの運び屋、ベンス様よ」
ベンスと名乗った男は、そう言って自らを指差した。




