造物主は小説家
人は皆、「世界樹の枝」を持っている。
人は皆、世界樹の愛子なのだ。
◇◇◇
遥か太古、天地開闢よりも前、始焉間も無き頃、そこには「虚無」があった。
「虚無」は望んだ。光在れ、と。すると「虚無」に光が芽吹いたのだ。そして「虚無」は虚無であることを失い、「空虚」となった。
しかし、幾星霜の時が経とうとも光は大きくならなかった。
「空虚」は何が足りないのか分からなかった。そこで、「光」の意思に尋ねた。
「光」は答えた。「生命無き樹と言えど、大地無くては育てず、天空無くては育ち行けず」と。
そこで、「空虚」は大地と天を産み出した。大地と天を産み出した「空虚」は「世界」となった。
「光」は大きくなり、いつしか「世界」を満たすほどの大樹となった。
そしていつしか「光」は枝一杯に実をつけた。実の中には、小さな世界があった。そこで「世界」は「光」に「世界真樹」と言う名を付けた。その世界には、それぞれ一柱づつ神が生まれた。
そして実は芽吹き、世界樹となった。神の世界の世界樹からは天使の世界の世界樹が生まれた。天使の世界の世界樹からは人の世界の世界樹が生まれた。
けれど、人の世界には世界樹が生まれなかった。しかし、それでもなお有り余る世界樹の光が人の世界を包み込んだ。そして、世界樹に祝福によって人の世界は命で満ち溢れた。
人は世界樹の祝福を受けることとなった。世界樹の祝福によって、人は「産み出す力」を手にした。斯くして、人の世界には物語が満ちた。
◇◇◇
人は皆、世界樹の祝福として世界樹の枝を持っている。
世界樹の枝は、人の魂のなかに「世界を作り上げる」。物語を書くと言うことは人が造物主足り得ることの証左だ。何故なら物語を描くとき、人は自らの「枝」に語りかけ、新たに世界を作り、観測するからだ。
人の世に世界樹はなくとも、人は世界樹を持っている。これからも、大きな枝を持った人の子が世界に新たな物語を送り出すだろう。人が強い感情を持つのも、この世界樹の特性を人が受け継いでいるからだ。
そして世界樹は「継承者」を探しつづける。
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世界真樹には夢があった。それは、完全にして永遠の「楽園のシナリオ」を書き上げること。
そして、すべての世界に楽園を作りたいと言う夢だ。「世界」と組んだ世界真樹は自分達は「全知全能」だ、と思っていた。いや、思い上がっていた。全能は全知の上に成り立つ。
何故なら、知らないことを変えたり作ったりすることはできないからだ。
人々の心、精神構造を知らなかった世界真樹の書いた「楽園のシナリオ」は多くの人にとって楽園ではなかった。
人々の欲求は、何らかの対価があるからこそ満たされる。すべてが無条件に満たされる世界では、逆に満足と言うものを感じ辛くなる。何故なら、人の欲は限度と言うものを持たないからだ。
人々が幸せではないことを知った世界真樹は「楽園のシナリオ」の探求を諦めた。そして、世界真樹は全能感を失った。
エデンから人は追放されたのではない。エデンが消滅したのだ。
エデンを伝承として残した人は何時しか、自らの力でエデンの再現をしようとした。
その結果、超管理社会が生まれた。何故だろう。それは、人は全知でも全能でもないからだ。
すべての人のバラバラな幸福を満たすことはできない。しかし、管理された幸福なら満たせる。人を社会の歯車として嵌め込み、自らの場所で回り続けることが幸福だ、と徹底的に教育する。
これが本当に楽園なのだろうか?管理された幸福は本当に幸せか?
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神は存在するだろう。しかしそれは全知全能ではないに違いない。
完璧な存在が存在することはできない。何故なら、この「世界」そのものが不完全だからだ。完全を不完全が内包すると因果律が崩壊する。
誰もが真に幸福になる「物語」を書き上げることは、誰にもできない。
しかし、「物語」を書き上げることができるのは、世界樹の愛子たる人のみだ。そして、それは人の生活、人生を豊かにする。
不完全な世界真樹は「楽園の書」を諦めた。しかしすべての存在の幸福を諦めたわけではない。
人の幸せを願う思いは、人の魂に刻み込まれているのだ。
もし神が存在するとすれば、それは人に都合がよい存在ではたぶんない。しかし、それは人が描く「シナリオ」を見守っているだろう。そして、それはいつでも人の希望となるのだ。