グラスシティ
久しぶりにつくりました。
もうすぐ雨の季節なので、雨が降る街のお話です。
―雨が降ればいい。
―そうして全て隠してしまえ。
―見たかったものは全部叶わないと知った。
―その価値を僕が与えてしまうのなら、僕はそうなる前に居なくなろう。
―そうやって、たった一つのことを決め兼ねてきた。
―いま、筆を置いてしまおう。
ガラスの割れる音が、雨粒に溶け込んだ。
彼はそれを見て、全てを受け入れ、また誰の言葉でも拒絶した。
いつも両腕を広げて待っているのに、同時にうずくまって動かない抜け殻のようにも見えた。
誰にも感謝していなければ、誰かを憎んだ訳でも無い。
何もかもがちょっとずつズレていって、やがて長い時が経った今では元の境目が見えないほど遠くにあった。
彼はそこまで歩いていく自信を持ち合わせていなかった。
気づいた人間とそうでない人間に分けることも必要ないと分かって、たった一つ、全てを辻褄が合うように動かす方法を見つけた。
「また、割れた」
何かに急かされているような気になって、それでもやることは変わらないからと、青い傘をさして街に出た。
何も、誰も、祝福してくれないように思えて、心地の悪い空模様に悪態をついた。
突拍子も無く次々と嫌悪感が湧いてきて、こんなにも身を縮めて生きてきたのに、まるで自分が一番我侭を言っているようで、最後までそれを曲げない意地っ張りのようでもあった。
ただ今は、今まで思ったこと全てを、例えば永遠のように正当化してしまおうとした。
もうすぐ日が暮れる。
傘を叩く雨の音が、まったく意識の外に追い出されるくらいまで歩いた頃、左右反転した世界の自分が、いつでもすぐ隣を歩いていることに気がついた。
見ていたのは、いつもただ一人、自分自身で、彼はそのためだけに笑い、目の前に誰かが居て、最終的にその誰かと細い線の繋がりを持ったとして、それでも叶えたいことは全て隣に居る自分だった。
だから、偽りようが無かったし、そのために何か失った時も、さして大きな問題だとは感じなかった。
「僕はきっと、誰よりも僕のことが好きなんだ。きっと」
西の空が僅かに赤く染まって、通りに置かれたグラスの一つ一つも、その光を必死にかき集めていた。
いくらそうしても足りないことを、たぶん永遠に知らないままだ。
― ― ― ― ―
「聴こえてる?」
「聴こえてるよ」
「まだ大丈夫?」
「心配だよ、すごく」
「でも、そうやって君は一つ決めたんだよ」
「僕はもう後には戻れないからね」
「もう、何も言わなくていいかい?」
「僕は全部を間違ったかもしれない」
「それは君が誰よりも自分を守るのに必死だったからだ」
「そうだとしても、僕たち以外の誰かには関係が無い」
「それは君にも関係の無いことだ」
「違う。僕にとっては、相手が知らない誰かだったとしても、全部が聞き捨てならないんだ」
「それで一体どれくらいの損をした」
「分かってるけど、僕には他に許せるものが無い」
決めたことだから。
また何かを無くしたとしても、君を失くしたりはしないから。
― ― ― ― ―
オレンジ色の傘を持って立っていた。
「あなたが大嫌いだ」
そう言われた気がして、目を伏せた。
ガラスに映った姿も歪んでいた。
人も車もまだ少ない、明け方の街。
朝の早いサラリーマンは、駅に向かって駆けていく。
赤信号で交差点を渡り、青信号で壁にぶつかったように動きが止まる。
街の動脈と静脈が逆になったような景色だった。
街はやがて動き出すだろう。
いつも考えていたことが思い出せなくて、言葉も並べられなくて、その場に立ち尽くしながら、ガラス越しに見ていた。
「僕はどうも、このままではどうしようもないみたいだ」
焦燥をなだめようと、日の出と逆の方向に歩き出した。
水溜りに映った地下世界は規則的に形を変えて、踏もうとすれば飛び込めそうなくらいで、青空が見えだした空も、血が通い始める前の高層ビルも、綺麗に映っていた。
世界はそんな鏡を通して、いくつにも重なっているようで、何も知らない心が小さく脈を打つ夢のような心地に浸っていた。
本来そうあるべきだったんだと、しきりに願い続けて、それでも叶わなかったからこうしている。
最も残酷なものから逃げられる道を失くしたから、こうしている。
遠くに見えた、輪郭はまだはっきりしないが確かに同じ種類の心臓を、必死に追いかけている今だって、結局はその何かから逃げる口実でしかない。
そうやって知らない世界に嵌りさえすれば、手を伸ばすことでロープが垂れてくる。
確かに他の誰かなら、そう、うまくいくだろう。
「それが僕ならどうだ」
どうだろうか。
吐瀉物が塞いだ幅一メートルのビル陰も、
排水溝に埋まった猫の死骸も、
赤が漏れ出す鉄パイプも、
「或いは」
或いは?
鐘が鳴る。
短針が音を立てた。
立て続けにグラスが投げ落とされて、笑い声と共に割れていく。
「僕を見るな」
笑うな。
肩を組むな。
そうして囲まれてしまえば何度だって死んでしまえるだろう。
ガリン、と。
逃げた。
「待って」
逃げなきゃ。
「いつもそうやって僕を」
逃げるな。
ガリガリ、と。
うるさいんだ。
― ― ― ― ―
静脈が唸り始めた街は、もう反対側に。
そこで青い傘を持っていた。
「僕が見る世界に限定された話をしたい」
安心感なんて、絶対に其処には無かった。
でも、安全は確かに存在した。
僕にはそれに触れる勇気が無かっただけだし、またいつ突き放されてしまうのか、それだけを怖がって近寄らなかった。
誰かの言葉に身を寄せて、その時は確かにあった温かさに触れようとして、それはもう今更遅すぎるとも思った。
日は沈んで、街全体が陰に落ち、それを許すまいと灯りを点け始めた小さな細胞の、立ち尽くすことなく忙しそうなその間をすり抜けて、確かにあるはずの終わりに向かって歩いていった。
身体が疲れを忘れるのはこんな時に限るようで、胸の内だけがどうしようもなく渦を巻いていった。
怖かった。
逃げ続ければ袋小路。
そんなフェンスに囲まれて、笑う者は誰も居なくなった。
今まで這いつくばっていた地面が遠く遠くにあって、
今まで笑いあっていた人たちも、遠く遠くに居るようだった。
正しさに相応しいものって何だろう。
最後になったら分かるだろうか。
側杖を食う前に、ひとり一歩前を歩いた。
それほど軽々しく捨てられる命に、どれだけの装飾品を施せるか。
競い合っていたって、それはまるで神様の笑いものだ。
ここに来た理由は実に多元的で、人に話すとすればいつも決まってたった一つ。
けれどもう、話す相手は居ないな。
笑えないよなあ。
そんな最後は、きっと幸せだ。
― ― ― ― ―
「間に合った?」
「間に合ってない」
「いや、もう十分」
「まだ足りないよ」
「我慢してよ。離れようが無いんだからさ」
「先に何があるかなんて、分からないよ」
「いつもそうだったでしょう。今更、どうでもいいことだよ」
「どうでもいい命なんだね」
「僕だけの話だと思ってる?」
「分かった、分かったってば」
「怖いなあ」
「そうだね。でも、決めたこと」
「終わらないって願ってるよ、一応ね」
「どうでもいいんじゃなかったの」
「君は全部分かってるんだ」
「はあ、困ったことにね」
「なら、心配いらない」
「別に嬉しくなんかないよ」
「うん。」
「うん?」
「また会おうね」
「会えると、いいね」
じゃあ。
うん。
またね。
― ― ― ― ―
今日も動きを止めない球体の上で。
今日も終わりに向かって回り続けている。
善も悪も、すべてが巡り巡って、行き詰ったところに僕が居た。
今もグラスは割れ続けている。
その僅かな一部から。
「さようなら。」
ガリガリと、音が聞こえた。
それだけ だった。
自分の人間性みたいなものを反映させようと、結構努力した作品でした。
最後まで読んでもらえるのは本当に嬉しいことです。
ありがとうございました。
普段はブログにSSばっかり投稿してますが、また何か書きたいことが浮かべば、こちらに投稿したいと思ってます。
それがいつになるかは全く分かりませんが。
他の作品も、あまり自信があるものではないですが、読んでいただけたら、それ以上嬉しいことはありません。
本当にありがとうございました。