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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第三章 タキシラ 太守就任式典編
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25 ソグドの戦車②

「く……、間に合わん。

 兄上、このまま超えるしかない。

 そっちの馬を頼みますよ」


「わ、分かった。

 お前はそっちの二頭を頼む」

 ミトラを挟んで両王子が手綱を握る。


「ミトラ、手すりをしっかり持っておけ!」

「跳ねるぞ!」


 戦車は真正面から山に突入した。

 勢いよく登りきり、下る浮力で体が浮き上がる。


「あっ!」

 その衝撃でミトラの手が手すりから離れた。


「うわああああ!」

「ミトラ――――っ!」


 青ざめて見上げるアショーカとスシーマの頭上で、ミトラは一人だけ高く高く浮き上がる。

 体が軽い分、信じられないほど跳んだ。


 二人の王子は手綱を握ったまま、戦車から投げ出されそうになったミトラの体を、両脇から飛びかかって引っ張り戻す。


 顔面蒼白。

 冷や汗がしたたる。




 そして競技場の人々全員が見守る中、呆然とした二人の王子がゆっくりと戦車を動かし戻ってきた。


 側近が駆け寄る。

「大丈夫でございますか?」

「お怪我は?」


 しかし誰の呼びかけにも答えず、二人はミトラを戦車から降ろし、青ざめたまま地面に座り込んだ。


「こ、怖かった……。

 こんなに恐ろしい目にあったのは初めてだ……」


「私もだ……。

 心臓が止まるかと思った……」


 ソグドはまだ戦車のへりに掴まったまま呆然としている。


「空高く浮きました……兄上……」

「うん。浮いたな……アショーカ……」


 側近と衛兵が二人の周りに集まり、青ざめたまま呟く王子二人を憐れんだ。


「馭者のくせに手綱を離しました……兄上……」

「うん。放したな……アショーカ……」


 二人の間には想像もしない恐怖を分かち合った妙な連帯感が生まれていた。


 まだ蒼白なままの二人の王子をよそに、ミトラは吹き飛んだハンカチを手にヒジムに駆け寄る。


「良かった、ヒジム。

 そなたに借りたハンカチがもう少しで飛んでいく所だったんだ。

 幸いジュースの染みもついてない。

 失くしたらいけないから返しておくぞ」


 ヒジムは腕を組んで考えこむ。


「ミトラ、それは僕のお気に入りのハンカチなのは確かだけど、王子二人やミトラの命を危険に晒すほどは大事じゃないんだよ?」


 一応聞いてみる。


「当たり前じゃないか。

 アショーカやスシーマ王子の命より大事なものなんてない」

 ミトラは何を今更という顔で答える。


「そこは分かってるんだね。

 だったら僕に言える事はもう何もないよ……」

 ヒジムは諦めたように言って、手渡されたハンカチをもう一度ミトラに被せた。


「……」


 その会話を黙って聞いていた二人の王子は、更に青ざめた顔で呟く。

「何が恐ろしいと言って、ミトラが今何をしでかしたのか全然気付いてない事だ……」

「危機感がないにも程がある。

 私達が手綱を掴まなければ、全員戦車から投げ出され、多少なりとも怪我をしていただろう。

 ミトラなどは命も危うかったかもしれぬ」


 はあっと二人は大きなため息をつく。


 下手をすれば大惨事だ。

 ソグドなどは危うく大罪人になったかもしれない恐怖に、未だ戦車のへりにうずくまっている。


「だ、大丈夫? アショーカ……」

 トムデクが心配そうに尋ねた。


 その手をアショーカが握り締める。


「トムデク。

 今日ほどお前に感謝の気持ちを持った事はないぞ。

 普段当たり前のように、お前の戦車に乗って命を預けてきたが、信頼して命を預けられる者がいるのは幸せな事だったのだな。

 初めて気付いたぞ」


「はあ……、ありがとうございます」


「分かるかトムデク。

 手綱を離したのだ。

 馭者のくせに手綱を離したのだぞ」


「し、心中お察し致します……」

 トムデクは青ざめた顔で頷いた。


「お前達もよくよく覚えておけ!」

 アショーカは周りを囲む衛兵達に諭す。


「女は戦車に乗せるな。

 手綱を握らせるな。

 常識で考えられぬ事をしでかすぞ!

 いいか、女に武器を触らせるな!」


 衛兵達は神妙な顔で頷く。


 しかし、ナーガと頭上の蛇は不安げに尋ねる。

「されどアショーカ様……。

 あちらで大弓を触っておられるのはミトラ様ではないかと……」


 ぎょっとして全員がナーガの指差す方を見やる。


 そこには弓売りの商人のもとで、大弓を引いているミトラの姿があった。


次話タイトルは「サヒンダ乱心」です

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