9、アロン王太子
ダンダカの森に行ってから三日が過ぎていた。
しばらく寝込んでしまったミトラだが、満月のご神託の日を前に、ようやく起き上がり、今日から本格的に世話係に戻る事になった。
本当はもう、自分になど聖大師様をお世話する資格もないのではないかと、神殿の誰にも顔向け出来ない心持ちだったミトラだが、大勢の神官と従者を失い、絶対的な人手不足だった。
まだ心の整理もつかぬまま、せめて自分に出来る事は何でもやろうと、重い体に鞭打って久しぶりに聖大師様のお世話に戻ったのだ。
その夜、聖大師様のお世話を済ませたミトラは無事塔の上に見送ってから、翌朝ひとり井戸の横の石垣に腰をかけていた。
しかし、その顔は歪み、顔色は真っ青で瞳は動揺が渦巻いている。
どこかに駆け出したいのにどこに駆け出していいのかわからない。
(アロン王子……私はどうすればいいのでしょうか……)
その時、従者の棟のドアが一つ開き、レオンが身支度を済ませて出てきた。
どこにいても野生の勘でミトラの居場所を見つける彼が、いち早く気付いて起きてきたらしい。
ただならぬミトラの様子に、正面に片膝をついて見上げる。
言葉を待っているらしい。
「レオン、大変な事に気付いてしまった。
いや、本当はもっと早くに気付くべきだった。
自分の事にばかり気をとられていたために見落としていた。
どうしよう……」
そう言ってミトラは両手で顔を覆った。
どうしたらいいのか分からない。
「どうなさいましたか?」
次に現れるのは、やはり導師だった。
「導師殿……私は見てしまったのです……」
ミトラは両手で顔を覆ったまま答えた。
「見る? 何を?」
「萌黄の光を……」
「萌黄?」
導師は優雅に首をかしいだ。
「ダンダカの森の妊婦の腹に見た光です。
同じものが聖大師様の腹に……」
ミトラの言葉にさすがの導師も言葉を失った。
「まさか……」
「間違いではない。
以前にも聖大師様を診立てた時、腹に異常がある事は気付いていた。
ただ悪いものではないのと、その可能性を考えもしなかったので……」
「それはつまり……」
「ミスラの神の子でしょうか? 導師殿。
聖大師様はミスラ神の妻なのだから……」
ミトラは思い詰めたように導師を見つめた。
しかし導師はゆっくりと首を左右に振った。
「いいえ……。それはないでしょう。
私には心当たりがございます」
「心当たり? まさか……聖大師様が他の男と不義を!」
蒼白になるミトラに導師は肯いた。
「イスラーフィルです」
導師の言葉にミトラもレオンも衝撃を受けた。
「そんな……まさか……」
イスラーフィルは確かに聖大師様の世話にうるさく、口の悪い男だが、山賊に襲われた時、身を挺してミトラを守ってくれた。
そしてあの時見せた優しさは、意外にも誠実なものだったはずだ。
「もしそれが本当なら……」
「聖大師様もイスラーフィルも無事ではすまないでしょう」
導師が言葉を継いだ。
「どうすればいい。どうすればいいのだ導師殿。
今晩が神のご神託の日だというのに。
まさかその不義のせいでご神託が受けられぬのか?」
「何かいい方法を考えましょう。みなが罰せられずにすむ方法を」
「本当に? 本当にそんな方法があるだろうか?」
ミトラは導師に縋りついた。
「考えましょう。ミトラ様は今晩に備えてお休み下さい」
「休んでなどおれぬ。
アロン王子。王子にだけは伝えなければ」
「お待ち下さい。アロン王子を巻き込んではなりません!」
「でも……」
「とにかくミトラ様はお休み下さい。睡眠はよい知恵を授けるものです。
よく眠れる薬湯を用意させましょう。
レオン、女官に用意させよ」
レオンは頷いて立ち去った。
※ ※
心がざわつく。
何かが終わろうとしている。
いや始まろうとしているのか?
シェイハンの美しい庭園で過ごしたアロン王子との日々。
王と王妃、それに幼い姫たち。
みんな優しくて誠実で国を治めるに相応しい人達だ。
この国の次代の聖大師である事を誇りに思う。
「ミトラ、愛しているよ」
ジャスミンの白い花々が、濃厚で甘美な香りを漂わせている。
「愛?」
聞きなれぬ言葉に目を凝らす。
「そう、愛している。わが妹よ」
「いもうと……?」
兄などいただろうか? そもそも家族などいなかったはずだ。
巫女の家系に生まれ、宮殿に引き取られたと聞いている。
「そなたにだけ重い荷を背負わせてしまった。すまないミトラ」
そのシルエットはよく知っている。
「アロン王子!」
慌てて名を呼ぶ。
すぐ側にいるはずなのに、ひどく遠く感じる。
「すまない、ミトラ」
影がもう一度繰り返す。
「待って! 行かないで!」
おだやかで平和で、永遠にこの時を紡いでいくのだと信じていた。
誰かが騒いでいる。
この平和な時間を乱す不届き者は誰だろう。
行って注意せねば。
ミトラははっと目を見開いた。
石造りの天井。
薄暗い室内。ここはミトラの寝室。
窓から赤い光が見える。
夜闇にゆらめく赤い光。
ミトラは飛び起きた。
夜になっている。
今日は満月のご神託の日だ。
聖大師様に仕える自分がこんな所で寝ていていいはずがない。
どうなっている?
ミトラは目まぐるしく思考を回転させた。
そうだ。
レオンに渡された薬湯を飲むと、ふわふわと心地よくなってその後の記憶がない。
眠ってしまったのだ。
ではご神託は?
聖大師様とイスラーフィルは?
窓辺に駆け寄って外を見る。
その光景にミトラは我が目を疑った。
燃えている……。
次話タイトルは「ヤムシャ長老」です