23 女官 マチン
「どうしたっ!」
騒ぎに驚いてアショーカとスシーマが駆けつけた。
ミトラは訳が分からず、マチンを見下ろし呆然とする。
「ミトラっ! 怪我をしたのかっ!」
青ざめるアショーカとスシーマの様子を見て、自分のヴェールも石榴のジュースで真っ赤に染まっている事に気付いた。
「いや大丈夫。ジュースがこぼれただけだ」
ミトラの言葉に二人の王子はほっと息をついた。
気付くと、ジュース売りの職人とマチンが、それぞれ衛兵と側近に取り押さえられている。
その時になってようやくミトラは毒見もせずにジュースを飲もうとしていた事に気付いた。
「あの……毒見をせずに飲む所だったから、マチンが止めてくれてジュースがこぼれただけだ。
二人を放してやってくれ」
またうっかり軽はずみな事をしてしまった。
「いいえ!」
しかし断固とした声でマチンが叫ぶ。
「その職人を捕えて下さい。
このジュースには毒が入っています!」
ざわりと周りがざわめいた。
「ま、まさか……。そんなわけ……」
ミトラは驚いて職人を見た。
職人は青ざめた顔でガタガタと震えている。
「本当なのか、マチン?」
アショーカが真っ赤なジュースの飛び散ったマチンの顔を自分のマントで拭きながら尋ねた。
「はい。このジュースはビーシュの香りがします。
間違いありません」
「ビーシュ……。少量で命を奪う猛毒だな」
やしの器には、まだ少しジュースが残っている。
「おい、職人。このジュースを飲んでみよ」
取り押さえられて震える職人に、アショーカがやしの器を差し出す。
「毒がないなら飲めるだろう」
「ひいいいい!」
職人は青ざめてひれ伏した。
「わ、私は大商人風の男にこのジュースをピンクのヴェールの姫に飲ませるようにと……。
銀貨を頂き頼まれただけで……。
毒が入ってるなど思いもせず……。
申し訳ございません!
申し訳ございませんっ!!」
地面に頭をすりつける男に、アショーカとスシーマの顔が険に歪む。
「ピンクのヴェールの姫に飲ませろと言ったのだな」
スシーマがもう一度確認する。
明らかにミトラを狙ったのだ。
「な、なぜ私を……?」
自分の命を狙って得をするものがいるのか?
まさかシェイハンの者が自分の聖大師就任を快く思わず……。
見当違いな事を考えるミトラに対して、アショーカとスシーマはすでに犯人の目星はついていた。
ため息を洩らす。
マガダの王子達への反乱であるなら、生け捕りにするはずだ。
ミトラの命を奪って得する事など何もない。
生きて捕えれば、値千金の価値があるミトラを殺す必要などない。
それにこのお粗末な計画。
うっかりミトラが飲む所であったが、自分達が側にいれば、必ずマチンに毒見をさせていた。
本来なら成功するはずもない無謀な計画。
しかもあっさり白状するような男を使っている。
大きな組織ならば、バレたら即、自死するプロの殺し屋を使うだろう。
ミトラの命を奪って得するのはただ一つ。
娘をマガダの王子のどちらかに娶らせたい貴族の仕業だ。
ミトラに懸想しているせいで我が娘に目が行かぬのだと思い込んでいる。
一番バカバカしい刺客だ。
「くだらぬ事でミトラの命を狙いおって……」
しかも疑いのある貴族は無数にいる。
さっき長蛇の列を成した貴族全員が疑わしいと思っていい。
「マチン、よくぞ止めてくれた。礼を言うぞ。
サリーが汚れてしまったな。
そなたに上質のサリーと、褒賞を贈る。
今日はもうよいから、服を着替えてゆっくり休むがいい」
アショーカはマチンの肩にポンと手をのせ優しく労った。
「はい。ありがとうございます」
マチンは誇らしげに笑顔を向ける。
ミトラはその様子にチクリと胸が痛んだ。
うっかり毒見もせずに飲もうとした愚かな自分と、危険を察知し毒の種類まで言い当てる女官のマチン。
女でも有能な者は認められ活躍している。
王子達の側にいるあの女官は何だという目で見ていた取り巻きの娘達も、すっかり感心して、立ち去るマチンを見送っていた。
それに比べて自分の不甲斐なさ。
情けなくて恥ずかしくなる。
「衛兵、その男を牢につなぎ、すぐに尋問をせよ。
依頼した男の人相を聞き出し、即座に探し出せ」
「はい」
男を取り押さえていた衛兵達が、許しを請う男を引きずって連れて行く。
ミトラはうなだれたまま立ち尽くしていた。
「ミトラっ!」
アショーカに怒鳴られてビクリと肩を震わす。
また怒らせてしまった。
何を言われても仕方がない。
自分が一番悪い。
「お前はっ……」
言いかけて、あまりに落ち込んでいるミトラに言葉を一旦途切れさせる。
「今度毒見もせずに口に入れようとしたら、俺様が毎食、手ずから食べさせるぞ!
俺は言った事は必ず実行するからな!
覚悟しておけ!」
「え?」
アショーカなら本当に毎食食べさせに来そうだ。
想像して蒼白になる。
スシーマが気の毒そうに口を挟む。
「勘弁してやれアショーカ。
狼に睨まれながら食事する子兎みたいなもんだ。
食事が喉を通らん」
「どういう意味ですか、兄上」
そう言いながらも、張り詰めた空気が少し和らぐ。
しかしミトラだけは、まだうなだれていた。
アショーカはやれやれと覚悟を決める。
「ヴェールが汚れてしまったな。
汚れついでに戦車に乗ってみるか」
出来れば乗せたくなかったが仕方がない。
「いいのか?」
ヴェールごしに期待に輝く翠の双玉が見える。
「本気で戦車に乗せるつもりか?」
スシーマは不安げに眉を寄せる。
「ゆっくり進めば危険はないでしょう。
競技場を一周するだけです」
「では私も一緒に乗るぞ」
スシーマはそろそろトラブルメーカーのミトラを充分に理解し始めていた。
大丈夫なはずの所で、とんでもない事をしでかすのがこの姫なのだと。
次話タイトルは「ソグドの戦車①」です




