19 アショーカとミトラ②
「ひゃあっ!」
驚いて後ろにひっくりかえりそうになったミトラを支えるように、ヴェールの外から両手を掴まれた。
にっと勝気に笑うアショーカの笑顔が眩しい。
胸が苦しくなる。
「お前は、またいらぬ事をしておるな。
ヴェールを破いて覗きをする女なぞ見た事がないぞ。
このじゃじゃ馬め」
「の、覗いているのはそなたの方だ。
は、はなしてくれ!」
アショーカはミトラの抗議など知らんふりで中を覗きまわす。
「ほう、今日は珍しく髪を結っておるのだな。
なかなか似合っているぞ」
褒められて急に恥ずかしくなる。
「ひ、人のヴェールに顔を突っ込まないでくれ!
み、みなが見ている」
「顔を突っ込むほどの穴を開けたのは誰だ。
ヴェールに穴を開けてまで俺様の雄姿を見たかったのか」
図星を指されてカッと顔に血がのぼる。
「だ、だれがそなたの事など……」言い澱む。
そう言われる事など予測していたのか、アショーカは気にした様子もなく続ける。
「パレードは楽しんだか?
剣技の大会の後、ヴァイシャ階級の品評会がある。
商人や職人達が自慢の品を持ち込んで貴族達に売り込むのだ。
織物や髪飾り、菓子なども出るぞ。
俺様が直々に案内してやろう」
その言葉に自分でも驚くほど心が弾んだ。
「私などの相手をしていていいのか?」
「女の意見も聞きたいのだ。
サリーなど、どの品がいいのかさっぱり分からぬ。
甘い菓子なども苦手なのだ。
良い品を作る職人は宮殿に召し抱えようと思っているのでな」
それは人選ミスだ。
ミトラも質素を心がけていたので目が肥えてるとは言えない。
ミトラの顔に不安が浮かぶ。
「菓子や食べ物はマチンも呼んである。
あれは味覚と嗅覚が優れている」
マチンとは確かアショーカの食事時にいつも毒見を担当している女官だったか……。
女を周りに置かないアショーカが、珍しくあの女官だけは信頼しているようだった。
なぜか一気に気持ちが沈む。
「どうした? あまり嬉しくなさそうだな」
「そういう訳では……」
思うような反応を見せないミトラに少しいらついた顔になる。
「そうか。じゃじゃ馬のそなたは武器の方が見たいか?」
わざと意地悪く言う。
「武器……」
「そういえばソグドが最新の戦車を出品すると言っておったな。
乗ってみるか?」
冗談のつもりだった。
しかしミトラは思いがけず目を輝かせる。
「いいのか? 本当に!」
「む……。一番嬉しそうな顔になったな」
「シェイハンにいる頃は毎日馬に乗って遠出していた。
戦車も見た事がある。
一度乗ってみたかったんだ!」
しまったと思った。
満面の笑みで喜ばれて後に引けなくなった。
「う……むむ。よいだろう。
乗せてやろう。楽しみにするがいい」
「ありがとう! アショーカ!」
ようやく満足のいく笑顔を見せたミトラに、アショーカは目を細めた。
それを見てミトラの鼓動がドクンと跳ねる。
また胸がキュンと苦しくなる。
「どうした? 胸を押さえて。
どこか苦しいのか?
そういえば顔も赤いな」
アショーカの顔がずいっと近付いてくる。
「よ、寄るな! ますます苦しくなる!」
ミトラは慌てて後ずさった。
「なんだ? やっぱり苦しいのか?」
アショーカは心配そうにヴェールごしにミトラの頬に触れようとした。
「さ、触るな! そなたのせいなのだ!」
「なに?」
アショーカは怪訝な顔になる。
「し、白の正装をしたそなたを見ると、何故だか気分が悪くなるのだ!
寄らないでくれ」
「はあっっ?」
一気にアショーカの顔が怒りに引きつり始める。
「どういう意味だっ!
太守の正装が似合わぬと申すかああっ!」
ヴェールの中に大声をぶちまけられ、ミトラの耳がキンと鳴った。
あわてて耳を塞ぐ。
「お前は村娘達の歓迎ぶりを見てなかったのか!
みな口々に褒め称えていたというに、その俺様を見て気分が悪くなると申すかあああ!」
両手で塞いでも耳が痛い。
「わ、悪くなるのだから仕方ないだろう……」
「こんのお……。
せっかく人が気分良く過ごしておったのに……。
一気に最悪になった。
そなたはいつもいつも、俺の何がそんなに気に入らないのだああっっ!」
「ひゃっつ!」
ますます大きくなる声に耳がキンキンと悲鳴を上げている。
更に言い募ろうとするアショーカの腕が、ぐいっと後ろに引かれた。
「よさぬか。ミトラの耳が壊れる」
スシーマが呆れたように制止する。
「お前の大声にみなが驚いてこっちを見ておるぞ。
相変わらずそういう所はガキだな」
「ぐ……」
窘められてバツの悪い顔になる。
「お前は婦人にいつもそんな大声で怒鳴っておるのか。
モテぬわけだ」
「他の女はこんな腹立たしい事は言わぬ!」
「ならばミトラとは相性が悪いのだ。
近くに置かぬ事だな」
しれっと牽制する。
「むうう。俺の勝手です。
放っておいて下さい」
アショーカはぷいっと顔を背けると、掴んでいたミトラのヴェールを放して、後ろに控えるヒジムに怒鳴りつける。
「ヒジム――――っ!
ミトラのヴェールが破れておる!
お前のハンカチでもマントでも何でもいいからグルグル巻きにして視界を塞いでしまえっっ!」
トムデクの後ろからヒジムがやれやれという顔でミトラの前に出る。
「はいはい。
気分の悪くなる太守様の姿が見えないようにすればいいんだね」
からかうように言ってハンカチを出す。
「余計な事は言わんでいい!
黙ってやれ!」
「はいはい、申し訳ありません」
謝りながらも、吹き出しそうな笑いを堪えている。
ミトラはしょんぼりとうなだれていた。
上機嫌だった太守の機嫌を損ねたバカは誰かと、観客席ばかりか競技場からもミトラの方を見上げる視線が集まる。
隣りの顧問官達は真横でアショーカの大声に晒されて、迷惑極まりない顔で睨んでいる。
「ご、ごめんなさい……」
誰にともなく謝るミトラにヒジムがジャスミンの可憐な花刺繍に縁取られたハンカチで鼻から下を覆ってくれた。
「気にする事ないない。
僕もホント言うと、貴公子然とすましてるアショーカが気持ち悪かったんだ。
やっぱ、こっちが本当のアショーカだよね」
「聞こえてるぞヒジムっ!」
太守席から怒鳴るアショーカにヒジムが肩をすくめる。
そのおどけた様子にようやく場が和んだ。
「ありがとうヒジム」
少々失礼な言葉も、ヒジムが言うと何故か憎めない。
それはきっと温かい気持ちが奥底に流れているからだろう。
「このハンカチは今日のために用意した特別製なんだからね。
失くさないでよ」
ヒジムは片目を瞑って笑ってくれた。
スシーマは隣りの太守席でふてくされた顔でふんぞりかえるアショーカを見て、安堵のため息を洩らした。
ミトラの淡い恋心に気付かれてはまずいと焦ったが、この無骨な鈍感男にはそんな淡い気持ちに気付く機微などあるはずもなかったと苦笑する。
好きなら好きという感情以外ないと思っているこの直球男には、女心を解する繊細な心の持ち合わせはないようだ。
政略に対しては恐ろしいほどの策士のくせに、どうやらその方面の才能だけは授からなかったらしい。
封印によって自分の気持ちに気付かないミトラと、直球男アショーカの心が重なり合うのは、まだ当分先の事だなと一人安堵した。
自分の入り込む余地は充分にある。
次話タイトルは「サカ族部族長 チャン氏」です




