8、アショーカ王子
闇の中にポタリと一つ、しずくが垂れた。
すぐに、しずくは無機質で冷たい金属の色を持つ玉になり、増殖を始める。
二が四、四が十六、十六が二百五十六、二百五十六が……。
あっという間に万を超える数に膨れ上がった所で、ぴたりと増殖を止める。
玉は一拍のちに十個ずつ集まって少し大きな玉になる。
次の一拍でさらにそれが十個ずつ集まって、大きな玉になる。
さらに次の一拍で……。
「六万七千二百三十四」
答えると同時に、一つにまとまった大きな玉がケタケタと笑い声を上げる。
「我が王子よ。
あなた様には小さ過ぎる数でしょう。
なぜもっと大きな数を欲されない?」
「お前など呼んでない。去れ、カルクリ!」
王子は冷ややかに告げる。
古代シュメールの地に生まれし数魔カルクリ。
自在に形を変える血の通わぬ数の悪魔。
「案じられますな王子。
私に心を下されば、あなた様はもっと強大なる覇者となられるでしょう。
森羅万象を、この美しき数で支配するのです。
さあ、決断されよ! 心のままに」
「黙れっ!! そんなもの俺は望んでなどない! 出て行け!」
ケタケタと笑い声が一層高くなる。
「望んでない? 本当に?
私を誤魔化せるとお思いで?
あなた様の心の中など、すべてこの身の数に記されておりますぞ。
私と共にあらば、あなた様を軽んずる王も、重臣もすべて思いのままに操ってごらんにいれましょう。
冨をむさぼり、権力のすべてを手に入れ、思い上がった愚者どもをあなた様にひざまずかせるのです。
ああ、数の魔王となりし王子よ。
決断なされよ! さあ! さあ!」
ほんの一瞬、その甘美な誘いに頭の芯が痺れる。
我が才を利用してきた大人達。
虐げ、陥れようとする権力者達。
魔王となって復讐し、弄り殺せば、この胸に巣くうモヤモヤとした苛立ちは解消するだろうか……。
しかしすぐに誘惑を振り払う。
「うるさい! 出て行けと言ってるだろう!」
たまらず腰の剣を引き抜く。
「そんな物で私が切り捨てられると?」
ケタケタと金属の固まりが嗤うように揺れる。
「出来るかどうかやってやる!」
王子は剣を振り上げ、上段から袈裟切りにする。
ぶさりっっ!
「きええええ!!!」
金属の塊は、生々しい手ごたえと共に血しぶきを上げる。
予想外の事に呆然とする王子の前で、金属は形を変え、懐かしい顔になった。
「アショーカ……。なぜ……」
苦渋に歪む顔は信じられないという表情のまま、くず折れる。
「う! うわああああ!! 兄上! あにうえーーっっ!!」
バコンッ!!
と頭に衝撃が走った。
驚いて目を見開いたアショーカは、目の前の側近の姿にしばし呆然とする。
その手には、丸めた樹皮紙が握られていた。
「ああ、失礼致しました。
夢にうなされておいでのようでしたので起こして差し上げようと……」
「思いっきり、はたいただろう!」
アショーカはジンジン痛む額を押さえ、側近を睨み付けた。
政務の途中で、うとうとと眠ってしまったらしい。
「また例の数魔ですか? 最近よくうなされてますね」
側近はさらっと主君の怒りを受け流す。
「今日は六万七千の玉を瞬時に数えられた」
特異な才能を喜ぶ様子はない。
「では戦場に出ても、六万の兵を自在に采配出来るでしょう。
これは素晴らしい」
絶対素晴らしいと思ってない顔で応じる。
「ああ。血も心も通わぬ鉛玉の兵士だ。
どんな残酷な命令も下せるだろう」
「戦時においては仕方のない事でしょう」
側近は淡々と書類の続きに目を通す。
「そうだな。
お前のように冷たい男は真っ先に紛れて知らぬ間に野垂れ死んでいるだろうな」
肩にかかる灰色の髪から、育ちの良さそうなカーキ色に澄んだ視線がギロリと睨む。
「ならばそういう運命なのでしょう。諦めますよ」
王子の口癖を先に告げる。
「嫌なやつだ……」
アショーカはため息と共に、ふっと笑った。
次話タイトルは「アロン王太子」です