1 封印の巫女姫
第三章始まりました。
今章は読みやすいように文字数少なめにしてみました。
その分、話数が多めになります。
なるべく途切れない更新にしようと思います。
「おーいおい。うおーんおん。うおおおん」
乾燥した大気を湿らすように、乾季のタキシラに泣き叫ぶ声が響き渡る。
野太いダミ声は聞き苦しい事 甚だしいが、それだけに悲壮感が漂っている。
ちょうど向かっている部屋から聞こえてくる遠吠えのような声に、アショーカは足を速める。
付き従うヒジムは波乱の予感にイタズラ好きの笑顔を浮かべ、アショーカよりは小柄ながらも、変わらぬ歩幅を持つ長い足で軽やかに追いかける。
「何事だ! いったい!」
扉を壊すような勢いで開いたアショーカは、スシーマとミトラの前にひれ伏して雄叫びを上げる司祭服のバラモンに顔を顰める。
少し釣り目気味の勝気な灰緑の瞳は、純白の巫女装束の少女に危険がない事を瞬時に判断して、安堵に和らぐ。
薄手の更紗の衣装は動きやすい足筒型に加工するのがこの王子の流儀だ。
「兄上、こんな朝早くからミトラの部屋で何をしておいでですか!」
少し非難を込めて、自分より僅かに背の高い皇太子スシーマを睨みつける。
「いや、ミトラに師を一人紹介しただけだ」
色素の薄い茶色の髪をターバンの下からゆったりと編み込んで、甘く整った藍色の瞳を思案するように歪めて、兄上と呼ばれた王子は考え込む。
更紗のキトンの上に絹を重ねて優雅に着こなすのが、この国一番のモテ男と呼ばれる皇太子の流儀だ。
「師を?」
アショーカはバラモンを見下ろし、ついで困ったようにオロオロしているミトラを見た。
「今度は何をしでかしたのだ?」
もはやトラブルの引き金を作る天才の少女に、またかという顔で問いかける。
「わ、分からないのだ。
ただ教えを請おうと師の話に耳を傾けていただけなのだが……」
自分でも分からないらしい。
「教え? 何の教えだ?」
「えっと……。何であったか……?」
ド忘れしたように首を傾げ、司祭に問いかける。
その無垢な翠の瞳に見つめられ、司祭は再び「ひいいいい!」と叫び、顔を伏せる。
「ど、どうか私めを死罪に!
このような清らかな方に不埒な事を教えようとする、この穢れた凡夫にどうか罰をお与え下さい!」
再びおんおんと泣き出したバラモンを見て、アショーカは何があったのか検討がついた。
咎めるようにスシーマをチラリと見る。
「兄上も懲りない方ですね」
呆れたように言われ、スシーマは腕を組んで渋い顔をする。
「この者がお任せ下さいと自信たっぷりに言うものだから、期待したのだがな……」
「ひいいい。申し訳ございません。
神妻と定められし聖なる女神様に、この罪深き愚者が大それた事を……。
この汚らわしい口をどうか二度としゃべれぬように焼き払って下さいませ!
うおおおん、おんおん」
バラモンは床にへばりつくようにして懇願する。
「な、何を言われるのだ。
そなたは清廉潔白なバラモン司祭殿だ。
汚らわしくなどない。
どうかお顔を上げて下さい」
ミトラは屈んで手を取ろうとする。
「ひいいい。畏れ多い事にございます。
どうかこの凡夫にお触れにならないで下さい」
「し、しかし……」
やれやれとアショーカはため息をつく。
「ミトラ、やめておけ。
また先日の賢者のように窓から飛び降りようとするぞ」
「えっ!」
ミトラは慌てて手を引く。
つい一昨日の事だ。
スシーマがパータリプトラから連れてきた賢者にミトラが教えを請おうとしたら、突然賢者は豹変し、窓から自死しようとしたのだ。
間一髪アッサカが引きとめ、大事に至らなかったが、アッサカがいなければどうなっていたのかと思うとぞっとする。
そして昨日は吟遊詩人の青年に教えを請おうとした。
最初は他愛もない詩物語に会話が弾んでいたはずが、途中から急に様子がおかしくなり、やはり部屋を飛び出して自室に引き篭もり、今も閉じこもっているらしい。
「ナーガ、衛兵に命じてこの司祭殿を連れていけ。
しばらくは自死しないように見張っておいてくれ」
スシーマは頭に異物を乗せた側近に命じる。
「かしこまりました」
人の良さそうな三日月の細い目が応じるのと同時に、頭に蠢く二匹の蛇もシャーッと舌を出して応じる。
世界最強の毒蛇には、マナヒーとヴリトラという名前まであって、ナーガは顔を見ただけで二匹の区別がつくらしいと最近知った。
頭に乗せたペットのようなものらしい。
頭は危険極まりないが、本人の人柄は穏やかで、よく機転のきく側近だ。
ナーガは、すぐにバラモンの腕を取り衛兵達を呼んで指示を与える。
よろよろと連れて行かれる司祭を見送り、ミトラはひどく落ち込んでいた。
何が原因かは分からないが、自分と話していて立て続けに三人もおかしくなってしまったのだ。
自分が何かひどい事をしてしまったに違いない。
青ざめるミトラを見てから、アショーカはスシーマを睨み付けた。
「兄上、もうミトラにつまらぬちょっかいをかけるのはやめて頂きましょう」
皇太子の兄に対する不遜な態度に腹を立ててもいいぐらいだが、スシーマは素直に反省した。
「そうだな。ミトラ、すまなかった。
そなたが悪い訳ではないから気にするな」
「でも……」
自分の何かがおかしい。
さすがのミトラも気付き始めていた。
アショーカはヒジムを使って、すでにスシーマと同程度の情報は掴んでいる。
しかし、本人に知らせるつもりはまだなかった。
封印や呪の存在を知れば、ますますミトラは頑なに巫女として生きようとするだろう。
スシーマもそう思うから伝えない。
そして幸いにも記憶への封印が、適度に様々な出来事を薄れさせ、ミトラをさほど深刻にさせなかった。
話題さえ変えれば、記憶はすぐに彼方へいく。
それはもう分かっていた。
「それよりミトラ、そなたに相談があって来たのだ」
アショーカは、すぐさま話を変えた。
次話タイトルは「部族長」です




