30 カーマ・スートラ
その夜、アショーカと側近達の祝杯の席にミトラも呼ばれた。
ソルとアッサカを従え、アショーカの隣りの席につく。
アショーカはすでに酔っ払って出来上がっているようだ。
「ミトラ、祝いだ。そなたも飲め!」
アショーカはなみなみ注いだ杯をミトラに差し出す。
「酒は飲めぬと言っているであろう」
ミトラは迷惑そうに杯を戻す。
「なにっ!
俺様の杯が受け取れぬと申すか」
百アショーカの大声にミトラは耳を塞ぐ。
ちょっと見直したと思うとすぐこれだ。
酒癖が悪い上に横暴で声が大き過ぎる。
「それ、飲めっっ! 絶対飲ませる!」
無理矢理杯をミトラの口に近付け飲ませようとする。
「放せ! この酔っ払い!」
ミトラは必至で押し戻すが、なにせ力が強い。
「もう、ダメだったらアショーカ。
巫女姫様はお酒なんか飲まないんだよ」
トムデクが間に入って取り成そうとしてくれる。
「なんだ神の妻は酒も禁止なのか!
だったらどんどん飲んで愛想を尽かされてしまえ!」
「もう滅茶苦茶だよ」
必至でアショーカをなだめるトムデクに対し、いつもは真っ先に首を突っ込んでくるヒジムが、黙ってミトラの様子を覗っているのを見て、サヒンダは首を傾げる。
「いや、聖大師様は酒は飲んでも良かった。
むしろ毎日出していたぞ」
ミトラはふと在りし日を思い出した。
「ほう、ではそなたも飲め!
何の酒を飲んでいたのだ?
メーダカ酒か? プラサンナー酒か? マドゥ酒か?
何でも用意させるぞ」
「いや、ソーマだ。
ソーマ酒を出していた」
アショーカの手が止まる。
その顔に不審が浮かぶ。
「ソーマだと?
毎日ソーマを飲んでいたと申すか?」
酒というよりは魔薬だ。
常習性があり、飲みすぎると命も奪う危険な魔酒だ。
先日少し飲んだが、一口で痛みが消え、異常な高揚感を味わった。
あんなものを毎日飲んでいれば長生きは出来ないだろう。
いや、下手をすれば心が蝕まれる。
アショーカは一気に酔いが醒め、考え込んだ。
まさかそこに聖大師の秘密があるのか?
だが酒にも強く生命力も半端ない自分ですら一口飲んだだけで効き過ぎだと思ったあのソーマを、この吹けば飛んでゆくような華奢な少女が飲めば、どんな事になるか。
考えなくてもわかる。
「ミトラ、ソーマを飲んではならぬぞ。
お前などが飲めばすぐに儚くなる。
絶対に飲まぬと約束しろ」
「え? でも聖大師様は大丈夫だったぞ?」
「よいから約束しろ!」
急に真剣な顔になったアショーカにミトラは疑問を浮かべる。
「では約束するから、私もそなたに頼みがあったのだ」
ちょうどいい時に思い出した。
「頼み? なんだ?」
すっかり酔いが醒めた顔でアショーカはミトラを見る。
「ヒンドゥクシュから戻ったら頼もうと思っていたのだ」
嫌な予感がする。
「言ってみろ」
警戒しながら告げる。
「読みたい書物があるのだ」
その言葉にほっとする。
「なんだ、そんな事か。
俺が持ってる書物なら何でも貸してやるぞ」
安心して自分の杯に酒をなみなみ注ぐ。
ついでに側近達にも注いで回る。
「そなたは全巻持ってると聞いた」
「ほう、まあ俺様の蔵書はヒンドゥでも一番だからな。
ほら、お前達も飲め」
アショーカは酔いの浅い側近達に勧める。
「して何という書物だ?」
四人はぐいと杯を傾ける。
「カーマ・スートラだ!」
四人は同時にぶ――――っっと酒を吹き出した。
ミトラはぎょっとしてゴホゴホと咳き込む四人を見つめた。
「な……な! だ……誰に……。けほっ……」
アショーカは咳き込みながら言葉を継ぐ。
「だ、大丈夫か?
どうしたのだ、みんな?」
ミトラは訳が分からずオロオロする。
「ヒジム――――ッッ!」
アショーカが怒鳴る。
「ち、違うよ!
僕はミトラには言ってないよ。
知らないよ!」
ヒジムが慌てて弁解する。
「では誰が言うというのだああ!」
ひどい剣幕で怒るアショーカを見て、後ろに控えるソルが青ざめた顔で手を震わせている。
「誰だああっっ!
ミトラにつまらぬ事を吹き込むやつはああっ!」
今にも剣を引き抜いて成敗しそうな勢いの王子を見て蒼白になるソルを、アッサカがチラリと横目で見る。
その視線に気付いてソルは終わりだと思った。
「アショーカ様、女官達の噂話が偶然耳に入ったようでございます」
アッサカはしかし、ソルを庇うように進言した。
「女官たちが?」
怒り心頭のアショーカは、キッとヒジムを睨み付けた。
「やっぱり情報の出所はお前ではないか!」
「ご、ごめんったらあ。
悪気はなかったんだよ」
ヒジムはあわてて平謝りをする。
「今度つまらぬ噂を流してみろ、パータリプトラに送り返すぞ!」
まだ怒りは収まらない。
「あの……アショーカ……。
なんだか分からないがヒジムを怒らないでくれ。
カーマ・スートラとはそんなに大事な禁書だったのか?
幻の書と聞いて読んでみたかったのだが、そんなに怒るなら遠慮するから……」
怯えたように青ざめる無垢なミトラの瞳を見て、アショーカは額を押さえ盛大なため息をつく。
「そうだ。
お前が読んだら気絶するような重大な機密が描かれた禁書だ。
二度とその言葉を口にするな。
命を狙われるぞ」
平然と大嘘をつく。
「そ、そんな恐ろしい書物だったのか。
わ、分かった。
二度と口にしない」
アショーカは真剣な顔で頷くミトラに、ふと幼い弟ティッサの面影が重なって可笑しくなった。
「ただし内容を知りたければ、いつでも俺が手ほどきをしてやるぞ。
手取り足取り余す所なく教えてやる」
にやりと笑う。
ソルは非難の目を向け、アッサカは困ったように顔をうつむける。
「本当か? ありがとうアショーカ!」
満面の笑みで歓ぶミトラに側近達も笑いを噛み殺す。
「事実を知った時、その笑顔がどんな顔になるのか楽しみだな」
「え?」
きょとんとするミトラに、ついに堪えきれず、みんな爆笑した。
次話タイトルは「エピローグ」です




