28 アショーカとスシーマ
「ミトラ様、どうかヤギのミルクだけでも召し上がって下さい」
ミスラの祭壇に向かい真言を唱え続けるミトラに、ソルはもう何度目か分からない言葉をかけた。
アッサカは少し離れて片膝をついた姿勢のまま控えている。
ミトラと同じように二日間ほとんどその体勢のままだ。
良く出来たこの従者は、その体勢のまま仮眠をとっているのか、睡魔に揺らぐ様子もない。
ソルは申し訳ないと思いつつ、アッサカに任せて時折侍女部屋で仮眠をとっていたが、それでもそろそろ限界だった。
ふらりと倒れそうになる。
「ソル、私の事はよいから、そなたは部屋で休め。
どうか、私の気の済むようにさせてくれ」
ミトラはそう言って両手に握り締めた耳飾りに口をつけ、何事か念じ続けている。
「でも……ミトラ様、このままでは……」
言いかけたソルは、今まで微動だにしなかったアッサカが、ぱっと体の向きを変えたのに気付いて、その視線の先を辿った。
扉を開け、ゆっくり近付いてくる人影。
その人影に向かって、アッサカはこの男の最大限の喜びの表情を浮かべ、右手を胸に当て頭を下げた。
「私の事は放っておいてくれと言っているのだ。
アッサカもいいから休め」
ミトラはそう命じると耳飾りを口に当てたまま、目を瞑り更に念じ続ける。
その背中を、唐突に力強い腕が抱きしめた。
ミトラはハッとして目を見開いた。
「またそんな事を言って従者を困らせているのか。
仕方のないヤツだな」
耳元に響く低い声。
覚えのある温かい抱擁。
「アショーカ……。
本当に……そなたなのか?」
瞬間に、ミトラの目に涙が湧き溢れる。
「俺でなくて誰だというのだ」
ふ……と笑う吐息がかかる。
「幻ではないのか……?
振り向いたら消えてしまうのでは……?」
耳飾りを握る両手に涙がつたう。
「人を勝手に幻にするな!
お前の元に帰ると約束しただろう」
「だ、だって……ラーヴァナに倒され……。
私に……すまぬと言った……」
ポロポロと涙がこぼれ落ち、背中から抱きしめるアショーカの腕まで濡らす。
「まあな。
あの時は本当に死んだと思ったからな。
だが、帰ってきた。
俺はちゃんと生きてるぞ。
嘘だと思うなら、振り向いてその目で見てみろ」
ミトラは激しく首を振る。
「怖いのだ……。
振り向いて……消えてしまったら……。
うっく……うっ……」
嗚咽が漏れる。
「そなたに会う為、寝る間を惜しんで馬を駆り帰ってきたというのに顔も見てくれぬのか。
お前ほど冷たい女はおらぬな。
サヒンダの一番弟子になれるぞ!」
呆れたように責め立てる。
「わ、私がどれほど心配したと思っているのだ!」
思わず振り向いて抗議する。
その翠の瞳になつかしい笑顔が映る。
傲慢で高飛車で……。
すべてを委ねたくなるような温かい眼差し……。
「アショーカ……」
安堵の思いにそれ以上言葉が出ない。
しかし、すぐに思い出してその左手を掴む。
「左手は……! 肩の傷は……!」
確かめるように薄手の長衣の袖をめくって、小麦色の筋肉で盛り上がった腕を、上に下に確認する。
ほっとする間もなく、最後にラーヴァナに貫かれた顔面を見上げる。
「顔は……! 頭は……!」
ミトラは手を伸ばして、そっと頬に触れる。
グリングレイの瞳が、いつもに増して強い輝きを放っている。
その顔が上機嫌ににやりと微笑んだ。
「次はどこがお望みだ。
胸か? 腹か?
今日だけ特別だ。
好きなだけ触らせてやるぞ。
なんだったら、ここで裸になってやろうか?」
途端にハッと我にかえる。
「バカ! アショーカのバカ!
どれほど心配したか!
どれほど不安だったか!
バカバカバカ!」
ミトラはアショーカの胸に拳を叩きつける。
「おいおい。
優しくキスでもしてくれるのかと思ったら殴るのか。
お前というヤツは……」
笑いながら振り下ろす拳を受け止め、おそらく渾身の力であろうその拳が、驚くほど弱い事に気付いて、アショーカはミトラを抱きしめた。
二日間の不眠と絶食は、この小さな姫を儚くするほど衰弱させていた。
自分とは比べ物にならないほど弱い生命力。
もう一日帰りが遅かったらどうなっていたのか。
その危うさに背筋が凍る。
そして、そこまでの危機に陥らせた事を素直に申し訳ないと思った。
「もういい。
もう分かったから、少し休め。
もうどこにも行かぬ。
だから安心して休むのだ、ミトラ」
それが魔法の言葉のようにミトラはストンと眠りに落ち、アショーカの腕にくず折れる。
「ミトラ様!」
ソルが驚いて駆け寄る。
「大丈夫だ、眠っているだけだ」
アショーカは腕に抱え上げ、ベッドに向かう。
しかし、ふと視線を感じて立ち止まった。
「兄上……」
戸口に背をもたせかけ、腕を組むスシーマが目に入った。
「おいででしたか」
いつからいたのか、面白くない顔でミトラを抱き上げるアショーカを睨んでいた。
「好きな女が他の男に抱き上げられている姿を見るというのは中々にムカつくものだな」
スシーマは苦笑する。
「お互い様ですよ」
アショーカの言葉にスシーマが首を傾げる。
「サヒンダ殿に聞いたのか?」
「見ていましたから」
「?」
スシーマは怪訝な顔をする。
「ずいぶんお早いお着きでしたね。
兄上の事だから万全の人数で、安全第一に、ゆっくりいらっしゃると思いましたが、存外せっかちでいらっしゃる」
嫌味をこめて言う。
「そなたの方こそ、どれほど無茶なとばし方をしてきたのか。
ズタボロのラーダグプタが気の毒になったぞ」
「私はこういう性分ですから」
二人はしばし睨み合う。
「ふ……。カピラ大聖を連れ帰ったとか。
油断のならぬヤツだな。
お前は人心を虜にする魔術でも使えるのか」
「女心を掴むのは兄上の足元にも及びませんがね」
「されどミトラの心は、今のところそなたに一歩先を越されているようだな」
スシーマは素直に認める。
「ようやく諦める気になられましたか?」
「バカを申すな。一歩だけだ。
それもおそらくミトラのそなたへの想いは、父や兄に向ける情のようなものに近い。
そなたの望むものにはほど遠い。
そうであろう?」
すべて見通した顔で言い切るスシーマに、アショーカはぐっと言葉を詰まらす。
分かっている。
シェイハンの王族を皆殺しにされたミトラには家族と呼べる者がいない。
アロン王子とやらへの思慕を目の当たりにして、初めてアショーカは気付いた。
その孤独が、僅かに時を共にした自分への執着に繋がっている。
自分の生死に錯乱するほど怯えたのは、また世界に一人きりになるかもしれないという恐怖に他ならない。
恋や愛などという甘ったるいものではない。
「本当の勝負はこれからだ、アショーカ。
私は権力を振りかざし、ミトラを手に入れるつもりは毛頭ない。
皇太子の特権で無理矢理、妃にしたりはしない。
そんな事をすれば、ミトラは生涯私に心を開かぬだろう。
だから、先にミトラの心を掴んだ方が妃に迎える。
それでよいな?」
宣戦布告をするスシーマに、アショーカはふ……と笑う。
「大した自信ですね。
後で撤回するのは無しでお願いしますよ」
「当たり前だ。
そんな恥知らずではない」
知っている。
父に嫌われている自分を蔑む他の王子達と違い、この兄上だけは小さい頃から律儀なほど公平であった。
長子の皇太子という立場にありながら、驕らず、怠けず、誰にも誠実を尽くす。
アショーカが数少なく尊敬している人物だ。
万一負けて、ミトラを託す事になっても、諦めのつく唯一の相手だ。
「では勝負です、兄上。
相手に不足はありません」
「私もだ」
ソルはオロオロと二人の会話を聞きながら、何も知らずアショーカ王子の腕の中で眠るミトラの未来を思い測った。
以前見かけた時は、側近の暴言に切りかかる、横暴で恐ろしい王子のイメージであったアショーカ王子。 しかし、今、大事そうに腕にミトラを抱える王子には、誠実な想いがあるようだ。
それは分かった。
そして皇太子と対等に渡り合うだけの資質。
決してつまらぬ男ではない。
何かしら人を惹き付ける魅力がある。
それはこの凶悪に無表情のアッサカに笑顔を浮かべさせるほどの魅力。
死がミトラを錯乱させてしまうほどの何か。
それでも……。
やっぱりスシーマ王子の妃になる方がいい。
ソルはそう思った。
女なら誰もがそう思うだろう。
ソフトな外見だけではない。
皇太子という地位、落ち着いた大人の男の雰囲気。
きっと平和で安定した幸せをくれる。
女なら誰もがそれを望むだろう。
しかし……ミトラ様はどうだろう。
この数日で分かった事。
恐ろしくネンネで、恋愛の駆け引きや損得どころか、結婚の何たるかも分かってはいない。
みすみす不幸に飛び込んでいくような不安定さを持っている。
ここは主の幸せを望む侍女として、何が何でもスシーマ王子に心を向けさせるべきだ。
妙な使命感のようなものが心の底から沸々と湧き上がるのを感じて、ソルは気を引き締めた。
次話タイトルは「カピラ大聖」です




