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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
61/222

26  カピラ大聖

 

 巨大な洞窟の中でアショーカとラーダグプタは目覚めた。


 しかしそばには焚き火も湖もない。

 切り立った崖に囲まれた静かな空間。


 天井は空に届くほどに高く、人が千人も入れそうなほど広い。


 崖の一画に祭壇があり、階段状になった崖上に向かって火の灯った燭台が連なっている。

 遥かに見上げる先には崖に埋まるようにして何かを奉っていた。


 ほとんど岩に同化しているように見えるそれは、人間の形をしているように見えた。

 足を組み祈りの姿勢をした僧侶。

 その髪と髭は崖の四方に蔦を這うように伸び続けているようだ。


 その存在感に圧倒されて見上げていた二人は、ハタと我が身を振り返った。


「ラーダグプタ、ここは黄泉の国か?」

 アショーカはラーヴァナに切り刻まれたはずの手足を見ながら尋ねた。


 血まみれで紫に壊死していたはずの左手は、薄汚れ衣装も引き千切られてはいるが、血色良く生気を放っている。


「どうでしょうか。

 話に聞く黄泉の国とは違うようですが……」


 魔物の爪に貫かれたはずのアショーカの顔面は、活きのいい灰緑の瞳が輝いている。

 膿んで全身に広がっていた肩口の傷跡もどこにも見当たらない。

 まるで悪夢から覚めたように二人は元の健康な体に戻っていた。

 ただしビリビリに刻まれた衣装だけが、惨状の事実を物語っていた。


「ここは暖かいな。

 雪山の寒さを感じない」


「さっきまでいた、崖山の頂ではないようですね」


「地獄でもお前と二人きりか。

 つまらぬな」

 アショーカは心底がっかりしたように腕を組む。


「ここは地獄ではありませんよ」

 ラーダグプタが断じる。


「なぜ分かる?」

 アショーカが怪しんで尋ねる。


「私とアショーカ様が、このような穏やかな地獄で済むはずがございません。

 ここには血の池も、槍の山も、火だるまの谷もありません」

 妙に自信をもって答える。


「なるほど。実に説得力のある見解だ」

 アショーカも深くうなづく。


「ほっほ。

 どれほどの悪事をされてきたお二人なのやら……」

 ふいにどこからか老僧が現れた。


「そなた! 生きておったのか!」

 アショーカとラーダグプタは警戒の目を向ける。


「当たり前ですのじゃ」


「鬼は? 鬼はどうなった?

 ミトラの目は?」

 慌てて尋ねるアショーカに老僧は懐から水晶を取り出し、二人の前に差し出す。


「無事戻りましてございます」


 二人はほっと胸を撫で下ろす。

「ではミトラの瞳は戻ったのだな?」


「はい。二つとも本人に返しましてございます」

 老僧は恭しく告げる。


「そうか。ならば良い」

 安心した途端、七日の間に溜まった疲れがどっと体に圧し掛かったような気がする。



「あなたは……もしやカピラ大聖ご本人なのではございませんか?」


 突然のラーダグプタの問いかけに、アショーカは、はっと目の前の小さな老人を見た。


 貧弱な体に大きな杖を持ち、髭は地面まで垂れて、禿げ上がった頭に毛が一本だけ生えている。

 この貧相で口の悪いスケベ老僧が?


「なぜそう思うのじゃ?」

 老僧は否定も肯定もせず問いかけた。


「なによりも呪を行った時のマントラの威力。

 あれは並みの僧侶の力ではない。

 それにすべては仕組まれていた事だったのでは?

 雪山の遭難も、鬼の攻撃も、すべては大聖様の手の中で造られ、我等はその幻影を見ていた。

 違いますか?」


「なんだと?」

 アショーカは老僧を見る。


「なにゆえそんな事を?」

 老僧は問答のように問う。


「我らの極限を見たかったのでございましょう。

 死のギリギリ、いや、死を見た瞬間こそ本性が浮き出るもの。

 我らが何を守り何の為に生きるのか。

 それを見極めるためだったのでは?」


「……」


 しばし三人は無言で睨みあった。


「ほっほ」

 静寂を打ち破るように老僧が笑う。

「よくできました、じゃな。

 その通りじゃ」


「な、なにゆえそんな回りくどい事を!

 何を守り何の為に生きるかなど、問われれば正直に答えてやるものを……」

 アショーカは腹を立てていた。


 当然といえば当然だ。

 永遠にも感じた寒さと苦しみの雪山登山。

 次々襲い来る鬼と、壊死の広がる肉体。

 二度も死にかけ、実際死を体感したのだ。

 どれほど不安になり、何度絶望したか。


「王子様のように言葉と行動が同じである人間など滅多にいないのですじゃ。

 言葉でどれほど大層に語ろうとも、絶望的な現実を目の当たりにした途端、卑怯な保身にまわる者のなんと多いことか。

 雪山の苦しさに弱音を吐き、倒れた老僧を見捨て自分だけ助かろうとする者。

 鬼の姿に腰を抜かし、瞳を捨てて逃げ帰ろうとする者。

 ワシは千年の間、そんな人間達の姿に失望し、興味を失い、静かに静かに我が心とだけ向き合ってきましたのじゃ。

 もはや人間に未練もなく、そろそろ天界に逝こうかと思っていた所ですのじゃ」


「天界へ……?」


「じゃが……、最後にもう一度だけ、愚かな人間凡夫の行く末を見守ってからでもよいかと決心しましたのじゃ」

 老僧は微笑む。


「では……」

 アショーカは、はっと老僧を見つめる。


「ほっほ。

 そなたほど我が身の利を顧みない愚か者など会った事がない。

 他者の為に自分のすべてを投げ打つ事に少しのためらいもない。

 ……かといって、諦めがいいのかと思えば、驚くほど命に執着しておる。

 最後の最後まで僅かな希望を捨てぬ往生際の悪さ。

 こうも愚かで面白き男の人生を傍で見ずして天界に逝くのは心残りじゃでな。

 そなたの傍でしばしの時を過ごしてから逝く事に決めましたのじゃ」


「そ、それでは……大聖様……」

 ラーダグプタは驚いたように身を乗り出す。


「うむ。祭司大官が望みじゃったか?

 肩書きなどはどうでもよい。

 アショーカ王子よ。

 そなたの力になろう。

 正しき王となるそなたを見届けようではないか」


「大聖様……」


 アショーカとラーダグプタはひざまずき、大聖に礼を尽くした。


「実際には本当のワシの体は、それ、あの崖上のミイラのように岩と同化しておる、あれじゃがな」

 カピラ大聖は崖上を指差した。


「え? ではあなたは?」


「人間の肉は百二十年で再生を終え、地に帰る。

 それは大聖とて止められぬ事じゃ。

 じゃからワシは自分の肉をあの崖山に納め呼吸さえも止め、千年の昔から非常にゆっくり時を刻んでおるのじゃ。

 この体はワシに仕える老僧のもの。

 ワシはこの老僧に、たった一本の毛を立てて宿っているに過ぎぬ。

 老僧は一本の毛を元にワシと共生して修行を積んでおるのじゃ」


「なんと! そのような事が……」


「そういえば途中からハゲ頭に毛が立っておったな。

 口調も変わったような気がする」


「そういう事じゃ。

 毛が抜ければ、ただの老僧に戻る」


「この毛一本にな……」

 不思議そうにアショーカは手を伸ばし毛を引っ張った。


「こら! やめんか!」

 老僧はあわててアショーカを払い、毛を押さえた。




次話タイトルは「帰還」です

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