6、神官 イスラーフィル
ヒンドゥの叙事詩ラーマーヤナ。
ミトラの好きな詩篇だ。
ラーマ王子は隣国のシータという徳の高い美しい姫の愛を勝ち取り、ダンダカの森で暮らすようになる。
しかし姫は恐ろしい魔王、ラーヴァナに連れ去られてしまう。
ラーマ王子はシータ姫を取り戻すため、猿の将軍ハヌマーンと共に助けに行くという伝説の物語だ。
ミトラは森の中で、その詩篇を口ずさみながら、摘みとったソーマ草をその場ですり潰した。
良質のソーマは、鮮度が高く、美しき言葉の余韻を含むと言われている。
本来、神への賛歌集であるリグ・ヴェーダを詠うのが慣わしだが、ミトラはいつも大好きなラーマーヤナを口ずさむ。
シェイハンの聖大師となる少女の作るソーマは、代々、最高級の神酒だった。
{ランカーの 珊瑚紡ぐ白亜城
美しき塔に我が身あり
されど心はラーマ様の御側に
異形の監視女達 一つ目の魔女よ
耳の尖った羅刹女よ
我が身を王子に返したまえ}
持ってきた薄板の上に草をのせ、棒のような石臼を両手で転がし、すり潰す。
水分を多く含む草は、薄板の下で受ける木桶に、果肉をつけた液体をドロリと溜めていく。
{魔王ラーヴァナ 天空の宮殿より現れし
シータよ
月妻ローヒニの面影映す美しき乙女
ミティラーの王女
あらゆる美徳を備えし女神
我が妃となるがよい}
木桶に溜まった汁を今度は大きめの木椀に広げたパヴィトラという、麻で編んだ特殊な布に流して行く。
この麻も昨日ミトラが編んだばかりの新鮮な布だ。
{不埒な魔王よ 我が身は夫ラーマに捧げん
一触れ許さば 懺悔に狂い 黄泉に逝かん}
最後に布を包んで持ち上げ、木椀の中に搾り出す。
ここまで出来たら、後は神殿に帰ってから、ハマラの種と紅キノコの汁を混ぜて、ラピスラズリの杯で発酵させると原酒が出来る。
{魔王 その清らかなるに怒りをおさめ
一年の時を待ち過ごす}
同じ行程を何度か繰り返し、ミトラはひと月はもつ分量の原液を絞り出した。
供の神官達は、樹海に木霊する聖なる歌声にうっとりと聞き惚れていた。
{一年が過ぎし 絶望の王女
その長く美しき黒髪 首に巻きつけ
自死せんとす
猿の将軍ハヌマン現れ 英雄ラーマ
必ずや助けに来ると約し ただ去らん}
ようやく全部出来たと顔を上げたミトラの周りには、歌声を聴きつけた林住の老人達が集まっていた。
腰布一つの質素ないでたちだが、みな肉体の滅びに向かって、心清らかに修行の日々を過ごす徳の高い老人だ。
しかし所々、小さな子供も混じっている。
その中の一人、まだ十歳にも満たないだろう少女が、完成を待っていたようにミトラに縋りついた。
「神の歌を歌う女神様! どうか助けて下さい! お母さんが死んじゃう!」
泣きじゃくる少女をミトラは受け止めた。
「どうしたのだ? 何があった?」
「赤ちゃんが……赤ちゃんがずっと産まれなくて、お産婆さんももう二人ともダメだって言うの! お願い。助けて!」
ミトラは聞くなり駆け出していた。
導師がすぐに後を追う。
「ミトラ様っ!」
呼び止めるイスラーフィルにも構わず、ミトラは少女に手を引かれて行ってしまった。
イスラーフィルは「ちっ」と舌打ちして、警護の兵を呼び集め、慌てて追わせた。
導師と共に辿り着いた少女の家は、ダンダカの森を抜け出た先にあった。
泥煉瓦に藁葺き屋根の、今にも崩れそうな家だった。
虫の息で気を失っている妊婦と力尽きて放心している産婆の横で、少女の兄弟とおぼしき幼子たちと父親が諦めきった顔でさめざめと泣いていた。
「まだ大丈夫。まだ命の火は消えてない! 頑張るんだ!」
ミトラは妊婦と赤ちゃんのいる腹が黒い影に覆われていない事に安堵した。
それどころか腹の周りには命の芽生えを感じさせる萌黄の光が見える。
赤ん坊はまだ生きようとしている。
「どうやら赤子の首に命の緒が巻きついてるようですね」
導師の見立てに頷くと、ミトラはそっとその腹に手をのせた。
お産には何度か立ち会っている。
腹の中の様子を知るすべのないこの時代、ミトラの僅かばかりに持つ神通力が最もその能力を発揮出来るものの一つだった。
ミトラ達が無事赤子の出産を終えたのは一刻も過ぎた頃だった。
「もう大丈夫だろう。
栄養のあるものを食べさせてあげよ。チーズなどがいいだろう」
ミトラが言うと少女が悲しげに目を潤ませた。
「チーズを買うお金なんてうちにはないんです」
ミトラは、はっとしてもう一度ボロ家を見回した。
シェイハンでは奴隷でさえこれほど貧しくはない。
乾季とはいえ旱魃の被害もないのにこの貧困は何故なのか?
「マウリヤ朝のビンドゥサーラ王が今回派遣させてきた太守様はこれまでになく無慈悲なお方でして……農民は日ごと飢えに苦しむようになり、山賊に身を落とす者が後を絶ちません」
父親は途方にくれたように微笑んだ。
「昼食用に持ってきたパンが残っているはずだ。薬湯と一緒に置いていこう」
ミトラはそう言い残して出てきたが、こんな僅かな慈悲が何の役にも立たない事は分かっている。
今日食い繋いでも、明日の食事は誰も保証してくれないのだ。
「どうなっているのだ、この国は……」
嫌な予感が胸をかすめる。
「ミトラ様、お急ぎを! もう日が暮れます。
聖大師様がおくだりになる時間です」
農家を出ると待ちかねていたように神官達が駆け寄ってきた。
すでに馬をここまでまわしてくれていたが、それでも日の入りには間に合いそうにない。
「ミトラ様、夜の森は危険です。
私の駿馬で先に戻って女官達に指示を与えましょう。
最悪の場合、宦官の私がお世話を致します。
ミトラ様はどうか街道に迂回して、無理のないようお戻りを」
言うなり導師は駿馬に飛び乗りミトラが声をかける間もないままに森の中に駆け去った。
「このような事は前にもあったのですか?」
イスラーフィルは自分の役目とばかりミトラを馬上に乗せて自分も馬に飛び乗ると、険のある口調で尋ねた。
「に、二回ほど帰りが間に合わなくて女官達にお願いした事がある。
聖大師様も特にお咎めにならなかったし……」
イスラーフィルはミトラのやる事がいちいち気に食わない男だが、聖大師様のお世話に支障があると、いつにも増して辛辣になる。
「ミトラ様は何か考え違いをされておられるようですね。
あなたの一番のお役目は聖大師様に仕える事ですよ。
お役目を全うしてこその次代の聖大師様でございましょう!
他国の民のためにおろそかにしていいはずがない!」
「わ、分かっている……」
やはり言われたと思ったが弁解のしようもない。
「それとも慈悲を施し、人気を得て聖大師様に取って代わるつもりなのですか!」
「ま、まさか!」
嫌な男だ。
ミトラは馬上でうつむいた。
「イスラーフィル様、言い過ぎでございますよ。
ミトラ様は尊いお役目を捨ておいても貧しい村人を救いたかったのです。
慈悲深いお方なのです!」
シェムナーイルが馬を並べてきて抗議した。
ミトラの隣りではレオンが、血の池送りを言い渡す、裁きの神ハデスのごとく形相で、イスラーフィルを睨み付けている。
もはや情状酌量の余地はないらしい。
「尊いお役目を捨て置く?
それは本当に正しい選択だったのでしょうか?
あなた様の軽はずみな行動が聖大師様をはじめ、つき従ってきた多くの神官にも迷惑をかけているのですよ。
夜道の帰城は危険も多く、皆の貴重な祈りの時間も奪っているのです」
「で、では死に行く妊婦を見捨てれば良かったと?
私には出来ない」
いい加減ミトラも腹が立ってきた。
助けを請う者を見捨てる選択などミトラにはない。
「そうですよ。ミトラ様にはそんな無慈悲な事など出来ません」
シェムナーイルの親友のユンダーイルも馬を並べてイスラーフィルに抗議した。
「国を動かす者は大局をみて選択せねばなりません。
妊婦を選んだばかりに聖大師様が何か危険に晒されたとしたらどうされるのですか?」
「導師殿がついていて下さる。きっと間に合っておいでです」
「あのどこの馬の骨ともわからぬ男に聖大師様の世話をさせるのですか!
それこそ一番避けねばならぬ事です!」
イスラーフィルの口調が強くなる。
「男ではない。宦官だ」
「証明出来ますか?
ミトラ様はあの者が宦官である証拠を見たのですか?」
「そ、そんな失礼な事が出来るか!
導師殿にカツラを外せと言うのか!」
「は? カツラ?」
イスラーフィルは一瞬何の話をしていたのか分からなくなった。
「だから……毛が全部抜け落ちたら宦官になるのだろう?
知ってるぞ!」
ミトラは最近ようやく得た知識をひけらかすように胸を張った。
「……」
その場の全員が唖然とミトラを見つめる。
「では……あれに見えるラダ神官は宦官ですか?」
イスラーフィルは前を行く、脂ののった見事なスキンヘッドの神官を指差した。
「おお。そうだな!
いつの間にか宦官になられていたのだな!」
ミトラは頷く。
「そんな訳ないでしょうっっ!」
その場の全員が同時につっこんだ。
「……つかぬ事をお聞きしますが、ミトラ様はどうやって子を宿すかご存知ですか?」
イスラーフィルは恐る恐る問いかける。
「子を宿す儀式の事か。
その詳しい内容は残念ながらまだ知らぬのだ。
恐ろしい苦行ゆえに、結婚するまで教えてもらえぬらしいな。
レオンもまだ知らぬようだしな」
みんなは涼しい顔で馬を並べるレオンを見た。
(嘘をつけっっ!!)
と全員が心の中で思ったが、(余計な事を言ったら殺すぞ!)という目でギロリと睨み返され、それぞれ口を噤んだ。
(それにしてもたった今、産婆のごとく赤子を取り上げてきたのではないのか?)
「ミトラ様が算術が苦手なのは知ってましたが、医術には詳しく、当然知っておいでと思いましたが……」
イスラーフィルは信じられない事実を愕然と受け止める。
「あのインチキ導師め!
ずいぶん偏った教育をなされているようだ」
算術が残念なのは代々の聖大師の特性のようなもので、ミスラ神が浮気相手の数を数えられぬよう欠落させただとか、古のメソポタミアの文明が産んだ数魔から守るためだとか噂されているが、イスラーフィルは完全無欠の人間を作らぬための天の采配だと思っていた。
弱点無き者は傲慢を覚え、相手に敵意を芽生えさせる。
だが人の営みの基本たる子孫繁栄を知らず、聖大師が務まるのか。
「なんだ、イスラーフィルは知ってるのか?
だったらお前が教えよ!」
突然命じられ、イスラーフィルはぎょっとして目を泳がせた。
珍しく動揺する。
「わ、私がでございますか? さ、左様でございますね。
では、その……えーとですね……」
意外なほど真っ赤になって口ごもる。
「イスラーフィル様! おやめ下さい!
ミトラ様に何を教えるつもりですか!」
シェムナーイルがたまらず遮った。
イスラーフィルは、むしろほっとして、頭を掻いた。
ユンダーイルがそれを見て、ぶっと笑い出した。
「あはははは」
文字通り腹を抱えて笑っている。
「ミトラ様は本当にシータ姫のようなお方ですね。
その清らかな瞳で見つめられては、誰も教える事が出来ないのですよ」
みんなも堪え切れず笑い出した。
いつも難しい顔をしているイスラーフィルが真っ赤になって頭を掻く姿に、レオンさえも俯いて笑いを堪えているようだ。
ミトラはひどくバカにされたような気がしてぷっと頬を膨らませた。
しかし、和やかな空気はシュンという風を切る音と共に悲鳴に変わった。
次話タイトルは「アロン王太子」です