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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
59/222

24  鬼凍湖の鬼③

 

 アショーカはヒンドゥクシュの山の頂で瀕死の状態にあった。


 六匹目の鬼に前夜対峙したアショーカは、巨大なトカゲのような化け物に苦戦はしたが、湖に近付ける事なく撃退した。


 それなのにその前日に負った肩口の傷が恐ろしい勢いで体を蝕み、徐々に壊死したような紫の肌が広がっていく。

 今は高熱にうなされ意識を失って横たわっている。


 何かがおかしいとラーダグプタは感じていた。

 いや、最初からおかしかった。

 ずっと感じる違和感。

 この洞窟に辿り着く時にも感じた違和感。

 あの時確かに息絶えたと思った。

 いや、息絶えなければ辿り着けなかった。

 そんな気がしてならない。


 鬼もそうだ。

 まるでアショーカの実力を試すように徐々に強い鬼が現れる。

 この精神的にも肉体的にも強い王子でなければ、おそらく一匹目の鬼で終わっていたはずだ。

 予想外に強い王子に課される試練。

 生死のギリギリに追い詰められる傷口。

 もしもそれがカピラ大聖の真意であるならば……。


 次の鬼が与える試練はまさか……。


「いやはや驚くべき生命力の王子ですな」

 雪片で濡らした布をアショーカの額にのせるラーダグプタに老僧が話しかける。


「老僧、そなた何を企んでいるのだ。

 本当は王子の傷もそなたなら治せるのではないのか?

 何をしようとしてるのだ」


「企むとは失礼な。

 ワシは大聖様のただの弟子ですのじゃ。

 大聖様の指示に従いマントラを唱える事しか出来ませんのじゃ。

 そなたの方こそ、この王子様に大変な隠し事をされておるようじゃが?」


 ラーダグプタは手を止めて、老僧の老いてなお鋭い、瞳の深淵を覗った。


「何の事だ?

 私は王子に忠誠を誓っている」


「ほっほ。

 さすれば、なにゆえそなたの《大事な瞳》もこの翠の姫の目じゃったのかのう?」


「!」


 ラーダグプタは青ざめる。

 やはり気付かれていたのか。


「そなた……呪に憑かれておるな。

 この瞳の持ち主は、ただの姫ではございませんな。

 呪と封印に固く縛られておりますのじゃ。

 これは人間凡夫の力ではない。

 神の意志を感じますのじゃ」


「そなたまさか呪の解き方が分かるのか?」

 ラーダグプタは声を荒げる。


「いいえ、まさか。

 神の成された事ですぞ。

 大聖様とて解けませんのじゃ。

 悪い事は言わぬ。

 この姫から手を引く事じゃ。

 神の元にお返しせよ」


「なに!」


「さりとてそなたはもう手遅れじゃがな。

 すでに呪に深く囚われておる」


「分かっている。

 私はこの姫に命を捧げる覚悟は出来ている」

 ラーダグプタは唸った。


「しかし、この王子。

 この者はまだ呪には嵌っておらぬ。

 この姫自体はまだ呪を発動するに至っておらぬ。

 今なら引き返せるぞ。

 王子が呪に囚われる前に引き離す事じゃ」


「し、しかし……」

 ラーダグプタは唇を噛みしめ、苦渋を浮かべる。


「償いのつもりか?

 されどこの姫はそなたが思うような物を望んでおるかのう?

 神に逆らえば報復が待っておるぞ。

 そなたはよく知っているだろう」


「……」

 ラーダグプタは青ざめたまま、遠き日の悪夢を思い出す。


「ラーダ……グプタ……」

 

 朦朧としながら呟くアショーカに、はっと我にかえった。


「お気づきでしたか? アショーカ様」

 聞かれていたかと眉間を寄せる。


「ソーマの……準備を……。

 もうすぐ……ミトラが眠る頃だ……」

 どうやら聞いてはいなかったようだ。


「そのお体では戦えません。

 どうか今夜は私にお任せ下さい」


 剣使いにさほどの自信はない。

 だが瀕死のアショーカよりは戦えるはずだ。


「ダメだ……。

 お前がやられたら……誰がミトラの目を守るのだ。

 俺が……命の限り戦う。

 だが……もし俺が力尽きたなら……お前がミトラの目を守れ……。

 頼んだぞ……」


「アショーカ様……」

 死ぬ覚悟なのだ。


 分かっている。

 もしも鬼を退治したとしても、体の半分が壊死してしまっている。

 この体でこの険しい雪山を下りる事など不可能だ。


 そうなのだ。

 老僧の話はおかしい。


 もはや生きて助かる可能性もない王子を、神の呪に罹る前に引き離せと言って何になる。

 そもそも神であろうが鬼であろうが、この王子はミトラを諦めたりしない。

 むしろ呪に囚われた自分よりも命懸けでミトラの目を取り返そうとしているではないか。

 呪には囚われてなくとも、王子の心がすでに囚われてしまっているのだ。

 そしてその心は、或いは神の呪よりも強い意志を持つのだ。


「老僧よ。

 もはや王子には姫を手放す選択肢など残ってないのです。

 手遅れだというなら、私の呪よりも手遅れなのです」


 ラーダグプタはソーマの小瓶を取り出し、酒の入った木椀にたらした。

 どのような未来が待っていようとも、今を全力で生きるしかない。

 この王子はそういう男なのだ。




 ヨロヨロと剣を持ち洞穴を睨むアショーカ。

 左半身は紫に壊死し、もはや動かない。

 魔酒ソーマは全部飲み干しても前日のように痛みを消してはくれなかった。

 ほとんど気力だけで立っている。


 そのアショーカの前に現れたのは最強の鬼。


「……」

 朦朧としながらアショーカは鬼を見上げる。

 いや、鬼などという可愛い者ではない。


「最強の羅刹……。

 魔王ラーヴァナ……」

 ラーダグプタが湖面を守りながら呟く。


 十の頭を持つ魔王……。


 どうやって戦えというのだ。

 無敵の悪魔。

 神すら倒した伝説の魔王を。


「くそ……。気味の悪い化け物め……」

 アショーカはゆるゆると剣を振り上げた。


 ほとんど動かない左足を引きずり、魔王の心臓めがけて切り込む。


 そのアショーカを長く伸びた鋭い爪先で払いのける。

 五本の爪がアショーカの体を切り刻む。

 血しぶきが上がり、どうと倒れた。


「アショーカ様っっ!!」

 ラーダグプタは悲痛に叫び、剣を構える。

 さすがに震える。


 文官として剣を握る機会などほとんどなかった。

 それでも筋はいい方だと言われていた。

 だが、人を切った事もない男に、目の前の魔王はあまりにも強大過ぎる。

 我ながら情けないほどに体が震えている。


 しかし我が命を惜しんで震えているのではない。

 ただ、あの翠の瞳を……あの瞳を失う事だけが恐ろしいのだ。


「やああああっっ!」


 ラーダグプタは剣を突き出し、魔王に突進した。

 払いのけようとする鋭い爪をギリギリ避け、剣を心臓に突き立てる。


「ぎゃあああ!」


 ラーヴァナは仰け反り、反対の爪でラーダグプタの体をえぐり払う。


 血しぶきを上げボロ布のように転がる。

 痛みに喘ぎながら魔王を見上げる。

 どうか……、どうか今の一撃で倒れてくれ。

 瀕死の中でラーダグプタは祈る。


 しかしその祈りは無情にも届かず、魔王は胸を押さえたまま湖面に近付いていた。


「ミトラ様……」

 絶望に呟くラーダグプタの目にヨロヨロと立ち上がる黒い影が映った。


 アショーカが辛うじて動く右手で剣を支えにして立ち上がる。

 引き裂かれた体からは絶え間なく血が溢れ出ている。

 生きているのが不思議なぐらいだ。


 もう動くはずのない肉体を立ち上がらせたのは額の印。

 青いティラカが光を放ちボロボロの肉体を包んでいる。

 腐って千切れそうになった左手と共に最後の力を振り絞り剣を持ち上げる。


(軍神シヴァ……)

 ラーダグプタは遠のく意識の下で、アショーカが神に姿を変え、ラーヴァナの背に飛びかかるのを見た気がした。


 グブッッッ!!!


 肉を貫く刃の音が洞窟にこだまする。


「ぎゃあああああ!!!」


 湖面に足を踏み入れていた魔王は背に突き刺さる剣に仰け反り、凍った湖面を転がる。

 一緒に転がり落ちたアショーカは、湖面を這ってミトラの水晶を背に庇う。


 苦しみながらも水晶に手を伸ばす魔王にアショーカは最後の一閃を放つ。

 しかし同時に魔王の最後の一撃がアショーカの頭部を無残に貫いた。


「ミトラ…………すまぬ……」


 アショーカの呟きだけが、水面の波紋のように洞窟に響いた……。



次話タイトルは「ミトラの夢読み」です

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