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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
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23  スシーマ皇太子

「スシーマ殿、私もやってもよいか?」

 ミトラは目を輝かせスシーマを見つめた。

「お気の済むまでどうぞ」

 スシーマは懇願しながら迫るミトラに目を細める。



 昼下がりのミトラの部屋は、珍しい来客で賑わっていた。


「ハヌマーン。ほらバナナだ」

 ミトラが差し出す熟したバナナをハヌマーンはキキッと応じて受け取ると、器用に先端をかじって、両手を使って皮を綺麗に剥いていく。

 その様子にミトラは手を叩いて喜んだ。


「かわいい! 

 小さな手で、なんて器用なんだ」

 輝くように笑う翠の瞳を、スシーマは熱の籠もった目で見つめた。


「そなた、気付いているか?」


「え?」

 スシーマの言葉にミトラがきょとんとする。


「私に笑顔を見せてくれたのは今のが初めてだという事に」

 大人の落ち着きで微笑むスシーマに、ミトラはドキリと心臓が跳ねた。


「そ、そうだったか?」


「そうだとも。

 作り笑いなら何度か見せてくれたがな」


 そしてスシーマ自身も、こんな風にただ素直に嬉しくて笑ったのは久しぶりな気がする。


 この小さな少女の何が自分をこんな気分にさせるのか。

 自分でも不思議なほど愛おしくてたまらない。

 これが恋のなせる技なのか。

 あれほどバカバカしいと思っていたはずなのに、今はこの幸福感を教えてくれたミトラに感謝さえしている。


 その柔らかな頬に触れようと手を伸ばす。

 しかしその手を遮るようにバナナが目の前に現れた。


「僕もやってもよろしいですか?」

 いつもより派手なアクセサリーで飾り立てたヒジムが、スシーマとミトラに割り込むように入ってきた。


「む! そなた……」

 スシーマは一気に不機嫌になってヒジムを睨みつける。


「よいであろう? スシーマ殿」

 空気を読まないミトラは、もう一度見れるという期待に目を輝かせスシーマに懇願する。


「う、うむ。好きにせよ」

 仕方なくスシーマは応じる。

 さすがにこれ以上やるとハヌマーンがお腹を壊すかもしれないと思いながらもミトラの懇願に負けた。


 しかしハヌマーンの方が、もういらないという顔でキイイと歯を剝いて威嚇する。


「なんだよ、僕のバナナは受け取らないってつもり?

 可愛くないなあ!」

 ヒジムはふて腐れる。


「ハヌマーンは女嫌いなのだ。

 懐いているのはミトラぐらいのものだ」


「ふーん、僕を女と見てくれるんだ」

 ヒジムは複雑な顔で腕を組む。


「それより私はそろそろミトラと二人で大事な話をしたいのだが?」


 二人の周りにはヒジムとナーガ、少し離れた所にソルとアッサカが控えていた。


「その事だが昨日承諾したばかりですまぬが、アショーカが帰るまでは二人きりにはならぬという約束をしたのだ。

 悪いがここで出来る話だけにしてくれ」


 ミトラの言葉に、そうきたかとスシーマはヒジムを一瞥する。


「僕の事なら気にせず話して下さい。

 僕の口はヒンドゥクシュの岩より固いですから」

 自信満々に胸を叩くヒジムに、スシーマは頬杖をついてため息を吐く。


「ヒンドゥクシュの岩は、よく崩落して旅人を襲っているがな」


「まあ、そんなものだという事です」

 悪びれもせず肯くヒジムにミトラも苦笑した。


「では少し聞いてみたい事があったのだが、そなた男と女の違いをどう考えている?」

 スシーマの問いにヒジムも興味を持つ。


 ミトラは、何を今更という顔で首を傾げる。


「男と女?

 それは男の人は女よりも背が高く力が強く……あと声が低い?」


「しかし男より背の高い女もいれば力の強い女もいるぞ」


 スシーマの言葉に、ミトラはアショーカの側室デビの姿を思い出した。

 確かにデビより小さくて弱そうな男ならたくさんいそうだ。

 でも自分は少しも男と疑わなかった。

 なぜなのか……。


「ああ、そうだ。サリーを着ている。

 女は華やかな衣装で着飾っている」


 急に幼子レベルの知識になるミトラにスシーマは封印の深さを思い知る。

「では私がサリーを着て華やかに着飾れば女なのか?」


「スシーマ殿なら似合うと思うが……」


 素直なミトラの返答に、想像したヒジムが吹き出す。


 スシーマは咳払いをひとつして、ヒジムを睨んだ。


「で、では胸は?

 私は女のように大きな胸をしてないぞ?」

 仕方なくスシーマは次に用意していた問いを告げる。


「私もだ!」


 ミトラの即答に、スシーマは目の前の貧弱な胸元を見て思わず固まった。


 ヒジムはすでに机を叩いて笑っている。


「な、なるほど……確かに。いや、失礼……」

 思わずこぼれた失言に真っ赤になったスシーマを見て、ナーガも吹き出す。


 スシーマは真っ赤になったまま、頭を抱える。


「や、やはり師が必要なようだ。

 後駆けで数人の師を呼んである。

 彼らに任せよう」

 スシーマは早々に断念した。


「何の師だ?

 どうせなら私はヒンドゥの宗教について知りたい。

 バラモンに詳しい師を呼んでくれ」

 ミトラには、どうしてもスシーマの本意が分からなかった。


「バラモンなら私が詳しいぞ。

 何でも教えてやろう」

 スシーマは気を取り直して応じた。


「本当か?」

 ミトラは目を輝かせる。

「では教えて欲しいのだが、ヒンドゥの種姓カースト制度は非常に厳しいと聞いたが、少し腑に落ちない事があるのだ。

 そなたは王子なのだからクシャトリア(戦闘階級)であろう?

 でも、一番上位のバラモン(司祭階級)達はそなたに服従しているように見えるのだが」


「確かに。そこは非常に微妙な所だ。

 我々王族はバラモンの僧院を保護し、バラモン達は我らの行う政治に従う。

 実際、我等はバラモン達に有無を言わせぬ権力を持つ。

 だがしかし、バラモンの中でも最高位の大聖、あるいは苦行を終えてブラフマンの領域に達した聖仙には王といえども膝を折るのだ。

 クシャトリアのどの地位の者が、バラモンのどの地位の者より立場が上か。

 これは今、非常に判断が難しい。

 私とて父はクシャトリアであるが、母はかなり高位のバラモンの出身だ。

 私が膝を折らねばならないバラモンはパータリプトラでも僅かにしかいない」


「ヒンドゥは同じ種姓の者同士でしか結婚出来ぬと聞いたが?」


「ヴァイシャやシュードラはそうだ。

 破れば不可触民に落とされる。

 しかし、バラモンとクシャトリアはその限りではない。

 特に王家はこのところバラモンと結婚する事が多いな」


「ではヒンドゥの本当の実権を握るのはクシャトリアなのか?」


「そうとも言えるかもしれぬ。

 そなたのシェイハンはどうだったのだ。

 聖大師と王はどちらが上なのだ」


「聖大師様は最高位だと聞いたが、実際にはその権力を行使する事などほとんど無かった」

『使う事もない権力』と聖大師様が言っていたのを思い出す。


「まさにそれだ。

 バラモンには権力を与えられているが、使う事のない権力なのだ」


「つまり権力を使わない事が、クシャトリアの庇護を受ける条件という事か」

 ミトラは頷く。


 王家を脅かす権力を行使し始めたら、即刻、武力で一掃されるという事か。

 その危うい実権が、武力を持たない宗教家の宿命なのだろう。

 今回のタキシラのクーデターがそれを象徴している。

 庇護者を失ったバラモン達は、自分達の地位を危うくするアショーカに脅威を抱いている。頑なな反抗は、裏返すと恐怖の現れなのだ。



 スシーマは不思議な思いで目の前で考え込む少女を見ていた。

 これほど聡明で物分かりのいいミトラが、男女の理に触れようとすると赤子のように無知で無理解になる。

 これが封印の力という事なのか。


「ねえ、ミトラってそれだけ博識なのに何で恋とか結婚になると訳分かんなくなるの?」

 ヒジムも同じように疑問に思ったようだ。


「え? どこが分かってないのだ?」


「だからあ、さっき王子も言ってたじゃん。

 男女の違いとかさ」


「さっき? そんな話をしたか?」


「ついさっきしてたじゃないか」

 首を傾げるミトラにヒジムは怪訝な顔をする。


「そうだったか? あれ?

 ハヌマーンにバナナをやって……。

 それからバラモンの話になって」


「何言ってんのさ。

 その前にしたじゃんか。

 ミトラの胸が小さい話をさ」


「私の胸が? 

 そんな話するわけないだろ!」

 ミトラは憤ってヒジムに言い返す。


「……」


 ヒジムは呆然とミトラを見つめる。


 スシーマはその様子を興味深げに眺めていた。

 記憶すらも封印する。

 知識が蓄積されない。

 つまりいつまでたっても理解は深まらないのだ。

 これは思った以上に厄介かもしれない。


「ミトラ分かった。

 僕が教えてあげるよ」

 ヒジムは決心したように、ミトラに告げる。


「あのね、男女には決定的に違う部分があるんだよ。

 例えば男には……」

 言いかけたヒジムが言葉を途切れさせる。


「どうしたのだ? ヒジム」


 ヒジムは青ざめた顔で口を押さえた。

「う、ううん。何でもない」


「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」


「うん。大丈夫。

 ごめん、今日はここまでにしない?

 僕もそろそろ仕事に戻らないと」

 ヒジムは口を押さえたまま立ち上がる。


「そうだな。

 スシーマ殿、またバラモンの事など教えて下さい」

 ミトラも客人達を見送るため立ち上がった。


 スシーマはナーガと目を見交わし、頷いた。


「また明日訪ねて来るぞ、ミトラ」


「はい。お待ちしています。

 ハヌマーンもまたおいで」

 白い頭を撫ぜて別れを告げた。



 ミトラの部屋を出たスシーマとナーガは、慌てたように立ち去って行くヒジムの後ろ姿を見送りながら顔を見合わせた。


「なにかに気付いたようですね」

「うむ。今しばらく封印の事はアショーカに黙っておくつもりであったが」

「あれは言葉が出なかったんでしょうか?」

「多分な。

 もし説明出来たとしても、おそらくミトラの記憶には残らぬ。

 思った以上に強い封印のようだな」

「前途多難ですね」


 ナーガはしかし、己の失言に真っ赤になったスシーマを思い出して笑いが込み上げる。


「ですが私はもうしばらく、あのままの巫女姫様とスシーマ様のやりとりを楽しみたいですね。

 見た事のないスシーマ様を次々発見出来るのはあの方の前だけですから」


「楽しんでる場合か、バカ者!

 しかし、あのミトラにキスを迫ろうとしたアショーカとはどういう神経をしているのだ。

 普通の男には出来ぬぞ」


 スシーマは半分尊敬し、半分呆れた。




次話タイトルは「鬼凍湖の鬼③」です

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