21 側近サヒンダ
ミトラが食事を済ませ湯殿に行っている間にアッサカはサヒンダに太守室に呼び出された。
「アッサカ、スシーマ王子はミトラ様に何の話をしていたのだ?
一部始終申せ!」
太守室にはサヒンダの他にヒジムとトムデクも揃っていた。
「スシーマ様は……ミトラ様をただ一人の正妃にすると……。
他には誰も娶られぬと仰せでした」
アッサカの言葉に側近の三人は、少し驚いてから渋い顔をした。
「やはりその話であったか……。
しかしただ一人の正妃とは。
アショーカ様はすでに三人の側室も御子もおありで余りに分が悪いな」
サヒンダは頭を抱える。
「それでミトラは何て言ったのさ。
まさか了解してないだろうね」
ヒジムが尋ねる。
「保留にはしてらっしゃいますが、ただ一人の正妃として、ヒンドゥの女性が持ち得る最高の権力でシェイハンを守ればよいと言われ、心動かされておいでのようでした」
「スシーマ王子……。
やっぱり噂通り、相当頭の良い方だね」
トムデクはしゅんとして呟く。
「それから聖大師様の神通力の謎を調べるため二人きりの時間を持つ約束を取り付けておられました」
アッサカの報告にサヒンダは顔色を変える。
「まさか了解したのではあるまいな」
「情報が漏れぬ為ならと……、快諾しておられました」
恐縮して答える。
「どうしてそう安易なのだ、あの姫は!」
サヒンダはいらいらして叫ぶ。
「ミトラ様にとってシェイハンを守る事が最優先なのです。
スシーマ様はそれをよく理解した上でミトラ様を自分の望む方に誘導しておいでです」
「あ――、ダメだよ。
絶対アショーカに勝ち目ないじゃん。
たった一人の未来の王妃だよ。
タキシラの太守婦人とじゃ権力が違い過ぎる。
ヒンドゥ中の姫がスシーマ王子を選ぶよ」
ヒジムが投げやりに言い捨てる。
「しかも……何だか堅物な感じが無くなって、ますますかっこ良くなった気がするよね」
トムデクが追い討ちをかける。
「そうなんだよね。
前より色気があるっていうかさ。
正直、あんないい男に言い寄られて靡かない女なんていないよ。
ミトラぐらいのもんさ」
ヒジムも考え込む。
「アショーカ様さえ諦めて下されば、私はミトラ様がスシーマ王子と結婚したって全然構わぬのだ。
しかし、アショーカ様の留守の間に婚約までされてしまう訳にはいかぬ。
絶対阻止せねば。
くそっっ! 面倒な事だ」
サヒンダは言い捨てて出口に向かう。
「どこ行くのさ? サヒンダ」
「ミトラ様の所へ行って釘をさしてくる」
「えっ? 湯上りで、もう夜着に着替えておいでですよ」
トムデクが引き止める。
「構わん! そんな事言ってる場合ではない」
サヒンダはドアをバンっと閉めて行ってしまった。
その後をアッサカが追う。
「ねえ、最近サヒンダってアショーカに似てきたよね」
ヒジムはトムデクにそっと耳打ちした。
「失礼します。ミトラ様」
髪を整え、眠る準備をしていたミトラとソルは突然のサヒンダの乱入に慌てた。
「こんな時間に何の御用ですか?
ミトラ様はもう夜着に着替えておいでですのに!」
ソルが非難を込めて引き止める。
「ではこのマントを掛けるがよい。
今すぐお話があります」
サヒンダは自分のマントを外してソルに手渡した。
「まあ! なんて無礼な!」
「別にやましい想いなどない。
必要とあらば目を瞑っててやるからすぐ話をさせるのだ」
「困りますっっ!」
必至に阻止しようとするソルを押しのけ部屋に押し入る。
ソルは悲鳴を上げてサヒンダに手渡されたマントでミトラの肌を隠した。
「なんと無体な!
夜着の姫様の部屋に乱入するなんて!」
非難を込めて叫ぶ。
「大丈夫だソル。
サヒンダ殿がこうまでするのだから余程の急用なのだろう。
どうされたのだ?」
ミトラはサヒンダのマントを首から下に巻いて進み出た。
小さなミトラには首から巻いても床に引きずるほどの長さだった。
「ミトラ様にお願いがございます」
頭を下げるサヒンダにミトラは驚く。
「サヒンダ殿が私に?
どのような事だ?」
「アショーカ様が戻るまでだけで構いません。
守って頂きたい事がございます」
「なんだ?」
ミトラは首を傾げる。
「スシーマ様と会われる時は必ず我らアショーカ様の側近三人の内、誰かをつけて頂きたい。
決して二人で会わないで頂きたいのです」
「何故だ?
多忙なそなたらの手を煩わせたくないのだが……」
「何故か。
それは幾度説明してもミトラ様には分かって頂けないようです。
だから理由は問わず、ただ守って頂きたい」
「でも……」
「アショーカ様を裏切りたいのですか?」
サヒンダはミトラの言葉を遮って強い口調で畳み掛ける。
「アショーカを裏切る?
スシーマ殿と二人で会うとアショーカを裏切る事になるのか?」
ミトラは目を丸くする。
「はい。ひどく傷つかれるでしょう。
それがお望みですか?」
「ま、まさか……。
でも、どうして……」
「どうしてか聞かずお守り頂きたいと申しているのです」
サヒンダはいらいらと告げる。
どうしてこの姫は色恋が絡むと、こうも物分かりが悪くなるのか。
「それともスシーマ王子の麗しい姿に心を奪われてしまいましたか?」
ギロリと睨む。
「心を……奪われる……?」
ミトラは考え込む。
先程のスシーマ王子の申し出は、ずっとミトラの頭の中で繰り返されている。
あの申し出を受ければ、アショーカの手を煩わせずともシェイハンの民を幸福に導いていけるのではないのか。
そんな思いが離れない。
「まさか……スシーマ王子と結婚したいとお考えですか?」
すぐに否定しないミトラにサヒンダは腹を立てていた。
別にサヒンダ自身はミトラが誰と結婚しようがどうでもいい。
しかし、命を架けてミトラを守りタキシラに逃したアショーカを、シェイハンの為に寝る間を惜しんで尽力する主君を、こうも簡単に裏切るのか。
これだから女は信用出来ない。
権力のある者にすぐなびき、愛だ恋だと言ってもすぐに寝返る。
それでもミトラだけはそんな女達とは違うと思っていた。
だから余計に失望する。
所詮女などこんなものだ。
「サヒンダ。
私にはどうして皆がそれほど結婚に大きな意味を感じるのか分からぬのだ。
妃になるというのは、その地位に任命されるという事だろう?
太守に任命されるのと、妃に任命される事に何か違いがあるのか?
私がスシーマ殿の妃になっても、私がこの地でシェイハンを治めていれば、むしろその権力はアショーカを守る事になるのではないのか?」
あまりの無理解にサヒンダは愕然とする。
本当に結婚というものが分かってない。
いや、恋だとか、男女の理、いや異性という概念すら欠落している。
どう説明すればいいのか。
いや、理解を望む事など無理だ。
サヒンダはため息をついて告げる。
「私がただ一つ言える事は、アショーカ様の為を思うならスシーマ様と結婚されない事。
二人きりにならない事。
それだけを守って下さい。
せめてアショーカ様が戻られるまでだけでも、お約束下さい」
スシーマは頭を下げる。
「分かった。
そなたがそこまで言うなら守ろう。
その代わりと言ってはなんだが……私もそなたにお願いがあったのだ。
ずっと言いそびれていたのだが……」
いつもあまりに不機嫌な様子のサヒンダに言い出せずにいた。
「私に願い? 何でしょうか?」
嫌な予感に眉をひそめる。
「あの……アショーカの持ち物を。
例えば耳飾りやマントでも何でもよいから、アショーカが戻るまで貸して欲しいのだ」
ミトラはぽっと頬を赤らめる。
「アショーカ様の持ち物?
何故でございますか?」
サヒンダは怪訝に睨みつける。
「無事を祈る時に、持ち物に念をかけた方が成就しそうな気がするのだ」
もじもじと答えるミトラを呆気にとられたように見つめてから、サヒンダはぷいっと部屋を出て行った。
「サヒンダ殿!」
呼び止めたが無視された。
「わ、私はまた怒らせてしまったのか?
アショーカの持ち物をねだるなど、図々しかったのだろうか?」
オロオロとミトラはソルに尋ねた。
「放っておけばよろしいですわ。あんな無礼な方」
ソルは言い捨てる。
しかし、しばらくするとサヒンダはズカズカと戻ってきて、ミトラの手にアショーカの耳飾りを手渡した。
「そういう事はもっと早く言って下さい!
聖大師の神通力でアショーカ様が絶対無事に帰れるようしっかり祈願して下さい!」
「い、いや、私にそんな力は……」
言いよどむミトラをサヒンダは理解に苦しんだ顔で一瞥する。
ミトラは手の中の耳飾りを愛おしそうに見つめている。
それは恋する少女の顔に見える。
その感情は確かにあるのだ。
それなのに、結婚や具体的な男女の行いには結びつかない。
何なのだろう、この欠落は。
何かがおかしい。
サヒンダは疑問を感じたまま部屋を後にした。
ミトラは、手の中の耳飾りをつけて高飛車に笑うアショーカの姿を思い出していた。
「アショーカ……」
ミトラは大事そうに胸に抱いて呟いた。
会いたさに切なくなる。
その様子をソルは納得出来ないようにそっと見つめていた。
次話タイトルは「魔酒ソーマ」です




