20 スシーマ皇太子
スシーマは扉を入り、ミトラをソファの上に下ろすと、ゆっくり部屋を見回した。
幼い頃から姫と呼ばれる女性の部屋には何度か入った事があるが、それに比べると恐ろしく殺風景な部屋だった。
華美を嫌う母でさえ、サリーやアクセサリーの数点は飾ってあったし、お気に入りの茶器のセットぐらいはあった。
ユリの部屋などは色鮮やかなガラクタの山だった。
それに比べてこの部屋は、一角がミスラの祭壇になっていて、後はおそらく元からあった家具と調度だ。
隅に置かれた事務机の上には、山のように書物の類が乗っていて、まるで男性の文官の部屋のようだ。
「アショーカはそなたに宝石の一つも贈らぬのか?」
商才に長けたあの男がありえない。
「すべてお断りしている。
巫女には不要の物ゆえ、このシェイハンの衣装だけ二着用意してもらった」
ミトラは着ている純白のシルクの衣装を持ち上げて示した。
「なるほど……」
スシーマはパータリプトラからミトラに贈るため、たくさんのサリーと宝石を後駆けの荷車にて運ばせていたが、それをこの巫女姫に受け取らせるのは至難の技かもしれないと腕を組んだ。
それから鏡台の前に唯一飾られた肖像画に気付いて近寄る。
「これは?」
身なりのいい美しい男だ。
「シェイハンの王太子であったアロン王子だ。
先の神殿焼き討ちで亡くなられた」
「王太子……。ではそなたの兄上か」
「はい。ソルがアロン王子に仕えていたので私にくれたのです」
スシーマは絵を見ただけで涙が溢れそうになっているソルを見た。
「聡明そうな方だな。会ってみたかった」
スシーマは手にとって絵を見つめる。
「知らなかった事とはいえ、我が父上が無慈悲な事をしたな。
一度そなたにも謝りたかった。
すまない、ミトラ」
紳士に頭を下げる王子にミトラとソルは目を丸くする。
シェイハンの事をちゃんと謝ってくれた男などマガダには一人もいなかった。
それなのに皇太子が誠意を持って謝ってくれた。
それで何かが変わる訳ではないが、ほんの少しだけ心が晴れる気がした。
ソルはこの誠実で麗しい王子にすっかり心酔してしまったようだ。
「王子様。今、お茶を用意しますわ。
どうかミトラ様のお傍近くお座り下さいませ」
涙を拭って、王子を目いっぱいもてなすつもりらしい。
アッサカは嫌な予感に俯く。
「あの、スシーマ殿。
私もマガダでは随分失礼な事を申しました。
お許し下さい」
今頃になってミトラは国中の姫がこの王子と結婚したがっているという言葉に納得した。
アロン王子とタイプは違うが、涼やかで紳士な申し分のない好青年だ。
今まで敵意を持って見ていたので気付かなかったが、こうして和解してみると、こちらも誠意を尽くすに相応しい人物だ。
今までの非礼を素直に反省する。
「実は今回はアショーカの太守任命とは別に、もう一つすべき事があるのだ」
スシーマはソファに座り、改まってミトラに告げた。
「すべき事?」
「シェイハンの聖大師の謎について調べたい。
長い歴史の中にもシェイハンの聖大師については様々な噂があるようだ。
そなたも知りたいと思わないか?
聖大師が持つといわれている神通力とは何なのか?
どうすればその力が現れるのか」
「それは……」
確かに知りたい。
だが知るのが怖くもあった。
「協力してくれぬか?
マガダで得られる情報とそなたが知っている事。
そこから何か手がかりが見つかるやも知れぬ」
「そ、それを知って何をするのだ」
ミトラは幾分警戒したままスシーマを見つめる。
聖大師の力を何かに利用するつもりなのか?
「何をするのか?
決まっているだろう。分からぬのか?」
知っていて当然のように告げるスシーマに、ミトラは更に警戒する。
「まさか……聖大師の力を戦に利用するつもりか?」
聖大師が本気になれば、世界を支配する事すら出来ると以前聞いた事がある。
しかしスシーマは呆れたように笑った。
「私は争いは好かぬと言わなかったか?」
「で、では何に?」
スシーマはその無垢な翠の瞳を見つめる。
「そなたの呪縛を解いて、私の妃に迎える」
真っ直ぐ自分を射る藍色の瞳に、ミトラと傍で聞いていたソルまでが呆然とする。
「そ、その話は以前断ったはずだが……」
ようやくの事で返事を返す。
「ミスラの神に嫁ぐという話だな。
では謎を解いて、神に嫁ぐ必要もなくなったら?」
「で、でも私は聖大師となってシェイハンを治めねばならない」
呟くように答える。
「マガダの王妃となれば、神通力などなくとも国家の力で平和に治める事が出来る。
確信も持てぬ危うい神通力より、よほど確かな地盤が築ける。
そうは思わぬのか?」
「そ、それは……」
そうかもしれない。
少なくとも何の先読みも出来ぬ自分に対する不安に怯える必要もなくなる。
「でも……ミスラの神を裏切れば、何か恐ろしい事が起きるやもしれぬ……」
それが周りの人々を不幸にするのではないか。
漠然とそんな気がするのだ。
それもあって、アショーカとの結婚も拒否している。
「そうならぬために謎を調べるのだ。
そなたのそのミスラ神への呪縛を解くのだ。
実はウッジャインに以前シェイハンのマギ大官だった老人がいるという情報を得ている。
私はタキシラの太守任命式が終わったらウッジャインに行って話を聞くつもりだ」
「マギ殿が? 七つの秘儀を受け継いだ?」
「ミトラ、私はそなたを正妃にする。
そして、そなた以外誰も娶らぬ。
生涯そなた一人を愛すると誓おう。
そなたはヒンドゥの女が持てる最高の権力で、そなたのシェイハンを守ればよい。
有るか無いかも分からぬ神通力よりもよほど確かな力だと思わぬか?」
スシーマの言葉をミトラは衝撃を受けたように聞いていた。
そんな選択肢は考えた事も無かった。
スシーマの言う事はとても理に叶っている。
そしてこの王子は嘘をつかない。
融通が利かないほど真っ直ぐなアショーカとはタイプが違うが、嘘の無い男には違いない。
「も、もしも聖大師の謎が解けて、そうする事に神の罰が無いのだとすれば……。
その時、考えさせてくれ……」
断る理由などない。
むしろシェイハンの為を思うなら、この場で快諾してもいいような話だ。
ミトラの返答を聞いて、アッサカは久しぶりに百インドラの顔を俯けた。
「よいだろう。
では、私と共にまずは聖大師の謎を探ろうではないか」
スシーマは、充分満足のいく返答に微笑んだ。
「ただ、一つだけそなたの理解が欲しいのだが、聖大師の謎は、世界の王達が知りたがる重大な秘密だ。
それほど重要且つ、世界を揺るがす内容なのかもしれぬ。
安易に情報を共有する人間を増やしたくない。
この話をする時はそなたと二人きりになりたい。
人払いをする事を承諾してくれるか?」
当然だと思った。
誰かに秘密を知られて悪用されぬ為のスシーマの心遣いだと思った。
「分かった。そうしよう」
二人きりになる事を即諾したミトラに、アッサカは冷や汗を流す。
十四の少女と二十歳の切れ者の王子。
あまりにも不利だ。
手の中で転がされるように王子の思惑通りに話が進んでいく。
アショーカのいない数日で下手をすれば婚約までこぎつけるかもしれない。
「侍女殿、そなたにも理解して頂きたい。
年頃の姫が若い男と二人きりというのは敬虔なそなたには許せぬ事と映るかも知れぬが、私はそなたに誓って不埒な事はしない。
そもそもただ一人の正妃として迎えるつもりでいる。
決してそなたの主を貶める事はせぬ」
スシーマはソルに誓った。
「まあ! 私のような者にまでそのように真摯に接して頂けるなんて…」
ソルは感動に打たれたようだ。
「信じますわスシーマ様。
ヒンドゥにもあなた様のような素晴らしい方がいるのですね。
我がアロン王子様ほどの立派な方は世界中探してもおられぬと思っておりましたが、あなた様はアロン様にも匹敵する誠実なお方ですわ。
ミトラ様がこのような方に想われておいでと知って…嬉しゅうございます」
感激屋のソルはすでに涙で溢れていた。
あれほどマガダの王子を敵視していたソルまでも懐柔されたかとアッサカは絶望する。
アショーカ様に勝ち目はない。
誰が見てもそう思わざるを得なかった。
「では……今日は長旅の疲れもあるゆえ失礼するが、明日から早速いろいろ調べてみよう。
よいな、ミトラ」
「はい。よろしくお願い致します」
ミトラは立ち上がって、すっかり信頼した笑顔で扉まで見送った。
次話タイトルは「側近サヒンダ」です




