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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
54/222

19  スシーマ皇太子

「ミトラ様、そろそろお時間です。

 猿を篭に納めて下さい」

 サヒンダは中庭の一角に張られた天幕の中に向かって叫んだ。


 クラバカや木蘭の木々を包むように、大きな天幕で囲み、そのぐるりを騎士団と衛兵が取り囲んでいる。

 一箇所だけ開いた出入り口にはサヒンダをはじめ、人垣を作るように立つ衛兵が警戒している。


 物々しい警護とは裏腹に、天幕の中はにぎやかな歓声で溢れていた。

 右足に包帯を巻いてベンチに腰かけるミトラと、側に控えるアッサカとソル。

 それに、ヒジムとトムデクが猿を追い回して笑い声を上げていた。


 まだ充分歩けないミトラは、ヒジムに抱きかかえられて中庭まで連れてきてもらった。

 ハヌマーンは久しぶりの自然の木々にご満悦で、木から木へ飛び移ってはヒジムとトムデクを得意げに追い払う。


「ハヌマーン、そろそろ篭に戻ってくれ。

 言う事を聞かないと、もう二度と外で遊ばせてもらえないぞ」

 ミトラは立ち上がって高い枝の上にいるハヌマーンを呼んだ。

 しかし、ハヌマーンはそれを聞いて一層高い枝に飛び移る。

 人の言葉は分かっているらしい。


「ダメだったらハヌマーン! 下りて来い!」

 ミトラはゆるゆると痛む足を出して木の下まで歩いた。

 ソルが心配して腕を支える。


「僕が木に登ってひっ捕まえてきてやるよ」

 ヒジムは言うが早いか、スルスルと木を登り始めた。


「大丈夫かヒジム? 落ちないだろうな」


「大丈夫ですよ」

 答えたのはトムデクだった。


「ヒジムは騎士団の中でも運動神経が一番いいんです」


 しかし、ハヌマーンは登ってきたヒジムの頭に飛び乗り、地団駄を踏んで高枝に戻る。


「うわっ! 何するんだよ、この猿!」

 ズルリと足を滑らせ、ミトラとソルが悲鳴を上げる。


 だが敏捷なヒジムは、すぐに体勢を立て直し、別の枝を掴んでぶら下がった。



「まったく何をやってるんだ」

 その様子を出入り口から見守るサヒンダの周りだけ極寒の風が吹く。


 やっぱり猿のためにここまでしてやる必要はなかったと後悔していた。

 あまりにしょんぼりしているミトラに、柄にもない仏心を出してしまった自分が情けない。

 スシーマ王子の猿などストレスでハゲになろうがどうでも良かった。

 何故多忙な自分が猿のために貴重な時間を奪われねばならないのか。

 どう考えても理不尽だ。


 篭に閉じ込めたら二度と出すまいと決心を固めたサヒンダは、背後がざわついている事に気付いて、はっと剣の柄を握った。


 そして、ざわついた原因を知って青ざめる。



「スシーマ……王子……?」



「そなたは確か……いつもアショーカの側にいる男だったな」


 現れた一団にサヒンダはひざまずく。

 騎士団と衛兵も一斉にひざまずいた。


「はい。

 アショーカ様の留守を預かり太守代理を務めておりますサヒンダと申します」

 サヒンダは険しい表情を、極寒の仮面の下に隠して答えた。


「ほう。アショーカは留守か。

 それは残念だ」

 スシーマ王子は白々しく答えた。


「随分早いお着きでございますね。

 驚きました」

 サヒンダは嫌味たっぷりに告げる。


「アショーカの太守就任を一刻も早く叶えてやろうと早駆けで来たというのに、そなた、なにやら迷惑そうだな」

 スシーマはさすがに一枚上手だった。

 サヒンダは心の中で舌打ちする。


「とんでもございません。

 ではビンドゥサーラ王より太守の勅命は頂けたのでございますね」

「もちろんだ。 

 民を長く不安にさせる訳にはゆかぬからな」

 鷹揚に答えるスシーマに、アショーカとはまた違う貫禄を感じて珍しく焦る。


 仕立てのいい身なり、品のいい立ち居振る舞い、周りを囲む側近の隙のなさ、すべてが皇太子の威厳を備えている。

 アショーカの背後から相対していた今までと違い、直接対峙してみると、その迫力に圧倒される。


「ミトラがここにいると聞いて来たのだが」

 スシーマは天幕の中に足を踏み入れる。


「お、お待ち下さい。

 ミトラ様はアショーカ様の賓客にて、戻るまでは従者以外に会わせぬようにと言い遣っております」

 サヒンダは勇気を振り絞り告げる。


「ほう。それは結構な事だ。

 されど私には関係ないな。

 そうであろう? 太守代理殿」

 威圧的に告げられ、サヒンダは苦虫を噛み潰したように押し黙る。


「そこに控えておれ。

 我が婚約者を連れて参ろう」

 スシーマはナーガを連れてミトラの元へ向かった。


 部外者の侵入にすぐに気付いたヒジムとトムデクは、思いもかけない闖入者に青ざめる。

 アッサカは警戒を強め、ソルは涼やかに美しい男に目を見張る。

 ミトラだけがまだ気付かず、ハヌマーンを見上げていた。


 そしてハヌマーンは自分の主人の姿に気付くや否や、猛スピードで枝を駆け下りてきた。


「うわっ! どうしたのだハヌマーン!」

 自分に向かって突進してくるように見えたミトラは、慌てて避けようとして体勢を崩す。


 ひっくり返りそうになったミトラの背中を力強い体が受け止めた。


「あ、すまぬ、ソル」

 てっきりソルが支えてくれたと勘違いしたミトラは、背中の大きな影を見上げて瞠目した。


「ス、スシーマ王子?」


 ハヌマーンはいつの間にか、ちゃっかり王子の肩に納まっている。

「久しぶりだな。わが婚約者殿」

 優しく微笑む王子にミトラは呆然とする。


「いつ……タキシラに……?」


「たった今だ。

 そなたがここにいると聞いて、馬を乗り捨て、駆けつけた」


「わ、私に? なにゆえ?」


「もちろん会いたかったからだ。

 しばらく見ぬ間にまた美しくなったな」

 そんな褒め言葉も自然で、少しもキザに聞こえないのがこの王子の持って生まれた天性かもしれない。


 ソルは女好きのする麗しい王子に目を丸くして見惚れていた。

 アロン王子とはまたタイプが違うが、ロマンスを掻き立てる容貌と仕草に、うっとりと夢見るような顔をしている。


「私の先駆けの使者は、ずいぶん良いもてなしを受けていたようだな」

 スシーマが猿の白い毛並みを撫ぜると、ハヌマーンは嬉しそうに体を預けている。


「長旅にストレスを溜めていたようだ。

 昨日は私の部屋を荒らして逃げ出し大変だったのだ」


「捕まえようとしたミトラ様は階段から落ちて危うく大怪我をする所でした」

 いつの間にか傍でひざまずくヒジムが責めるように言う。


 ミトラにもアショーカにも無礼講のヒジムだが、さすがに皇太子相手となると態度と言葉使いだけは畏まっている。


「なんとハヌマーン、ダメではないか!

 姫を守る為に先に送ったというに、怪我をさせてどうする。

 役立たずめ」

 スシーマに詰られ、ハヌマーンはキイと鳴いてしょんぼりする。


「私が不注意だったのだ。

 ハヌマーンのせいではない」

 ミトラは猿が気の毒になった。


「怪我はなかったのか? ミトラ」

 スシーマはミトラの全身を見渡し、長衣の裾から僅かに見える足が包帯に包まれている事に気付いた。


「足を怪我したのか? なんという事だ!」

 わざと大仰に驚く。


「少し捻っただけだ。大した事はない」

 慌てて弁解するミトラは、次の瞬間にはスシーマに抱き上げられていた。


「な、な、なにをする!」

 一瞬の事で抵抗するヒマもなかった。


「そなたに怪我を負わせたのは私のせいだ。

 足が治るまで私がそなたの足になろう」


「そ、そんな必要はない。

 皇太子のそなたの手を煩わせなくともヒジムが運んでくれる」


「それでは私の気が済まぬ。

 どうか私に償いをさせてくれ」


「で、でも……」

 こんな強引な男だったかと、過去を走馬灯のように思い返した。


「スシーマ様。

 どうか国の皇太子ともあろうお方がそのような事をなさらないで下さい。

 私めがミトラ様をお運び致します」

 ヒジムは立ち上がりミトラを受け取ろうとした。


「下がっておれ! 余計な口出しをするな!」


 断じるように言われ、ヒジムは唇をかみ締め引き下がった。

 トムデクは穏やかな顔を青ざめ、ソルはうっとりと見つめ、アッサカは阿修羅のような顔を俯けた。

 ナーガはその様子をニコニコと見守る。

 その頭の蛇を見て、ソルがきゃっと悲鳴を上げた。


「部屋に連れ帰って差し上げよう。

 ミトラは確か南の棟の最上階だったな」

 さっさと歩き出し、天幕の出入り口まで出てきた。


「太守代理、私の部屋はミトラの下の部屋を用意してくれ」

 ミトラを抱きかかえて出てきたスシーマに、サヒンダは心の中で再び舌打ちをした。


「スシーマ様の部屋は北の棟の最上階を用意するようにと、言い遣っております。

 皇太子様ともあろうお方に一番良い部屋を用意しなければ、私が叱られます」


「構わぬ。

 私はミトラの足が治るまで足代わりとなって仕えよう。

 私がいいと言うのだからそれでいい。命令だ」


 サヒンダは眉間を歪めたまま「畏まりました」と応じた。


「あ、ミトラ様、ヴェールを……」

 ソルがはっと我に返って、奇人ナーガを目の端で警戒しながら、ミトラの頭に被せる。


「そなたはミトラの侍女殿か?

 では部屋に案内してくれるか?」

 スシーマ王子は、一転、優しげな藍色の瞳でソルに微笑みかける。


 ソルはぽっと頬を赤らめた。

 自分にも王子にも至極まともな反応だとナーガは納得する。


「あ、あの、王子。

 私は歩けぬわけではないのです。

 どうかおろして下さい」


 前を行き部屋を案内するソルと、背後に付き従うナーガと、スシーマの側近達。

 その更に後ろにアッサカとサヒンダ、トムデク、ヒジムを先頭に騎士団と衛兵が続く。


 何事かと通りがかりの従者達が足を止めるほどの行列が出来ていた。


「そなたは相変わらず軽いな。

 ちゃんと食べているのか?」

 スシーマはミトラの訴えに耳を貸すつもりはないらしい。


 熱っぽい視線で見つめるスシーマにミトラは落ち着かなくなる。

 こういう所がアショーカと似ているのだ。

 兄弟だからなのか。

 それとも何か別の共通するものがあるのだろうか。

 いくら理解しようとしても、薄い靄に包まれたように自分だけ理解出来ない領域。

 最近ミトラはそれをひしひしと感じる。

 その無理解が時々人を苛立たせ、誤解を生んでいるような気がする。

 それなのに知ろうとすればするほど、それは深い闇に包まれ遠くに行ってしまうのだ。


「アショーカに無体な事をされていなかったか?」

 スシーマは気遣わしげに尋ねた。


 ミトラは慌てて首を振る。


「いいえ、アショーカ王子は私とシェイハンのために力を尽くしてくれています。

 アショーカが太守にならなければシェイハンはもっと悲惨な運命を辿った事でしょう。

 その太守任命の為、スシーマ王子が奔走して下さった事は聞いております。

 感謝致します」


「ほう。アショーカが言ったのか?」


「はい。民のため必ず王を説得し、太守任命を告げに戻ってくると。

 スシーマ殿とはそういう方だと教えて頂きました」


「アショーカがそのような事を……」


 嫌味なほどフェアな男だと、スシーマはむしろ腹立たしかった。

 もっと恋敵を蹴落とすため悪口を吹き込むようなつまらぬ男であれば、ミトラの心を奪うのも簡単だったはずだ。


 話しながら南の棟の最上階までミトラを抱いて登ってもスシーマの息が切れる事はなかった。

 おまけにハヌマーンまで久しぶりの再会を喜ぶように首にしがみついている。

 後ろに続く行列は階段の中頃まで連なっている。


 部屋の前まで来て、スシーマは所狭しと並ぶ従者達に振り向いた。


「そなたら、ミトラの事は私に任せて下がるがいいぞ。

 太守代理殿はもっとせねばならぬ仕事があるだろう」

 勝ち誇ったようにサヒンダを一瞥する。


「されど妙齢の殿方と二人きりにする訳には参りません」

 サヒンダは進み出て食い下がる。


「まるで私が紳士たらざる行いをするかのように聞こえるな」

 スシーマとその側近達の殺気の籠もった視線がサヒンダを射る。


「私は忙しいそなたを気遣って言ってるのだ。

 のう、ミトラよ。

 太守代理殿は多忙な中、ハヌマーンとそなたの為に随分貴重な時間を使っておられるようだぞ。

 そなたの許可さえあれば、各々の仕事に戻れる。

 命じて差し上げるのがよいと思うが、どうだ?」


「え? そうなのか?」

 そんな事なら早く言ってくれればすぐに開放してやったのにと、ミトラは気遣いの足りない自分を少し恥じた。


「サヒンダ、私の事なら大丈夫だ。

 ヒジムとトムデクも、アショーカがいなくて忙しいのだろう?

 自分の仕事に戻ってくれ」


 ミトラは三人のために言ったつもりだった。

 それなのにヒジムとトムデクは困ったような顔になり、サヒンダに至ってはタキシラに初雪を降らせそうな冷たい顔で睨みつけられた。

 また間違ったのかと慌てる。


「あ、あの、でもソルとアッサカはいつものように傍にいてくれ」


 サヒンダがそれで良いという顔で頷いたので、ミトラはほっとした。


「では、ミトラ様のお申し出のようでございますので我等は下がらせて頂きます。

 ソルとアッサカは、いつものようにミトラ様のお傍近く仕えさせますゆえ、スシーマ様にもご理解頂ければと存じます」


 ふうむ、とスシーマはこの太守代理とミトラの力関係をすべて理解した。


「では私はナーガを連れよう。

 後の者は部屋の外で警護にあたれ」

 スシーマが命じると、側近達は恭しく礼をとって扉の前の各所の警備についた。




次話タイトルも「スシーマ皇太子」です

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