表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
53/222

18  鬼凍湖の鬼②

 スシーマ王子の猿を追いかけ怪我をしたミトラを、サヒンダは軽々と抱き上げ部屋に運んだ。


 その様子を一部始終しっかりアショーカに見られているとはサヒンダは知らなかった。


「サヒンダのやつめ。

 ミトラを見る顔が冷たすぎると、帰ったら注意するつもりだったが……。

 ……あいつはあのままで良いな」


「これで優しい顔などされたら普通の女性はときめいて恋に堕ちてしまいますのじゃ」


 老僧はすっかりこの王子の恋路をからかうのが楽しみになっていた。


 あれから更に三匹の鬼を退治し四日目を迎えていた。

 徐々に強くなる鬼もアショーカの剣を脅かすほどではなく、湖に近付く事すら許してはいない。

 このぶんなら七匹倒すのはさほど難しくはないだろうとミトラの目を追いかける方に気持ちが向いていた。


「早くミトラの元に戻りたい。

 残りの三匹は一度に来てくれぬものか。

 同時に片付けてやる」


「ほっほ。

 あまり鬼を見くびらない方がよろしいでございますよ。

 あとの三匹は、今までのように簡単にはいきますまい」


「ふん。全部やっつけたら本当にミトラの目を返すのだろうな。

 その約束だけは守ってもらわねば、カピラ大聖といえども許さぬからな」


「なんと偉大な大聖様に不遜な物言い」


「どれほど偉大であっても、俺は今のところ何一つ恩恵を被った訳ではない」


「一体大聖様に何をお願いするつもりなのですか?」


「タキシラの祭司大官になって頂きたいと思ってな。

 タキシラのバラモン達はカピラ大聖には絶対服従と聞いた。

 俺の太守就任を快く思わぬバラモン達も、カピラ大聖が祭司大官になれば素直に従うであろう」


「ほっほ。これは驚いた。

 そんな大それた事をお願いに?

 大聖様はこの五百年ほどはこの地で静かに修行を積まれ、世俗とは一切関わりを持たなかったのですぞ。

 それが政治の裏黒い渦の中に入られるなど本気で思っておいでか?」 


「そんな事は聞いてみねば分からぬ」


「そなたは随分頑強な体をお持ちじゃ。

 鬼退治の様子を見れば、いかほどの武人か容易に想像がつく。

 これだけの武をもってすれば、バラモンの勢力など武力で簡単に従えられるのではありませんかの?」


「そうだな。多分出来るだろう」

 アショーカは事も無げに言う。


「タキシラの開城のごとく無血で治めようと?

 ほっほ、綺麗ごとの好きな王子じゃ。

 しかし世の中そんなに甘くはございませんぞ」


「ふん。勘違いするな。

 誰が武力は使わぬと言った?」


 老僧はハッと目を見開く。


「なんと! では僧院を攻めるつもりもあると?」


「ああ。すでに僧院攻略の布陣と戦略は考えてある」


「で、では、なにゆえここに?」


「ただし武力は第二案だ。

 第一案はカピラ大聖を説得しバラモンをまとめ上げる。

 されどそれがうまく行かねば第二案を発動する。

 それも失敗すれば第三案だ」


「だ、第三案とは?」


「僧院に火をかけ、この地のバラモンを一掃する」


「な、な、なんと! 無慈悲な!

 悪魔のような王子じゃ!」


「されどその悪魔のおかげで数十万の民が平和に暮らせるならそれも良いではないか」


「お、おそろしい詭弁家じゃ……。

 大多数のために弱者を見捨てるのか」


「どこが弱者だ。

 バラモンこそが己の権力のために多くの民を犠牲にしてきた張本人ではないか。

 それが逆になるだけだ。

 俺はむしろ弱者の味方だ。

 この世に正義があると言うなら、俺こそが正義だ。

 それで俺が悪魔と呼ばれようがどうでも良い。

 自分の正義に従うまでだ。

 だが、まずはカピラ大聖を説得するのが最善と思ったから今ここにいる」


「なんと滅茶苦茶な……。

 カピラ大聖はあなたのような方には従いますまい」


「それは大聖が決める事だ。

 じいさんには聞いてない」

 アショーカは、ふんと鼻をならす。


「お食事が出来ましたよ、お二方」

 ラーダグプタが二人に声をかけた。


 焚き火に手ごろな平石を置き、持参したチャパティを焼いて、いちじくのジャムをのせ、干した杏とナッツを添える。あとは洞穴の外から採ってきた水代わりの雪片と塩をひとつまみ。

 それだけだった。


 干し肉も持参しようかと思ったが、動物を食べないだろう大聖の機嫌を損ねないよう、僧門の前に待機する騎士団の元に置いてきた。


「ほっほ。頂きますのじゃ」

 老僧は自分では何も持って来なかったくせに、少しの遠慮もなく相伴する。


「このチャパティはなかなか美味ですのじゃ。

 最高顧問官様は器用な方ですな」


「ラーダグプタは国の最高頭脳だ。

 出来ぬ事などない」

 アショーカは一口でチャパティを食べきると、雪片を口に突っ込みぶるると震えた。


「買いかぶりすぎですよアショーカ様。

 出来ぬ事は山のようにありますし、悔やむ事も多々あります」


「ほっほ。悔やむ事とな。

 大きな悔いを持っておられるようじゃな」

 老僧が意味ありげに言ったのでラーダグプタは不機嫌に眉を歪めた。


「なんだ? 何か悔いているのか?

 いつも自信満々のお前らしくもないな」

 聞きだしてやろうかとアショーカが身を乗り出した途端、ふいに場の空気が変わった。


 はっとしてアショーカとラーダグプタは湖面に視線を向けた。


 湖面は暗く何も映してはいない。


「しまった! ミトラが寝ている」

「痛み止めの薬湯を飲まれたのだ!」

 二人は剣を手に奥の洞穴に向かう。


「うわっっ!」


 アショーカは洞穴に入る手前で闇から現れた怪物を見上げて驚く。


 アショーカの背丈の二倍もある異形の生き物。

 今までは暗闇の中で始末をつけていたのではっきり姿形を見ていなかったが、洞穴から現れ出たそれは、鬼というよりは怪物。

 ドロリと溶けたような体には至る所に目がついている。

 青黒い体はポタポタと気味の悪い液体を撒き散らしながら、湖面を背に剣を構えるアショーカに向かって襲いかかってきた。


 長く鋭利な爪をたてて怪物の腕が振り下ろされる。

 アショーカは跳びよけてその腕を切り落とす。

 途端にぎゃあああっという叫び声で狂ったように暴れだす。


 闇雲に転げまわる怪物を湖面に近づけないようアショーカは剣で切り刻む。

 そのたび、雄叫びを上げ転げ回る。

 湖に転がり落ちそうになる怪物をなんとか食い止める事に気をとられていたアショーカは、切り落としたはずの片手が意志を持ったように蠢いて、自分に襲いかかるのに気付くのが、ほんの一歩遅れた。


 ザクリと左肩の肉を抉られ痛みに顔を歪めたものの、その腕を切り刻み、怪物に最後のとどめを刺す。


 ぎゃああああッと叫んだかと思うと、ふっとその巨体は消えて無くなった。


「大丈夫ですか? アショーカ様!」

 ラーダグプタが駆け寄り、左肩の傷口を縛って止血するが、ドクドクと血が溢れ出しアショーカの顔から血の気が引いていく。


「焚き火の傍で横になって下さい。

 血止めの薬草を塗ります」

 こんな事もあろうかと薬草は何種類か持参していた。


「これは熱が出ますのじゃ。

 鬼がつけた傷はジクジクと膿んで体を蝕みますのじゃ」


「なんとか出来ぬのか老僧!

 そなたの真言で治せるだろう?」

 ラーダグプタは薬草をすり潰しながら老僧を睨んだ。


「真言を使わば取引きが必要になりますのじゃ。

 水晶を鬼に渡して取引きしますかな?」


「く……」

 ラーダグプタは唇を噛む。


「いい……。大丈夫だ。薬草で治る」

 アショーカは痛みに震える肩を押さえ、首を振った。


「なんと健気な事じゃ。

 鬼の傷は普通の切り傷の何倍も痛みを伴うと言われておりますじゃに、瞳を守るために耐えられますか」


「こんな痛みどうという事はない。

 それより次の鬼が来るまでに回復させよ。

 どんな強い薬湯でもよい。

 必要とあらば魔酒ソーマを煎じてくれ。

 一時的にも痛みを遠ざける」


「し、しかし……ソーマは心まで蝕みます」


「あと二匹の鬼が来る一瞬でいい。

 二回だけだ」


「……」


 老僧はただ黙って二人の会話を聞いていた。




次話タイトルは「スシーマ皇太子」です

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ