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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
52/222

17  側近サヒンダ

「どうされましたか? ミトラ様」


 指先で目頭を押さえるミトラに、ソルはヤギのミルクを差し出しながら尋ねた。


 ソルが来てから三日が経っていた。

 ソルはよく気が付き、シェイハンのしきたりにも通じているせいかミトラは一緒にいるのが心地よかった。

 仕事も早く、ただ一点を除いて申し分なかった。


「何だか最近悪夢を見るのだ。

 恐ろしい鬼がやってくる……。

 その所為か目が疲れる。

 ずっと見張られてる感じがするのだ」


「まあ、やはりマガダの王子に囚われている心労が出てこられたのでございますね。

 お可哀想に。

 ここから逃げ出すお考えでしたらいつでもおっしゃって下さい。

 私が命をかけてお手伝い致します」

 言いながらソルはチラリと側に控えるアッサカを睨み付けた。


 恐ろしい顔で控えてはいるが、顔ほどは怖い男ではないらしいと、この三日で大体の見当はついた。

 そもそもミトラに絶対服従なのはすぐに分かった。

 そしてソルが何を言ってもサヒンダに告げ口する気もないらしい。

 その点は信頼出来た。


「あの……ソル。

 何度も言うが、アショーカはそなたが思っているような男ではないぞ」

 ミトラはあれから何度も言ってきた事を、もう一度言ってみた。


「では反乱討伐で大勢の民を殺しチャンダ(暴虐な)アショーカの異名を持つというのは?」

「そ、それは、そういう事もあったが……」


「ミトラ様に無理矢理キスしようとなさったのは?」

「そ、それも本当だが……」


「ミトラ様に服を脱げと命じて泣かせたというのは?」

「な、なぜそんな事を知ってるのだ!」

 ミトラはぎょっと顔を赤らめた。


「やっぱり思った通りの男ではないですか!

 いいですか、ミトラ様。

 今ここで何不自由ない暮らしをさせてくれているからと言って、マガダの王子など信用してはなりません。

 ミトラ様のように無垢で疑う事を知らぬお方など、あの者達にとって騙すのなど簡単なのですよ」


 断定するように言われるとミトラは自分の方が間違っているのかと分からなくなる。

 確かに家族を虐殺した敵国の王子を信用するなど世間から見れば愚かな事だ。

 でもアショーカは……。

 あの真っ直ぐで自らの信念に生きる男は、たとえ相手が奴隷であっても卑怯な事はしないだろう。



 ふいに外の衛兵がアッサカを呼ぶ。

 アッサカは扉を出て、すぐに戻ってきた。


「ミトラ様、サヒンダ様がお越しのようでございます」


「サヒンダ殿が?」

 ちょうど頼みたい事があったのを思い出した。


「失礼致します。

 ミトラ様にスシーマ王子より贈り物が届いております」

 サヒンダは曇天を映す灰色の髪を揺らし、いつにも増して不機嫌な様子で現れた。


「贈り物? スシーマ王子から?」

 ミトラの問いに答えるのも面倒なのか、扉の外に呼びかける。

「持ってまいれ!」


 サヒンダが命じると、衛兵達が四人がかりで大きな竹で編んだ篭を運んできた。


「な!」

 思いがけないものに驚く。


 篭の中にはミトラを見つめる真っ赤な目。

 真っ白な毛並みに金の王冠。

 小さな猿だった。


「ハヌマーン!」

 ミトラは思わず叫んだ。


 篭の中でハヌマーンはキイと叫んで、出してくれとばかり両手で竹を揺らした。


「ハヌマーン?

 ラーマーヤナの猿の将軍ですか?」

 サヒンダは白い猿を覗き込む。


「スシーマ王子が飼っておられる猿だ。

 何故それを私に?」

 サヒンダはすぐに理解した。

「なるほど。

 囚われのシータ姫に救出を告げにきた先駆けという事ですか」


 ソルもすぐに納得した。

「まあ、魔王ラーヴァナに囚われたシータ姫とは見事に言い当ててらっしゃるわ。

 スシーマ王子とはなんて的を得た方なのかしら」


「どういう事だ?」

 ミトラだけが、まだ分からない。


「魔王ラーヴァナがアショーカ王子でシータ姫がミトラ様という事ですわ」

 ソルが得意げに言うのを、サヒンダは忌々しそうにギロリと睨み付けた。


「……という事は、英雄ラーマ王子はそのスシーマ王子という事かしら」

 ソルはサヒンダに気付かず続ける。

「つまりは間もなく救出に来られるという事ですわ」


「救出? 誰を?」

 ミトラは首を傾げる。


「ミトラ様ったら。

 私が思いますに、スシーマ王子は愛するミトラ様を悪の手から救うために駆けつけると言いたかったのだと思いますわよ。

 なんてロマンチックなのかしら」


 ソルはこのキザな演出が気に入ったようだ。

 夢見るように手を組んでうっとりしている。


「え? でも私は婚約の話はお断りしたはずだが……」

 サヒンダは舌打ちをした。

「全然諦めてないということですよ。

 しかも思ったよりも到着が早いかもしれない」


 まずい事になったと考え込む。


 アショーカ王子の帰りより早く着いてしまうと、いろいろ面倒な事になる。

 サヒンダの心配をよそに、ミトラは篭の中で暴れる猿が気になって仕方がない。


「サヒンダ殿、ハヌマーンを篭から出してやってもよいか?

 長旅でひどくストレスを溜めてるようだ。

 少し毛並みが禿げている」


「凶暴そうですが大丈夫ですか?」

 嫌な予感に眉を顰める。


「私が会った時は大人しく椅子に座っていた。

 ずっと閉じ込められて窮屈なのだろう。

 人には慣れてると思うから大丈夫だ」

 ミトラは篭の入り口に結ばれた紐を解いた。


 途端に猿は扉を押し開け飛び出した。


「うわあっ!」

 驚いて尻餅をつきそうになるミトラを慌ててサヒンダが体で支える。


 そのまま猿は部屋中を飛びまわり、机のミルクをひっくり返し、ミスラの祭壇の火の灯った蜀台をなぎ倒す。


「ハヌマーン! やめろ!

 バチが当たるぞ!」

 ミトラの叫びも虚しくハヌマーンは窓の布を引き裂き、みんなの頭をぴょんぴょんと踏みつけて、部屋を縦横無尽に駆け回った。


「どこが大丈夫なのですかっっ!」

 サヒンダがいらいらとミトラを睨み付けた。


「衛兵! 外の騎士団も呼んで猿を捕まえろ」


 サヒンダが命ずると、わらわらと大勢の衛兵と騎士団がミトラの部屋になだれ込んできた。

 しかしその隙をついてハヌマーンは扉の外へ抜け出した。


「ああっ! ハヌマーンが外へ!

 スシーマ王子の大事な猿だ。捕まえてくれ!」


「勝手に送りつけてきたのです。

 知った事ではありませんよ」

 ミトラの叫びにサヒンダが冷たく言い放つ。


「ダメだ!

 知らぬ土地で獣にでも殺されたらどうするのだ!

 捕まえてくれ!」


 サヒンダはチッと舌打ちをして衛兵達に命じる。

「外だ! 外に逃げたぞ! 追いかけろ!」


 サヒンダが叫ぶと衛兵と騎士団は今度は部屋の外に雪崩れのように溢れ出た。


 やれやれと静かになった部屋を見回したサヒンダは、部屋の主が見当たらない事に気付いて唖然とする。


「あのっ! トラブルメーカーめっ!」

 もう何度目か分からぬ舌打ちをして部屋を飛び出た。


「騎士団! 猿なんか捨ておいてミトラ様を捕まえろ!」

 サヒンダはヴェールもつけず階段を駆け下りて行く少女を追いかける。


「おい! 何をしてるのだ!

 ミトラ様を捕まえろ!

 アッサカ、早くしろ!」


 目の前を小さな歩幅で走る少女など、簡単に捕まえられるはずのアッサカと騎士団達は、並走するだけで誰一人手を出せずにいる。


 そのまま猿を追いかけ階段を二つ下りた。


「おいっ! 早く捕まえぬか!

 中庭に出てしまうではないか!」


 猿ではなくミトラがだ。


 サヒンダはようやく追いつき手を伸ばす。

 しかし、もう一歩という所で空を切る。


「あ……!」

 そして最悪な事に、目の前の階段の目測を誤ったミトラの体が宙に舞った。


「ミトラ様っっ!」

 

 階段の一番上。

 受け身もせずに落ちたら大怪我は必至。

 全員青ざめた。


「誰か抱きとめろっ!」

 それでも手を出せずにいる騎士団の間からアッサカが飛び出た。


 ミトラの体の下に潜り込むように階段を飛び降りる。

 すたりと着地したアッサカの背中にミトラが跳ねて転がった。


「ミトラ様! お怪我は?」

 サヒンダと騎士団達があわてて駆け寄る。


「だ、大丈夫だ。

 それよりハヌマーンは?」

 すぐに起き上がろうとしたミトラは、右足に激痛が走ってしゃがみこむ。


「っつ……」


「拝見します」

 サヒンダは言うが早いか、ミトラの右足をぐいと引き寄せる。


「痛いっ!」

 絶対悪意があったと、見ていたソルは思った。


「ひねっていますね。

 これでは当分歩けませんよ。

 ……ったく。部屋にお戻り下さい」


「で、でもハヌマーンが……」


 しかし賢い猿は、騒ぎに気付いて戻ってきたらしい。

 いつの間にかミトラの側で、キイと大粒の赤い瞳を翳らせ見つめていた。


「ハヌマーン、心配してくれてるのか」

 ミトラはふさふさした白い毛並みに手を伸ばす。


 しかしそれより早く、サヒンダの右手がガッと猿の首根っこを掴んで持ち上げた。


「キイイイイイッ!」


 猿は驚いて手足をバタバタさせて叫び声を上げる。


「な、何をするのだ、サヒンダ!」

 非難するミトラを無視して、サヒンダは衛兵に猿を引き渡す。


「この猿を篭に閉じ込めておけ!

 入り口を厳重に紐で縛って出られぬようにしろ!」

 衛兵が恐る恐る受け取り、三人がかりで猿を連行する。


「か、可哀想じゃないか、サヒンダ!」

 ミトラの抗議も無視してサヒンダは更に命じる。


「誰かミトラ様を抱き上げて部屋にお運びしろ!」


 しかし、誰一人その光栄な役割に名乗りを上げる者はいなかった。


「何を突っ立っておる。

 早く運べ、アッサカ!」

 サヒンダはアッサカを名指しした。


 アッサカは青ざめて首を振る。


「ミトラ様の尊きお体に私ごときが触れる事など出来ません。

 どうかご容赦を……」


 そうだったとサヒンダはため息をつく。

 この役に立つ男は、ただ一点それだけは融通が利かないのだ。

 さっきも抱きとめて飛び降りれば怪我などさせず済んだものを。


「では騎士団か衛兵の誰か、ミトラ様を抱き上げてお運びしろ!」


 騎士団達は困ったように俯く。


「なんだ? どうしたのだ?

 誰でもよいからお運びせぬか!」


 しばしの沈黙の後、思い詰めたように騎士団の一人が答える。


「ど、どうか……それだけは……。

 アショーカ様の寵愛深きお方を抱き上げたなどと、後でアショーカ様の耳にでも入ったら……。

 どのようなお叱りを受けるか……」


「何をバカげた事を!

 怪我をして運ぶだけだぞ。

 アショーカ様がそんなくだらぬ事でお怒りになったり……」

 ……するかもしれないと思い当たってサヒンダは言葉を詰まらす。


「もう! 何なのですか!

 この頼りにならない衛兵達は!」

 一部始終を見ていたソルが声を荒げた。


「結構ですわ!

 私がミトラ様を支えて部屋にお連れしますから!」


 ソルはミトラの元に駆け寄り、その華奢な脇に肩を入れ、立ち上がらせた。

 しかしヨロヨロと歩き出した二人は、階段を二段登っただけでぐしゃりと崩れて倒れる。


「っつ……」

 捻った右足に伝わる衝撃にミトラが顔を歪める。


 男達がその様子を手をこまねいて見ながら、オロオロと周りを囲む。


「ああ、くそっ!

 なんでこんな時にトムデクもヒジムもいないのだ!」

 サヒンダは鬼の形相でミトラに歩み寄った。


 あまりに殺気じみた百インドラの顔に、ミトラは殴られるのではないかと後ずさる。


「な、何をなさいますか! サヒンダ様!」

 ソルも危険を感じて前に立ちはだかった。


「どけっ! 侍女!」

 サヒンダはソルを払ってミトラの腕を掴んだ。


「な、何をする!」

 振り解こうとするミトラの体がふわりと抱き上げられた。


「まったく! なぜ私がこんな事を!」

 毒舌とは裏腹に、抱き上げる腕にはミトラの痛む右足に衝撃が加わらぬための配慮を感じる。


 どちらかというと頭脳労働が多く、文官のイメージのサヒンダだが、アショーカの側近を名乗るだけあって、しなやかな筋肉は意外にも軽々とミトラを持ち上げ、事も無げに階段を上っていく。


「あ……あの……サヒンダ殿……。

 迷惑をかけてすまない……」

 ミトラが恐る恐る告げると、サヒンダはギロリと腕の中の少女を睨んだ。


「まったくです!」

 すこぶる不機嫌だ。


「こんな場面をアショーカ様に見られたら側近の私とて嫌味の一つぐらい言われます」

「ア、アショーカはこんな事ぐらいで嫌味など言わぬであろう?」


「……」


 少し考えてため息をつく。

「あなたはアショーカ王子がどれほどあなたに執心なさってるか分かってないようだ。

 何のためにラーダグプタ様をヒンドゥクシュに連れて行ったと思うのですか」


「バラモンに通じているからだろう?」


「それもありますが、私よりも権力のある者を置いておきたくなかったのですよ。

 太守代理の私が対抗出来ぬ相手を」


「勝手にタキシラの政務を動かされるからか?」


「ラーダグプタ様は賢明な方です。

 そんなつまらぬ事をして政治を乱す事はなさいません」


「それでは何を?」


「あなたですよ!」

 恋愛が絡むと、呆れるほど鈍感になる少女をサヒンダは睨み付けた。


「最高顧問官のラーダグプタ様が望めば、再び会見の場を持つ事も、部屋に呼びたてる事も、あなたの部屋に押しかける事すら出来る。

 太守代理の私が止める事など出来ない。

 それを危惧されたのです」


「そんなこと……」


「されどラーダグプタ様を連れて行かれたゆえ、私は今この宮殿の最高権力者です。

 あなたに何者をも近付かせない権力を持つ。

 それなのに勝手に部屋を飛び出されて怪我までされたのでは酷いお叱りを受けます」


「す、すまない。もう二度としない……」


「当たり前です!」

 吐き捨てるように言う。


「で、でも……ハヌマーンを篭に閉じ込めるのは……可哀想だ。

 猿だから木に登ったりしたかったんじゃないかな……」

 だんだん声が小さくなる。

 しょんぼりとうな垂れた。


「……」

 サヒンダは相変わらず不機嫌に睨みつける。


 しかしその口から出た言葉は意外なものだった。


「中庭の一角に天幕を張りましょう。

 その中に放してやればいいでしょう。

 勝手に部屋を出られるぐらいなら、厳重に管理して見張りをつけた方がマシですから」


「本当に?」

 ミトラの顔が笑顔に変わる。


「ありがとう、サヒンダ!」

 嬉しそうに礼を述べるミトラにサヒンダは一瞥を投げる。


「後はアショーカ様の帰着より早くスシーマ王子が来られぬ事を望むばかりです」


「え? なぜ?」


「言ったでしょう。

 スシーマ王子は国の皇太子。

 太守代理の私ごときが言葉を挟める相手ではないのです」




次話タイトルは「鬼凍湖の鬼②」です

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