15 スシーマ皇太子
マガダの王宮がある首都パータリプトラの奥宮殿。
やしの木の立ち並ぶ東宮殿の中庭を駆けてくる一人の少女がいた。
ここは身内の屋敷とばかり、窮屈なヴェールを外して艶やかな黒髪をなびかせ、大きく勝気な瞳を輝かせている。
途中で異物を頭に乗せた男とぶつかりそうになって、息を切らして立ち止まる。
「ナーガ! スシーマ様はどこ?
私をお呼びだと聞いたの。
祈祷室かしら?」
頭上にとぐろを巻く蛇二匹とナーガは、細い目を、同じように見開いて応じる。
「ユリ様。まだ寝所におられますが……」
「まあ、珍しい。
こんな時間まで寝てらっしゃるの?
もしかしてご病気で臥せってらっしゃるの?
だから不安で私をお呼びになったのかしら?」
滅多にない皇太子のお声掛けに、ユリは朝食も途中に飛び出してきたのだ。
あれほど堅物だったスシーマ皇太子が最近は女人に興味を持ち、何人か寝所に召されたと聞いて、ユリは心乱される日々を送っていた。
そもそも、シェイハンの翠目の女を婚約者に決めたと聞いて、どれほど絶望したことか。
しかし、気の毒な彼の姫はアショーカ王子にタキシラに連れ去られ、十万の兵と共に討伐に向かった皇太子は、結局姫を連れ帰っては来なかった。
何があったのか政治の事はよく分からないが、とにかく彼の姫とは破談になったらしいと聞いて、ヒンドゥ中の姫達は手を取り合って喜んだものだ。
その傷心を癒すためか女人に声が掛かるようになって、姫達は次は自分の番かと日々美しさに磨きをかけ、そわそわと落ち着かない毎日を過ごしている。
ユリももちろんその一人だった。
癒しが必要なら自分がすべてを投げ打ち尽くして差し上げるのにと、もどかしく思っていた。
そしてやっと声が掛かったのだ。
「すぐ行って看病するわ。
いいわねナーガ」
本当に弱った時こそ自分を思い出したに違いない。
自分は他の一夜限りの女達とは違う。
スシーマにとって特別なのだ。
その自負はある。
男の寝所に立ち入る無礼もユリなら許されるはずだ。
何か言いたげなナーガを置いて、ユリは真っ直ぐスシーマの寝所に向かい、入り口の更紗の布を上げて中に入った。
「スシーマ様、お加減はいかがですか?」
ゆったりと広い部屋は大きな窓に垂らされた薄絹の織布から漏れ出る日差しで、柔らかい光とそよ風に包まれていた。
ラタンの大きなベッドにはふかふかに弾力を持たせた藁のクッションと、それを覆う肌触りのいい寝具が設えられている。
掛布の向こうにチラとスシーマの長く編まれた茶色の髪が見えた。
やっぱり休んでいたらしい。
長い付き合いではあるが寝所で寝ている姿を初めて見るユリは、ドキリとときめいてベッドに近付いた。
「ん……? ユリか?
こんな早くどうした?」
スシーマは気だるそうに髪をかき上げ上体を起こした。
掛布から現れた上半身が裸なのに気付いてユリは「きゃっ!」と両手で顔を覆い目を瞑った。
「失礼致しました。
まだ寝所と聞いて、ご病気なのかと思ったものですから……」
ユリは真っ赤な顔を両手で隠したまま答えた。
「ああ、そうか。
そなたを呼んだのだったな。
しかし、今日の時間がある時と申したのに。
こんな朝早く来ずとも良かったのだ。
急がせて悪かったな」
今日のスシーマ王子は優しい。
やはり何か違う。
ついにユリの存在の大切さに気付いてくれたのだ。
ユリは恐る恐る手を下ろし、高鳴る想いでスシーマを見た。
小高く積まれた枕に頬杖をつき逞しい筋肉を露に自分を見つめるスシーマが目に入った。
穏やかに微笑む藍色の瞳は大人の余裕で覇者の威厳を放つ。
ドキリと心臓が跳ね上がるのと同時に、スシーマの隣りで、もそもそと動くものに気付いた。
愛猿のハヌマーンかと思ったユリは、それが黒髪の緑目の女と気付いて呆然とした。
「スシーマ様……」
甘えるように呟く女の、剥きだしの肩口が見えた。
「目覚めたか。
悪いが来客のようだ。
服を着て下がってくれるか?」
スシーマが女に優しく声をかける。
「残念ですわ。
もう少しお側でご奉仕させて頂きたかったのに……。
また呼んで頂けますか?」
女は心から残念そうにくねりくねりと左手をスシーマの厚い胸に這わせる。
「そうだな。お前は中々に良かった。
機会があればまた呼ぼう」
「嬉しい」
しな垂れかかる女にスシーマは口づけを落とす。
ユリはそれを見て
「いやああああ――――っっ!」
と叫んで逃げるように部屋を飛び出した。
バタバタと足音が遠のいて行くのを確認して、スシーマはため息をついた。
「ご苦労だったな。
嫌な役をさせてすまない」
スシーマは黒髪の女に告げる。
「いいえ。素敵な一夜でございました。
スシーマ様のお相手なら喜んで致します」
女はスシーマの厚い胸に頬を寄せる。
「いや、お互い情が湧いても困るのでな。
ユリの手前ああ言ったが、次はない。
報償を充分に用意させているゆえ、受け取って下がれ。
なお、この事は他言無用にな」
「かしこまりました」
女は身支度を整え、部屋を出て行く。
それと入れ替わるようにナーガが入ってきた。
「悪い男ですね。
朝一番でユリ様が飛んで来ると分かって伝令をやったでしょう」
三日月の細い目がにやにやと笑っている。
蛇達もシャーと舌を出してからかう。
「あれでユリも私に対する思慕を断ち切れるだろう。
ユリのためだ」
「お可哀想に。
幼少の頃からスシーマ様しか見ていなかった方なのに」
「私だってユリの事は少なからず想っているのだ。
妹のようにな。
だからいつまでも実らぬ恋で苦しませるのは気の毒なのだ」
「実らぬ恋でも遊びでも、ユリ様はスシーマ様に抱かれたかったと思いますよ」
「ユリだけは偽りの心で抱きたくないのだ」
「他の女はいくらでも抱けるのに?」
ナーガはにやにやしながら、立ち上がって自ら衣服を身に着ける王子を手伝った。
「ふん、女体の事は医学書などで大体の知識はあったが、やはり知識と実践は違うからな。
女を得ようと思うならまず、その実態を知らねばならぬ」
「ミトラ様を手に入れるための練習という事ですか?」
ナーガは慣れたように王子の剣帯を巻き、その腰に大剣を差した。
「何とでも言え。
次は翠目でなくともよいから十四の経験のない女を捜してくれ。
後腐れがない方がいいと、金でかたの付く経験者ばかりを選んでいたが、どうも慣れすぎた女では練習にならん」
「金など積まなくてもスシーマ様のお相手だと聞けば、国中の女が二つ返事で応じてくれますよ」
仕上げに緑のマントを肩にかけ、大きなエメラルドで留めつける。
「悪いが私はミトラ以外の女に一ミリの愛情も子種もやるつもりはない。
だから情での取引は出来ぬ」
ナーガはやれやれとため息をつく。
「国中の女達がスシーマ様のお声かけを喉から手が出るほどに心待ちにしているというのに、なんとつれない事を……」
「ああ、それだ。
どの女も抵抗がなさ過ぎる。
もっとミトラのように私に歯向かうような女を捜してくれ。
練習にならん」
「そんな女はこのヒンドゥにはおりませんよ」
呆れたように答える。
「うーむ。困ったな」
「バラモンの貴族の娘ならもう少し身持ちが固いと思いますけどね。
どうです?
練習ついでに側室を二・三人娶ってみては」
「いらぬ。私はミトラに誠実でありたいのだ。
妻はミトラ一人でいい」
「……」
黙って微笑むナーガをスシーマが睨み付けた。
「何か言いたい事がありそうな顔だな」
「いえ。国一の堅物の男が恋をしたら、こんな風になるのかと思いまして」
「バカにしてるのか」
「とんでもない。
なかなかに面白き男になってきたと感心しているのでございます」
「ふん、私は私のやり方でミトラを愛する」
「今は一歩アショーカ王子にリードされてますからね」
「うむ。タキシラ開城のいきさつは聞いた。
ミトラは少なからずアショーカを信頼しているようだからな」
「しかし先日のラーダグプタ様からの報告では無理矢理キスしようとして乱心騒ぎを起こしたとか……」
「翠十字の封印の事はアショーカには伏せておけと命じたが、あいつの欲情は封印をも打ち破りかねんな。
一刻も早くタキシラに戻らねばならぬ」
「あちらはあの年で三人の妻と子を持つ手練れですからね。
おまけにカーマ・スートラを全巻揃えて日々研究を重ねているそうです。
スシーマ様も、うかうかしてられませんね」
ナーガはからかうように付け足した。
「まあ、その男がキス一つ出来ぬらしいから、まだまだミトラには手を出せぬだろう」
「そういえばカピラ大聖に会うためにヒンドゥクシュに登るそうですよ。
今頃はもう出発している頃かもしれません。
十日ほどは城を留守にするらしいです」
「ほう。今ならアショーカがいないのか。
それは都合がいいな。
少数の早駆けなら十日もかからずタキシラに着く。
そういえば我がシータ姫への贈り物はそろそろ届く頃か?」
「いえ、キャラバンに運ばせましたのでもう少しかかるかと。
早駆けで行かれるなら、同時ぐらいの到着になるかもしれません」
「私が先に着いてしまっては意味がないがな。
……だがそうも言ってられん。
早々に王を説得し、アショーカの太守任命をとりつけようぞ」
「ついでにミトラ様との婚姻も王より勅命して頂ければ簡単なのでは?」
「そんな事をして、あのミトラが納得すると思うのか?
権力を振りかざして無理強いすれば、あの者は私を軽蔑するだろう。
私はあの者の体が欲しいのではない。
あの姫の心が欲しいのだ」
「なるほど。愛を勝ち取りたいと……」
「私がアショーカに負けると思うのか?」
「いいえ。国中の姫がスシーマ様を選ぶでしょう」
ナーガは恭しく請け負った。
次話タイトルは「ビンドゥサーラ王」です




