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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第一章 出会い編
5/222

5、神酒 ソーマ

 軽い仮眠をとりながら、聖大師様のお世話を済ませ、再び塔の上に見送ると、ミトラの一番重要な仕事が待っている。

 

「ミトラ様、今日はどちらに行かれますか?」

 数ヶ月前に入ったばかりの若い神官が尋ねる。


「ダンダカの森まで行ってみようかと思う。

 遠出になるが大丈夫か? シェムナーイル」

「全然へっちゃらです。

 ミトラ様のお供を出来るのなら私はエジプトにでもつき従いますよ」


 ミトラよりも一つ年下のシェムナーイルは、ミトラの熱烈な信者の一人だ。


「ダンダカの森とは、また遠くまで行かれますね」


 後ろで二人の会話を聞いていたイスラーフィルが、神官らしくない屈強な腕でひょいとミトラを持ち上げ、馬に乗せた。


 セレウコス朝シリアに仕える武官だったという経歴のイスラーフィルは、紆余曲折を経てシェイハンの神官になった。


 シリアでは相当腕の立つ高級武官だったらしく、主に神殿の警護や警備兵の取りまとめを担っていて、低位ながら神官の間でも一目置かれる存在だ。


「伝説のダンダカの森なら見つかるのではないかと思ってな」


 ソーマ草が、だ。


 近辺の森のソーマ草はなぜか今年に入って、枯れ切ってしまった。


 聖大師様の生命線ともいえるソーマの神酒を作るのは世話係の仕事だった。


 ……というより世話係しか出来ない。


 幻の草ソーマは、選ばれし者しか見つけられないと言われている。


「なるほど。

 ですがダンダカの森はマウリヤ朝との国境ゆえ危険もございましょう。

 多くの神官と従者が危険に晒されるという事をお忘れなく」


 日焼けし過ぎて色落ちした金髪が獅子のたてがみのようなイスラーフィルだが、筋肉質な巨体に似合わず、檸檬色の涼やかな目元をしていた。

 しかし歯に衣着せぬ物言いは、時折ミトラを軽く傷つける。


「イスラーフィル様!

 ミトラ様に何て言い方をするんですか!

 私はミトラ様のために命を落としたって少しも後悔なんてしません。

 むしろ誇りに思います!」


 若さゆえの信念で宣言するシェムナーイルに、イスラーフィルはげんこつを落とした。


「簡単に命を落とすなんて言うな若造。

 みんながお前のように気楽な立場だと思うなよ」


 イスラーフィルの言う事はいつも正しい。

 だから尚更ミトラはその言葉に傷ついてしまう。


「わ、私だって守るべき家族ぐらいいます!

 でもそれ以上にミトラ様のことを……」

「もう良いシェムナーイル。そなたの気持ちは嬉しく思う。

 しかしイスラーフィルの言う事ももっともだ。

 だが、ソーマを見つけねばならぬ。今日は予定通り行くが、それで良いか?」


 ミトラは馬上からイスラーフィルを見下ろした。


「もちろんでございます。お供致します」

 イスラーフィルは深々と頭を下げた。


 この不思議な男は毎回何か一つは苦言を呈していくくせに、わざわざ志願して供をしているらしい。

 ミトラにはその本意が理解出来ないままだ。


「ミトラ様をいじめたら、耳から毒虫を入れて鼻から出すぞっっ!」


 皆はぎょっとして、ミトラの隣りで馬を並べるレオンの、この上なく凶悪な顔を見つめた。


「……とレオンが申しております」


 背後の導師が言う。


 レオンは困ったように首を振っている。


「導師殿! レオンで遊ぶのをやめてやってくれ。

 そんな顔に見えるが、レオンは決してそんな事を思う者ではない。

 そなた分かってるだろう!」


 レオンは顔を俯け恐縮しながら、そんな顔に見えるのかと秘かに傷ついた。


「ほほほ、日暮れまでに戻らねばなりません。出発しましょう」


 西方から連れてきた白い駿馬に乗って、導師がイスラーフィルの前に割り込むようにミトラの隣りについた。


 そうして無言で睨み合う導師とイスラーフィルの姿に、ミトラは少しも気付いていなかった。


      ※        ※


 ダンダカの森までは、一旦プシュカラの市街地に出て、整備途中のまま放置された足場の悪い街道を進む。

 付き添いの神官と警備兵の十人ばかりの隊列だ。


 ダンダカの森というのはシェイハンでの通称の事で、正式名称はマルダンの森だった。

 ヒンドゥの有名な叙事詩ラーマーヤナに出てくる神聖なるダンダカの森に似ているため、そう呼ばれるようになり、今ではそちらの方が主流になってしまった。


 どこか人ならざる者の気配を感じる不思議な森だった。


 森の向こうには大河インダスが流れ、パンジャブの平原が広がっているという。

 その先は、マウリヤ朝の治める商都タキシラだ。


 この森は国境ではあるが、その境界は定まってはいない。

 林住期の聖者が密やかに住むと言われる森の中には、馬一頭が辛うじて通れる小道が続いている。


 行列を作りながら小道を進んで行くが、どこまで行ってもソーマの気配は感じない。


「導師殿、なぜシェイハンのソーマ草は枯れてしまったのでしょう?」


 自分の馬を警備兵に預けて、ミトラの馬の手綱をとる導師に、漠然とした不安を呟く。


 この半年。

 聖大師様の様子がおかしくなってからの異変だ。


「気候のせいでしょう。今年は雨が少なかった」

 導師は、それほど深刻に捉えていないらしい。

「聖大師様のお加減が悪いと聞きました。少し心を病んでおられるようだと……」


 いつの間にか馬を下り、導師の後ろを歩くイスラーフィルが話に割り込んできた。


「この所、神のご神託を授かる事が出来ぬようでございますね。

 それが焦りとなって聖大師様の心を圧迫しているのでしょう。

 重い役目でございます」


 導師は珍しく真面目に答えた。


「それだけでしょうか?」


 夕べ聖大師様の体を支えて湧き出た疑問。


「……といいますと?」

 導師はどこか楽天的だ。

 明るい顔が馬上のミトラを見上げる。


「重かったのです」


 ぽそりと呟くミトラに二人は首を傾げる。


「重い?」


「五日も食事をなさってないのに、人の重みがあった。

 いつもより重かったのです」


「人の重み……」


 その言葉の意味は二人もよく分かっている。


 ミトラの、藁を持ち上げるような重み。


 食が細いだけで説明出来ない、精霊のような軽さ。

 聖大師はさまざまな部分で人離れしているが、ミトラを持ち上げて、驚かぬ者はいない。

「人に……近付いていると……?」

 そのイスラーフィルの問いに答える前にミトラは叫んだ。


「ソーマだ! ソーマの気配がするっ!」


 右手奥に広がる鬱蒼とした森を指差した。


 馬を下り森の中に進むと、ミトラの背丈ほどあるソーマの草原が広がっていた。


「良かった。これだけあれば、しばらくは大丈夫だ」

 ミトラは夢中で摘んだ。


 導師とイスラーフィル達は、嬉しそうに草を摘むミトラを離れた位置で眺めた。


 聖なる草に触れるのは禁忌だった。

 ただびとの手垢がつくと、ソーマの神酒としての効果が変容してしまう。

 手伝いたくともミトラに任せるしかないのだ。


「あなたは聖大師様をご覧になった事がおありでしょう?」

 導師は隣りに立つイスラーフィルに訳知った顔で尋ねた。


「前の聖大師様がご存命の頃です。

 今のミトラ様より、もう少し大人であられた」

「最近の聖大師様もご覧になった事がおありなのでは?」


 その質問にイスラーフィルの肩がビクリと震えたのを、導師は伏した目で確認する。


「バカを言うな。

 聖大師様は神の妻となった暁には神官と言えども見る事など出来ぬ。

 あなたの方こそ会った事があるのでは?」


 問い返す目に動揺が見える。


「私がここに来たのは聖大師様が嫁がれてからです。

 お会いした事などありません」

「どうだかな。ミトラ様の側についていれば会う隙もあるはずだ」


「何が言いたいのですか?」

 導師は顔を上げ、まっすぐイスラーフィルを見つめた。


「あなたが来てから聖大師様の様子がおかしくなったと言ってるんだ」

 イスラーフィルは導師を睨み返した。


「嫉妬ですか? 私は宦官ですよ?」

 導師は可笑しそうにふっと笑った。


「そ、そんなんじゃない」

 真っ赤になって反論するイスラーフィルは認めているようなものだった。


「心配せずとも、間もなく私はミトラ様の元を離れるつもりです。

 請われてこの地に留まってしまいましたが、長く居過ぎたようです。

 だからあなたのように誤解する輩が現れる。

 近いうちに再び東方に旅に出るつもりです」


 導師の言葉に、イスラーフィルは驚きと安堵の混じった微妙な表情を作った。


「本当か? ミトラ様は知ってるのか?」

「まだ話してはいません。

 しかしどちらにせよ近いうちに私はミトラ様のお側を離れなければならないでしょう」


 なぜならミトラ様は間もなく神に嫁がれるから……とは導師は言わなかった。


次話タイトルはもう一度「神官イスラーフィル」です

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