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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
48/222

13  アロン王子

「まさか……」


 アショーカとラーダグプタは呆然と湖面を見つめた。


「これは……ミトラの見ているもの……。

 まさか《大事な瞳》というのは……」

 二人は何かの間違いだと言ってくれる事を信じて老僧を見た。


「ほっほ。この映像を映し出している瞳にございますな」


 能天気な老僧の言葉を聞くや、アショーカは老体に飛び掛かり、枯れてスジしか残っていない襟首を掴んで締め上げた。


「うぐっ……! 何をしますのじゃ……」


「そっちこそ何をしてやがるっっ!

 俺の大事な瞳だと申したであろう!

 何故ミトラの瞳を使ったのだ!

 話が違うではないかああっ!」

 鬼のように怒るアショーカに老僧は首を締め上げられ、もがく。


「うぐぐ……。

 ふ、普通の御仁なら……《大事な瞳》と申さば本人の目になる場合がほとんどでございます。

 私もこのような事は初めてでして……」


「秘儀を間違ったのだな!

 やり直せっ!」


「う……い、いえ……私は間違っておりません……。

 王子様がご自分の目よりこの方の目の方が大事と思われているからでございましょう。

 ご自分の目より大事な目がある方など、あまりいないのですが……」


「そんな事はどうでもいい!

 やり直せっ!」


「それは出来ませんのじゃ……。

 一度呪が発動してしまった後では、もう七の日を過ぎるまで、この呪を解く事は出来ませんのじゃ」


「なんだとおおっ!」

 アショーカは更に老僧をぎりぎりと締め上げる。


「出来なくてもやれっ!

 俺の両の目をくれてやる!

 ついでにラーダグプタの目もくれてやる。

 だからミトラの目は返せ! 命令だ!」


「う……ぐ……ど、どのように命令されましても……私……にも……出来ま……せん……」

 老僧は目を白黒させて今にも気絶しそうになっている。


「アショーカ様!

 それ以上締め上げると老僧が死にます!」

 ラーダグプタが慌てて止めに入る。


「老僧が死んではミトラ様の目は永久に戻りません!」


 その言葉にようやく我にかえる。


「くそっっっ!」


 アショーカは老僧を地面に叩き付けた。

 乾燥した枝木のような老体は、重みのない分さほどの衝撃も受けず地面にコロコロ転がってゴホゴホと咳き込む。


「くそっ! くそっ! くそっ! なんという事だ!

 ミトラの目を……よくもっ!」

 アショーカは怒りが収まらないように地面を蹴り上げる。


「おいっ! もう片方の目はどうなったのだ!

 ラーダグプタの目のはずだろう!」


 老僧はよろよろと湖面を見つめる。


「おかしな事じゃ。

 普通は別々の目を預かれば二つの景色が二重になって映るはずなのじゃが……。

 これはまるでこの方から二つの目を預かったように映っておるのじゃ」


 アショーカは予想もしなかった最悪の事態に蒼白になる。


「な! なんだとっ!

 ミトラの両目を預かったと申すか!

 何故だっっ!

 ラーダグプタの一番大事な目がミトラの目のはずがないだろう!」


 ラーダグプタはアショーカの言葉を聞き、青ざめた。

 ラーダグプタにとっても一番大事な瞳とはあの翠の瞳……。

 まぎれもない真実だ。


 老僧はチラリとラーダグプタの様子を覗き見て、すべてを知っているような顔でにやりと微笑んだ。


「王子様の想いが強すぎたのでございましょうな。

 この方の目を退け両の目を預かってしまったのでございましょう。

 なんとも、恐ろしいほどの想いっぷりですじゃ」


 ラーダグプタはもっともらしいこじつけで恩を売る老僧に、それでも助かったと安堵した。


「な、なんだと……。

 では、俺のせいでミトラの両目が見えなくなるかもしれぬという事か」

 何も気付いていないアショーカは、愕然として膝をつく。


 ラーダグプタは、アショーカがこれほどまでに動揺するのを初めて見た気がする。


 自分の持ち物にはまったく執着しない王子が、ミトラのあの神秘の瞳にはこうまで執着するのか……。

 しかし……それは自分も同じ。

 もう二度とあの翠の瞳を失う悪夢など体験したくない。



「おい、じじい!

 この水晶を獲られなければミトラの瞳は本当に返してもらえるのだな」

 アショーカは思いつめたように確認する。


「もちろんでございますのじゃ」


 アショーカは決心を固めたように肯く。

「分かった。

 ラーダグプタ、絶対にあの水晶を死守するぞ!

 もはやカピラ大聖への願いは二の次だ。

 ミトラの目を守る事だけに集中せよ。分かったな!」


「はい。かしこまりました」

 ラーダグプタもそのつもりだった。


「くそう……。すまぬミトラ。

 お前をこんな形で巻き込む事になるとは……」

 落ち込む王子に老僧は秘かにほくそ笑む。


「よほど大事な方でございますのじゃな。

 恋人でございますかな?」


「そうだ。いずれは妻になる女だ」

 拒否され続けているが、この際関係ない。


「されど相手の方は違う方を想っていらっしゃるようでございますな」

 はったりを見透かしたような老僧の言葉にアショーカが唸る。


「なんだと?

 何故そんな事が分かる?」


「それ、湖面にこの方の想い人が映っておりますのじゃ」


 見ると、ミトラと同じ月色の髪と翠の目をした美しい青年の肖像画が映っている。

 その絵がずっと映っているという事は、ミトラが見つめ続けているという事だ。


「なんだ? このとりすましたキザな男は?」


 肖像画の男は金糸で刺繍された相当質のいい長衣を纏い、見事な細工の剣を佩いている。

 高い身分の者には違いない。


 いつまでも映し出されている男にアショーカの不機嫌が募る。


「アロン王子です。

 シェイハンの王太子。ミトラ様の兄上です」

 ラーダグプタが答えた。


「なんだ。兄ではないか。

 肉親ならば仕方あるまい」

 自分に言い聞かせるように唸る。


「されどミトラ様は最近まで兄とは知らされておりませんでした」

「エジプトなどでは兄妹の結婚も珍しい事ではありませんですのじゃ」

 老僧も面白そうに冷やかす。


「むう……。ここはヒンドゥだ。

 兄妹の結婚は許さん!」

 アショーカは腕を組んで更に唸る。


「心配されずともアロン王子は先だってのマガダの侵略で亡くなられました」


 アショーカは、はっと顔色を変える。


「そうか……そうであったな……。

 王族は全員処刑したのであったな……」

 アショーカは、初めてミトラの孤独を目の当たりにした気がした。


「アロン王子はミトラ様の事を随分可愛がっておいででした。

 もちろん王子の方はミトラ様を妹とご存知でしたが、幼き頃より巫女として家族の名乗りも出来ぬ事を不憫に思ってか、いつも気にかけておられました」


「まあ、兄なら当然だな」

 アショーカは、弟ティッサを思い浮かべる。


「ミトラ様もアロン王子にはとても懐かれていて、あの方にだけは素直でございました。

 アロン王子はミトラ様が聖大師となられるまでは結婚しないとおっしゃいまして、縁組を望む姫は国中の貴族の娘から、他国の姫君まで数え切れぬほどでしたが、結局死ぬまで誰も娶ることはありませんでした」


「な、何が言いたいのだ!

 意味深な言い方をするなラーダグプタ!」


「いえ……ただ、そこにどのような感情があったのかは私の伺い知れぬ事ゆえ……」


「伺い知らんでよい!

 兄と妹だ! それ以上の感情があってたまるか!」

 老僧は愉快そうに二人の会話を聞いている。


「おおっ! これが王子様の想い人ですのじゃな!」

 老僧が叫んだので、二人は再び湖面を覗き込んだ。


 鏡台の前に現れたミトラがぼんやりと映っている。

 焦点は鏡台の前に置かれたアロン王子に注がれたままだ。

 切なげに絵を見つめるその姿に、アショーカは無事な姿に安心すると同時にいらいらが募る。


「ミトラめ! 俺様の留守に他の男にうつつを抜かすとは……うむむむ……許せん!」


「ほっほ。他の男を想う姫の目など、それほど必死に死守せずともよいのでは?」

 老僧が囁く。


「ふん! それとこれとは別だ。

 ミトラの目は命をかけても守ってみせる!」


「なんと健気な。

 想われてもいない女の目を命をかけて守るのですかな?」


「うるさい!

 そのうち俺様の事しか考えられぬほど夢中にさせてやる!」


「ほっほ。そうなればよろしいですがの」


「黙れ!

 それ以上余計な事を言うと、その頭の毛を引っこ抜いてやるぞ!」


「ひいいいっ。それだけはご勘弁を……」

 老僧は慌てて頭を押さえた。


 ミトラの目はその後しばらく赤毛の侍女と話した後、書物を何冊か読み、再び祭壇に向かって数時間固定された。


「ずいぶん単調な日々を送っているのだな」


 アショーカはミトラのためとはいえ部屋から一歩も出さない事を気の毒に感じた。

 読書と祈りの繰り返し。

 自分なら退屈で死にそうな日常だった。


次話タイトルは「鬼凍湖の鬼①」です

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