12 大事な瞳
アショーカとラーダグプタは洞窟の中で目覚めた。
すぐそばで焚き火が焚かれ、凍った体が血の気を取り戻しジンジンとむず痒い。
「これは……」
焚き火に照らされた洞窟の中は、ごつごつした岩に囲まれ、その真ん中に氷を張った小さな湖があった。
湖というよりはため池程度の大きさだが、その存在感が湖と呼ばれるに相応しい。
それはあまりに綺麗な円を描き、凍った湖面は透度の深いエメラルドグリーンに色付き、蛍光色を発するように光って見える。
そしてその湖のそばで老僧が手印を結び、何事かを一心に唱えている姿が目に入った。
老僧の前には岩の一つを受け皿のようにして呪具の水晶がのっている。
瞳を預ける秘儀というやつか。
「アタルヴァ・ヴェーダですね」
ラーダグプタがそっと囁いた。
「アタルヴァ・ヴェーダとは確か、主に呪詛を記した未完の経典ではなかったか」
「はい。わが父カウティリアが編集に努めて参りましたが、なにぶんバラモンの直系に口伝のみで伝えられる秘儀ゆえ、ほとんど集める事が出来ないままになっております」
「形式だけの儀式になっている部族も多いと聞くが……」
「はい。されど私は父と共に力ある聖者の呪詛に立ち会った事がございます。
本当に妖力を持った者が発するマントラは、場の次元を変えると言われております。
随分昔の事ですがあの時の空間が歪むような感覚、今思い出しました」
ラーダグプタは視線を険しくする。
「あの老僧は本物の妖力使いです」
「うむ。そうであろうな」
アショーカも頷く。
「呪詛とは本来自分の大切な物と引き換えに望みを叶えるものです。
これは……老僧は瞳を預けるだけと申してましたが、戻ってくる可能性は低いと考えた方がよいかと……」
「瞳どころか俺はてっきり雪山で死んだものと思っていたのだ。
命があるだけマシだ」
「え? アショーカ様が私達をこの洞窟に運んで下さったのではなかったのですか?」
ラーダグプタは驚いた。
「違う。俺は雪山で力尽きた。
ここに運んだのは、あのじいさんだ」
ラーダグプタが怪しんで老僧を見つめた。
老僧はアショーカ達が目覚めた事に気付いているはずだが、まだ一心にマントラを唱え続けている。
あの小さな老僧のどこにそんなパワーがあったのかと思うほど、マントラはやがて早口になり洞窟全体に反響する大声になってゆく。
空気が濃厚になり異様な気配が漂い始めた。
ピリピリと肌に磁力を感じる。
「なるほど。
さすがはカピラ大聖の弟子を名乗るだけの人物のようです。
妖力の発動。
この力、昔見た妖力使いの比ではない」
やがて老僧が手印を組み替えると、水晶がふわりと浮き上がり湖に転がり落ちた。
凍っているはずの湖面のそこだけが液体に変わり、ゆるゆると湖の真ん中に水晶を導く。
そして真ん中に辿りつくと釣り合いがとれたようにその場でゆっくり回転して安定した。
ぞくりとアショーカとラーダグプタは全身に鳥肌が立つのが分かった。
場が変わった。
呪が成立したのだ。
「ラーダグプタ、もはや片目を失う覚悟をせよ」
アショーカは湖面を見つめたまま呟いた。
「はい。もう引き返す事は出来ないでしょう」
ラーダグプタは頷いた。
「うむ。されどこうなったからには意地でもカピラ大聖には願いを聞き入れて頂く」
二人は決意を新たに湖面で回転する水晶を見つめた。
「目が覚めたようですな、お二方」
老僧は立ち上がり二人の元に来た。
「そなた、あの吹雪の中、我ら二人を担いでここに連れて来たのか?」
まずはどう考えても怪しい老人を問い詰めた。
「ほっほ。まさかでございます。
てっきり死んだと思いますれば、よく見れば目の前に洞窟の入り口がございましたのじゃ。
私めは最後の力をふりしぼり、お二人を引っ張り込みましたのじゃ。
九死に一生を得ましたわい」
どこか人を食ったような言い方だ。
「もう歩けぬと王子におぶってもらいながら、よくそれだけの体力が残っていたものだな」
ラーダグプタが不信感を隠すことも無く畳み掛ける。
「王子様におぶさっておりますれば、僅かに回復したのでございますよ」
「都合のいい体だな」
明らかな不信にも老僧が動じる様子はない。
「ほっほ。それより間もなく湖面がお二方の《大事な瞳》に変わりますのじゃ」
「片目が見えなくなるのか?」
「いいえ。預かった目に異変はございません。
ただその瞳に映る物が湖面に反映するだけですのじゃ。
鬼に水晶さえ奪われねば何の心配もございません」
「ふん。あの真ん中で回る水晶を奪いに来るのか。
七日間守りきればいいのだな」
「はい。簡単な事にございます」
「簡単だな」
きっとそうはいくまいと思いながらアショーカは応じた。
やがてエメラルドの湖面がゆらゆらと色を変え、世界中の色という色を集めたように様々な色に変わり始めた。
発光する色が変わるたび洞窟全体が色づく。
幻想とまやかしの交錯。
美しく、そして、どこか禍々しい。
しばらくその光の遊戯に見とれていたかと思うと、ふっと湖面が落ち着いた。
「?」
二人は湖面を覗き黙り込む。
「何でしょうか? これは?」
白布をかけた台にワインとパンがのっている。
両脇には蜀台が七本、小さな灯をともし揺れている。
いつまでもその映像だけが固定したように映っている。
「これは……ミスラの祭壇のように見えますが……」
ラーダグプタが首を傾げる。
「うむ。確かミトラが部屋の隅にこのような祭壇を作っていたと思うが……」
なぜ湖面にそれが?
二人は首を傾げる。
やがて映像が動き出す。
景色が横に流れ、部屋らしき場所を巡って、扉の方向に向けられる。
「アッサカだ!」
アショーカが叫ぶ。
アッサカが何かを告げ、続いてサヒンダとヴェールの女が現れた。
声は聞こえないが口の動きから大体の内容が想像できる。
女がヴェールを外し、跪き、見上げる。
赤毛にそばかすの浮き出た白い肌。
「これはきっとシェイハンの女官だ。
ミトラの侍女にと名乗り出てきた女だ」
「何故そのような映像がここに……」
「まさか……」
二人は愕然と湖面を見つめた。
次話タイトルは「アロン王子」です




