11 侍女ソル
ミトラは祈りの最中にハッと目を見開いた。
アショーカが旅立ってから二日が過ぎていた。
無事僧院には辿り着いたという連絡はあったらしいが、その先は報告がないらしい。
嫌な予感がじわりとミトラの胸に広がる。
「まさか……アショーカの身になにか……」
あわてて首を振る。
そんなはずはない。
アショーカは必ず帰ると約束したのだ。
あの男は決して約束を破らない。
きっと大丈夫だ。
それなのに……このじわじわと迫り来る不安は何なのだろう。
落ち着かない気持ちで立ち歩くミトラに、アッサカが来客を告げた。
珍しい事にサヒンダだという。
ミトラは緊張して出迎えた。
サヒンダはヴェールを被った女人を伴っていた。
ヴェールはヒンドゥのものだが、その下に見える薄い青の長衣は、ゆったりとしたヒダの取り方がシェイハン特有の仕立てだ。
「突然失礼致します。
アショーカ様が出られてすぐに参るつもりでしたが、政務が忙しく心ならずも今になってしまいました。
申し訳ございません」
嘘も方便。
時間は作ればいくらでもあった。
詫びてはいるがミトラの用などさっさと済ましてしまいたいという邪険さが、あちこちから滲み出ている。
「アショーカ様から聞いておられると思いますが、ミトラ様の侍女に志願してきた女官を連れて参りました。
一応身元など確認をとってはおりますが、顔見知りであれば確実と思いましたので……」
「うん。聞いている」
ミトラは頷いた。
「ソル、ヴェールを外してご挨拶せよ」
サヒンダが命ずると、女人はヴェールを外し、ゆっくりと顔を上げた。
火のような赤毛とシェイハンによくいる白にそばかすが散らばる肌。
十代後半らしい快活な少女の顔が現れた。
女官はミトラの顔を見ると、みるみる涙を浮かべてひざまずいた。
「お目にかかれて光栄でございます、ミトラ様。
私はシェイハンのアロン王子様にお仕えしておりました女官、ソルと申します」
「あ……」
ミトラの脳裏に既視感が募る。
「知っている。
宮殿でアロン王子にお会いした折、見かけた事がある」
ミトラは懐かしさに手を差し出した。
「よくぞご無事で……。
タキシラにおられると聞き、居ても立ってもおられず来てしまいました」
ソルは恭しくミトラの手をとった。
「そなたこそ、よく生きておったな」
「はい。愚かにもアロン王子様の大事に里帰りをしておりました。
あの気高く美しい方を亡くし、むざむざ生き残った我が身を呪う日々でございました」
生き残ってしまった悔恨、それはミトラにもよくわかる。
「アロン王子は素晴らしいお方であった」
唐突に在りし日のアロン王子の姿が克明に脳裏に浮かぶ。
もういないという現実が距離を縮め迫り来る。
いつも兄として見守り続けてくれた、あの美しい人には二度と会えない。
その現実の痛みに心が張り裂ける。
「アロン王子様はいつもミトラ様の事を気にかけておいででした。
神官からあなた様のご様子を聞くのを楽しみになさり、誰よりも愛しておられました」
ミトラの知らないアロン王子の日常が瞼に浮かぶ。
ずっと心の奥に閉じ込めていた氷塊が融けたように涙が溢れる。
「私も愛していた。
あの方がもういないなど……信じたくない……」
ミトラから愛していたなどという言葉が漏れ出た事にサヒンダはぎょっとする。
ここにアショーカ王子がいなくて良かったと胸を撫で下ろした。
「私もですミトラ様。
どうしても信じたくないのです」
二人は手を取り、思い出話に涙を流し続けた。
さめざめと泣き続ける二人の女に、サヒンダはこれ以上付き合いきれないと首を振った。
「どうやらお知り合いだったようですね。
身元が確認出来ればお仕えさせるようアショーカ様より言い付かっております。
どうされますか?
ミトラ様のお望みであれば、今、この時より侍女として働いてもらって構いませんが……。
お好きに決めて下さい」
さっさと決めてくれと言わんばかりのサヒンダの面倒くさそうな態度に、今までアロン王子の回想に涙していたソルが顔をしかめる。
しかし、ミトラはそれに気付かず、二つ返事で了解した。
「ではソル、女官長に伝えておくゆえご挨拶が済んだら女官部屋へ行くように。
私は多忙ゆえ失礼致しますが、念のためアショーカ様が戻られるまでの間は二人きりになられませんよう、アッサカを必ずお傍に控えさせます。
分かったな、アッサカ」
アッサカは「はい」と頭を下げる。
それを見てサヒンダは面倒が済んだとばかり、一秒も長居をしたくないという様子で部屋を辞した。
サヒンダが出るのを待っていたように、ソルはミトラに同情の目を向けた。
「なんて失礼な態度でしょう。
シェイハンの聖大師様に向かってあのような不遜な物言い。
アショーカ王子に囚われていらっしゃるという噂は本当だったのでございますね。
お可哀想なミトラ様」
ミトラは思いがけない話の展開に驚く。
「え? ソル。
あの……確かにこの部屋からの出入りは厳重に監視されてはいるが、それはどちらかと言うと私の身を案じて……」
「ああ、ミトラ様どうか私には本心をおっしゃって下さい。
マガダの恐ろしい王子に脅され、身を切られる思いで我慢してらっしゃるのでございますね」
「いや、ソル、アショーカは確かに恐ろしい所もあるが……」
「ええ。分かっておりますとも。
私はすべて心得ております。
何もおっしゃいますな。
たとえ周り中敵だらけだとしても、私が来たからにはマガダの野蛮人の好きにはさせません。
どうか頼りにして下さいませ」
意気込んで言うソルに、唖然としてミトラはアッサカと目を合わせた。
アッサカも困ったように恐い顔のまま控える。
その様子にソルは何かを悟ったように頷いた。
「そもそもマガダの間者であったこの者を今もミトラ様の従者につけているなど、なんと思慮のない……」
ソルの攻撃は今度はアッサカに向けられた。
「アロン王子はいつも心配しておいででした。
ミトラ様のお側にインドラのような恐ろしい顔の従者がいるが大丈夫かと……」
アッサカは恐縮してインドラ顔を俯ける。
「あの……アッサカのことなら……このように恐い顔はしているが心根は優しく……」
「ああ。ミトラ様。
そう言うように洗脳されておいでですね。
お気の毒に……」
ミトラの弁解など聞く耳はないようだ。
「アショーカ王子。
あの不埒な王子は、あろう事かミトラ様を妻にしようと企んでいるとか。
ご安心下さいませ。
私が来ましたからには決してそのような事、成就させませんわ。
ミトラ様の操を守り通してみせます!」
決意するように宣言するソルに、アッサカは困った侍女が来たものだと百インドラの顔を必死で元に戻す。
「あの……ソル……勘違いしているようだが……」
「ミトラ様!
女官達の間であの王子がどのように言われているかご存知ですか?」
「え……?」
確か素敵だとか雄々しく逞しい美丈夫な王子と憧れられていたはずだが……。
「カーマ・スートラを朝に夕に読み耽る淫乱王子でございます!」
思いつめたソルの発言に、アッサカは苦労して直した顔を一瞬でインドラ顔に戻し、ミトラは首を傾げる。
「カーマ・スートラとは?
聞いた事のない書物だな」
「ま、まあ! そうでございました。
ミトラ様の清らかなお耳に入れていい名ではありませんでしたわ。
それはもう、いやらしい男達が陰でコソコソ読み回す下卑で恥ずかしい書物です。
色情に狂った淫乱な王子だわ!」
「淫乱……。なるほどそんな言葉もあったか……」
納得するミトラに、アッサカは冷や汗を流す。
とんでもない侍女が来てしまった。
「そうでしたわ、ミトラ様。
これを差し上げようと持って参りましたの」
ソルは胸元から綺麗なシルクの布に包んだ、手の平より少し大きな物を取り出した。
「これは?」
ミトラがシルクを開くと、中からは木彫りの美しい額に納まったアロン王子の肖像画が現れた。
アロン王子の美しさを余すところなく描いた傑作だ。
ぼんやりしていた面影がミトラの眼前に、くっきりと在りし日の姿で浮かぶ。
「アロン王子……」
忘れていた思慕が溢れる。
ミトラは思わずその絵を胸に抱いた。
「これを……もらってもいいのか?
そなたにとっても宝物であろう?」
「はい。されどアロン王子様もミトラ様に持って頂いた方が嬉しいはずでございます」
「では、この部屋に飾ろう。
ああ、そうだ鏡台の前に置けば、髪を梳くたびそなたの目にも入ろう」
ミトラはさっそく部屋の一画に設えられた大きな鏡の前の台に飾った。
上半身をしっかり映し込む鏡は、切なそうに絵を見つめるミトラの姿を刻み、ゆるゆると時が流れた。
次話タイトルは「大事な瞳」です




