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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
45/222

10  ヒンドウクシュの老僧② 

 サヒンダに用意させた豹のマントと羊毛のブーツ、それに七日分の食料を背負い、アショーカとラーダグプタは再び洞穴に入った。


 対する老僧は、ぼろ布のような上衣をひっかけただけで、裸足に仙人のような長い杖を一本持っているだけだ。


「そなたその恰好で雪山に入るつもりか?」


「ふん、ワシは長い苦行を積んだ身ですぞ。

 そなたら外界でぬくぬくと暮らす者とは鍛え方が違いますのじゃ」

 老僧の不遜な物言いにラーダグプタが眉間にシワを寄せる。


 先程までもたいがい無礼ではあったが、口調まで砕けてきた。


 しかしアショーカは気にした様子もなく、老僧の頭上を凝視している。


 近くで見ると、そのつるつるの頭に一本だけ太い毛が立っている。

 さっきまでは後ろに流れていたのか気付かなかった。

 それにしても存在感のある毛だなとアショーカは息を吹きかけた。


「な、何をするのじゃ!」

 老僧は慌てて、たった一本の毛を押さえた。


 押さえた時は頭に張り付いた毛だが、手を放すとピンと真っ直ぐ突き立っている。

 アショーカは珍しさに手を伸ばし、その毛を引っ張ってみた。


「ぎゃあああ! やめるのじゃ!

 ワシのたった一本の毛が抜けるではないか!」


「おお、すまぬ。ちゃんと生えているのだな。

 だが全部抜けた方が潔くてかっこいいぞ」


「よ、余計なお世話ですのじゃ。

 この毛に触らんで下され!」

 老僧はひどく狼狽した。


 余程一本の毛に執着しているらしい。

 人には大事な瞳を預けさせておいて理不尽な話だとラーダグプタは心の中で毒づいた。

 

 老僧に案内されるまま、洞穴を進んで行くと、中は思ったよりもずっと深く、奥行きが長い。

 迷路のようにどこまでも続く緩い傾斜の中を何時間も歩いた。


 僅かな光を取り込む穴が辛うじて足元を照らし、すきま風が時折三人の体をひやりと撫ぜていく。

 薄暗がりの道は方向感覚を麻痺させ、そのうち時間さえも分からなくなった。

 ラーダグプタの予想では洞穴で夜を過ごし朝を迎えたはずだ。


「す、少し休憩しませんか?」


 体を鍛えていないラーダグプタにはさすがにきつい。

 寝る事もないまま歩き続けているのだ。

 老人と王子を差し置いて休憩を言い出せずにいたが、もう限界だった。


「なんじゃ、もうバテたのか?

 若いくせに情けないことじゃのう」

 確かに老僧よりは若いが、もう三十も半ばだ。


「ワシは休んでもよいが、そなたら急ぐのではないのか?

 ここから洞穴を出て雪山を登ればすぐじゃがどうする?」


「ここで待つか、ラーダグプタ?

 俺が一人で湖まで行ってもよいぞ」

 アショーカはまだ元気なようだ。

 なんという体力だ。


「いえ、もう少しなら大丈夫です。

 行きましょう」

 ラーダグプタはつくづく文官の自分では不適任であったと後悔していた。


 老僧が言ったように、すぐに崖の出口が現れ、外は猛吹雪の雪山に変わっていた。

 アショーカとラーダグプタは背負っていたマントとブーツを履き、身支度を整えたが、老僧は着替えもなく裸足のまま二人を待っている。


「本当にその恰好でこの雪山に入るのか?」

 アショーカが危ぶんでもう一度尋ねた。


「精神を鍛えれば、肉体は人智を超えるのですじゃ。

 そなたらには分かるまい」


 高飛車に言ってのける老僧にラーダグプタは腹も立ったが見直しもした。

 さすが大聖の弟子だけにこれほどの高齢にも関わらず、この長い道のりに息も切らしていない。

 言うだけの事はあるのだと納得した。


 皮膚を切り裂くような吹雪の中も軽々と飛ぶように登って行く。

 裸足の足は凍りついてもおかしくないはずなのに、鋼のブーツのように雪を踏みしめる。


「おい、じいさん!

 もう少しゆっくり行け。

 ラーダグプタが遅れている」

 アショーカが老僧に声をかける。


 ラーダグプタはすでに息が上がり、豹の毛皮さえも染みとおる冷気と寒さで朦朧とする。


「すみません……」

 文官とはいえ体力はある方だと思っていたが、この二人に比べるべくもない。


「なんじゃ王子よりも先にへばったのか。

 頼りない部下じゃのう」老僧は辛辣だ。


「ラーダグプタは武官ではないからな。

 これほど厳しい雪山とは思わなかった」


「……」


 飄々と答えるアショーカを見て、老僧は怪訝な顔をする。


「そなたはまだピンピンしているようじゃな。

 王子のくせに常人離れした体力じゃな」


「ふん、体力と怪力では誰にも負けん」


「ほう……」

 老僧は何かを考え込んでいる。



 ようやくラーダグプタが二人に追いついて雪山を登り始めると、前を行く老僧が何の前触れもなく突然パタリと倒れた。


「おい! どうした、じいさん!」

 アショーカが駆け寄り抱き起こす。


 ラーダグプタは息を切らしながらも周囲に注意を向ける。

 吹き矢か? 刺客か?


「鬼か?」アショーカも剣の柄を握る。


 しかし吹雪に荒れ狂う雪で視界はほとんどない。

 三歩先すら見えないほどだ。


「心配されるな……王子よ……」

 警戒するアショーカに、腕の中の老僧が弱々しく呟く。


「ちいと苦行に励みすぎて体力が足りんかったようじゃ。

 思えば五日ほども何も食べてなかったのじゃった」


「は?」


 唖然とするアショーカの腕の中で老僧は力なく微笑む。


「ふざけるな!

 こんな所でそなたに倒れられたら全滅だ。

 引き返す道も分からぬのに!

 おいっ! 起きろ!

 たわけた事を申したら、その毛を引っこ抜くぞ!」


「ひいいいいっ!

 それだけはやめて下され。

 足が動かぬだけですのじゃ。

 意識はしっかりしております。

 王子の背におぶって頂ければ、道案内は出来ますのじゃ」


 それを聞いて怒ったのはラーダグプタだった。


「貴様っ!

 さっきは大口を叩いておきながらアショーカ様の背に乗せろだと? 

 冗談もたいがいにしろ!」


「すみませんのじゃ。

 しかし立てぬものは立てぬのじゃ。

 このままではみな凍え死んでしまいます」


「このっ……」

 ラーダグプタは拳を握り締める。


「分かった。

 俺が背負ってやるからしっかり道案内致せ。

 よいな? じいさん」


「アショーカ様!

 王子にそのような事……。

 で、では私がこの者を背負います」

 ラーダグプタが不本意ながら名乗り出た。


「お前はもはや体力の限界だろう。

 俺はまだ余力がある。

 ここは生き残る事が先決だ」

 アショーカはマントを脱ぎ、その背に老僧を乗せると、その上からマントを引っ掛けた。


「なんだ、体が冷え切っておるな、じいさん。

 氷の塊を乗せたようだ」

 そう言って立ち上がろうとしたアショーカは、そのあまりの重さに危うく前かがみに倒れそうになった。


「な、なんだ! この重さはっ!

 鉛を背負ったような重さだぞ!

 どうなっている!」

 辛うじて立ち上がったものの一歩足を出すのもやっとの重みだ。


「大聖様から預かった秘儀のための水晶が重いのでございましょう。

 これが無ければ瞳を預かる秘儀が行えませんのじゃ」


「う……くく……くそっ!」

 アショーカはよろよろと足を出す。


「大丈夫でございますか?

 私がその水晶だけでもお持ちしましょう」

 ラーダグプタが差し出した手を老僧はぺいと振り払った。


「この水晶と杖は大聖様から預かった命より大切な物。

 渡せませんのじゃ!」

 老僧はアショーカの背で水晶と杖をしっかり抱え込んで離さない。


「こ、この……ふざけた事ばかり……」

 ラーダグプタは老人と言えども蹴っ飛ばしてやりたくなった。

 しかしアショーカは、不思議に極限に立たされるほど寛容になる男だった。 

 目的だけに意識が集中するせいで、怒りが遠のくらしい。


「もういい。とにかく先を急ごう。

 湖に着けばいいのだ。

 すぐなのだろう? じいさん」


「はい。もうすぐそこですのじゃ」





 しかし、歩けども歩けども湖は見えて来なかった。


 ……というより視界は真っ白で道があるのかどうかも分からない。

 羊毛のブーツは歩くたび雪に埋まり、吹き荒ぶ雪風が体ごと押し倒そうとする。


「お、おい……じいさん……。

 本当に道が分かっているのか……。

 さっきから同じ所をぐるぐる回っているような気がするのだが……」


 あまりの寒さと重さに時間の感覚がおかしくなっている。

 もう十日ほども歩き続けているような気がする。

 実際には半日ほどかもしれないし、一刻ぐらいかもしれない。

 しかしその道程の過酷さが十日にも一年にも感じさせた。


 老人に言ってやりたい事が山ほどあるはずのラーダグプタも、もはやアショーカに付き従うのが精一杯で口を開く元気もない。


「す、すみ……ませ……ん……。

 アショ……ーカさ……ま……。

 私は……もう……。

 どうか……ここに……捨て置いて……」

 ラーダグプタはそこまで告げて、どうと、その場にくず折れた。


「ラーダグプタ!

 くそ……こんな所に置いていけるか……」

 アショーカは老僧を背負った肩に、くず折れたラーダグプタを引っ張り上げ、ひきずるように前に進む。


「おい……じいさん……。

 まだなのか……」


「もうすぐ。もうすぐですのじゃ」


 声だけは元気そうな老僧は、いつまでたっても温まらない体でアショーカの体温を背からどんどん奪い、ますます重くなっていく気がする。

 さすがのアショーカも朦朧としてきた。

 時折意識が遠のく。


 そして、ついにドサリと雪の中に倒れた。


「く……くそ……」


 精も根も尽き果てた。

 そう思ったアショーカの脳裏にミトラの寂しげな顔が浮かぶ。


 行かないでくれと懇願したあの翠の瞳。


 あの神秘の瞳は、こうなる事を予想してたのかもしれない。


 ふ……と笑顔がこぼれる。


 必ず帰ると約束した。

 あの翠の瞳を裏切る事など出来ない。


 アショーカは気力を振り絞って体を起こす。

 ゆるゆると立ち上がり、一歩を踏み出す。


「ミトラ……。

 お前の元に……必ず……帰る」


 しかし三歩も歩けば雪にくず折れる。


 何度も何度も……。

 倒れては起き上がり、倒れては起き上がり……。


 そして……ついに起き上がらなくなった。



「ミトラ……」



 雪山に小さな呟きが木霊する。


 引きずって背負ったラーダグプタはとうに息絶えている。


 雪に埋まったアショーカの体に更に雪が降り積もり、もはや命の火は


 ……掻き消えた。








 数刻のち……。




 二人の骸の上に出来た小さな雪山がもこりと盛り上がり、小さな体が飛び出した。


「やれやれ……」

 ため息まじりに雪を払う。


「なんという常人離れした体力じゃ。

 危うくこちらが凍え死ぬ所じゃったわ」

 雪の中で凍る褐色の肌を杖でつつく。


「それにしてもこの命への執着。

 物にも肉体にも執着せぬこの者が、なにゆえこうも生に執着するのか……。

 人間とは、こうも愚かな生き物であったかのう……」



 老僧は顎鬚をなぜ、にやりと微笑んだ。


次話タイトルは「侍女ソル」です

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