9 ヒンドウクシュの老僧①
翌日、まだ薄闇の中アショーカはヒンドゥクシュに旅立った。
ミトラの部屋からは見えない北門からこっそり出たらしい。
一部の高級官吏達以外には今回の旅程は知らせていない。
ミトラは部屋に設えた簡易の神棚に向かいアショーカの無事を粛々と祈って見送った。
※ ※
総勢十二人の騎馬部隊は驚くほど身軽で、昼過ぎにはヒンドゥクシュの麓に辿り着いた。
そこから山の中腹までは遠くシリアやエジプトにも繋がる街道として商人達も多く行き来する。
そのため、なだらかに踏み固められた道が容易に導いてくれた。
しかし、途中から道を逸れ山の頂に向かうようになると、一気に道無き道を行く険しい岩山に変わった。
それでもなんとか馬に乗ったまま岩窟に埋まるように建てられた僧院に辿り着いた。
切り立った崖に囲まれた僧院は入り口に繋がる道が一つしかなく、人一人がようやく通れるほどの崖道が吊橋のように伸びていた。
両脇は底の見えない断崖だ。
馬が通るには危険すぎるため、崖山のこちら側に待機したまま、騎士団の一人を取り次ぎに行かせた。
結構な距離があるため、よく見えなかったが、取次ぎ係の呼びかけに小さな人影が出てきて応じているようだ。
やがて二・三の言葉を交わした後、取次ぎの騎士が駆け戻ってきた。
「どうであったか?」
ラーダグプタが尋ねると、騎士は申し訳なさそうに膝をついた。
「取次ぎではなく用のあるご本人がお越し下さるようにとの仰せでございました」
「なんと、無礼にも王子自ら修行僧ごときに取り次げと?」
ラーダグプタが憤る。
「驕り高ぶったバラモンめ!
私が行って参りましょう」
むっとするラーダグプタをアショーカが引き止めた。
「よい。用のある本人とは俺だ。俺が行く」
「しかし……」反論するより早く、もうアショーカは崖の吊り橋に向かっていた。
「では私も参ります」
あわててラーダグプタも付き従った。
肩幅ほどしかない細い道は、少しの風に煽られただけで谷底に吸い込まれそうだ。
ラーダグプタは歩くたびヒヤリとしたが、鍛錬を積んだ王子にはただの道にしか見えぬらしく、ズカズカと突き進んでいく。
あっという間に渡りきり眼前で見上げると、天空に霞むほどの崖が連なる山に、所々円柱の柱が彫られている。
この崖山全体が僧院という事らしい。
霞みがかかったような頂は、白々とした空と溶け合い、どうやら雪に覆われているらしい。
もしもあの頂にカピラ大聖がいるのなら相当厳しい登山となるだろう。
ラーダグプタは覚悟を決めて薄暗がりの洞穴に声を張り上げた。
「取次ぎの修行僧よ、タキシラの太守自らお出ましだ。
出て参られよ」
腕を組んで仁王立ちで待つアショーカの前に、その胸までの身長しかない貧相な老人が現れた。
真っ白な髭が長く垂れて、地面すれすれで揺れている。
しかし頭髪の方はつるつるで、初冬の日差しに血色良く輝いている。
腰から下だけを覆った白布は薄汚れ、裸身の上半身は、あばらが浮き出て、修行の激しさを物語っている。
真っ白の眉からのぞく落ち窪んだ目は、何事にも動じない力強さと敬虔さを備えていて、侮れない雰囲気を醸し出している。
「マガダの王子、そして此度、タキシラの太守となるアショーカと申す。
カピラ大聖にお願いしたき義があって参った。
取次ぎ願おう」
高らかに宣言するアショーカを老僧がゆっくり見上げる。
「王子様と申されますか。
ここにはよくそのような戯言を申される御仁が参れられるが、ほとんどは偽りでございます。
ご本人と信じてよいものかどうか……」
「無礼者! この方が偽者と申すか!
この身なり、控える衛兵達の様子を見れば分かるであろう!」
ラーダグプタが声を荒げる。
「身なりなどどうとも出来ましょう。
それに衛兵と申されますが、あのようなド派手な衣装の衛兵など見た事がございませんな。
しかも、ひいふうみい……たった十人でございますか。
マガダの王子ともあろうお方が異な事でございますな」
「そ、それは……」
確かにアショーカの意向で衛兵の数は少ない。
しかし秘かにこの奥の森には数十人の隠密部隊が控えているはずだ。
「大聖様は大切な修行にお忙しい。
怪しい者に取り次いでしまっては私がお叱りを受けます。
お帰りいただきましょう」
老僧はさっさと踵を返す。
「待たれよ! 老僧」
アショーカは慌てて呼び止める。
ここまで来てむざむざ帰る訳にもいかない。
「そなたが俺を王子と信じられぬならそれも良い。
しょせん王子などという身分は生まれた時より勝手についていたものだ。
俺を示すものではない」
老僧は驚く。
「なんと、生まれの血を否定されるか!
されば高貴な血を持つ大聖様も否定されるのか」
「ああ。大聖がバラモンの血筋であろうがシュードラの血筋であろうがどうでもよい」
「アショーカ様っっ!」
ラーダグプタは青ざめた。
血の純潔を重んじるバラモンに吐いてはいけない言葉だ。
「これはバラモンを敵に回す物言い。
我が大聖の怒りに触れましょうぞ。ああ恐ろしや」
老僧は大仰に震えてみせる。
「俺は大聖が生粋のバラモンの血統だから会いに来たのではない。
その人となりの高潔さ、思慮深さ、智の深淵なる所を尊崇し参ったのだ。
タキシラを平安に治める事を望む者として多くの民の血が無駄に流れぬようお力を貸して戴きたい。
老僧よ、我が言葉、一句洩らさず伝えよ。
それが取り次ぐ者の真職であろう。
そなたの仕事を尽くせ」
「む……これは……」
老僧は圧倒されるようなアショーカの迫力に一瞬たじろぐ。
「お怒りに触れても知りませんぞ!
そなたの言葉そのまま伝えましょうや」
老僧はぷいっと背を向けて洞穴の中に消えていった。
それから半刻ばかり待って、ようやく先程の老僧が現れた。
「大聖は何と申しておられる、老僧よ」
アショーカが尋ねると老僧は不本意な顔で答えた。
「大聖は今、大切な修行の最中にて、あと七の日の間はお会いする事が出来ぬと」
「七の日だと!」
ラーダグプタが顔を顰める。
「されど七日待てば会ってもらえるというのだな」
ぎりぎりだが間に合う。
「はい。しかしもう一つ条件がございます」
「条件だと?」
「あなた様が大聖様の貴重な修行を中断してまでお会いする人物かどうか、七の日の間、大事な物をお預かりして確かめたいとの事でございます」
「大事な物? 剣か? それとも宝飾の類か? そんな物いくらでもくれてやる」
アショーカはにべもなく告げた。
もともと物に対する執着がない男だ。
「いいえ。大聖様がお預かりするはあなた様のその大事な瞳にございます」
「な!」
アショーカもラーダグプタも驚いた。
「瞳だと? 俺様の目を抉り取ると申すか!」
「王子になんと無礼な! 切り捨ててやる!」
ラーダグプタが憤って剣の柄を握る。
「わ、私が申しているのではございません!
大聖様が……。
それにお預かりするだけで納得されればお返し下さいます」
「納得出来なければ返さぬと申すか!」
ラーダグプタは剣を引き抜く。
「待て、ラーダグプタ」
アショーカが引きとめる。
「瞳というのは片方だけでよいのか?」
アショーカの言葉にラーダグプタが青ざめる。
「まさかアショーカ様、本当に目を預けるつもりですか!
おやめ下さい!
これから大きなお役目を背負うあなた様の目を失ったら、皆が困ります」
「なに片目があればそうも困らんだろう。
両目だとさすがに政務に差し支えるが、片目ぐらいなら却って箔がついて良いかもしれぬ」
物どころか自分の肉体にすら人並みな執着が無い事にラーダグプタは驚いた。
しかし老僧は無慈悲に告げる。
「瞳は二つお預かり致します。
お二方から一つずつお預かりするという事も出来ますが」
「ぐ……」
ラーダグプタはこの若い王子よりも我が肉体に執着が深い事に気付いて恥じ入った。
しかしこれが普通の反応だろう。
「悪いがラーダグプタ、片目を借りるぞ。
ここに来たのを不運と思って諦めろ」
他人の肉体にも容赦がない。
ラーダグプタは苦笑した。
とんでもない事を平気で命令する主だが、この王子に言われると、あっさりと諦めがつくのが不思議だ。
「仰せの通りに」
「それではこれより瞳を預けに参ります。
お二方には七の日の間、この僧院の頂にあるエメラルドに輝く神秘なる湖、鬼凍湖にて瞳の見張りをしていただきます」
「見張る? 何から見張るのだ?」
「その名の通り、鬼からでございます」
「鬼だと? 鬼が出るのか?」
「はい。瞳を集めるのが好きな鬼がおります。
きっと奪いに来るでしょう」
「ふん、悪趣味だな。
成敗してやるわ!」
「騎士団を連れて参りましょう」
ラーダグプタは隠密部隊にも秘かな連絡を算段した。
「大変申し訳ございませんが、聖なる地ゆえ、御用の方のみしか入れません。
衛兵の方々には お待ち下さるようにお伝え願います」
「衛兵は来れぬと申すか!」
ラーダグプタは青ざめた。
こんな無茶な話があるか!
「あい分かった」
しかしアショーカは、にべも無く了解してしまった。
「く……」
ラーダグプタは観念する他無かった。
「衛兵に待機を命じに参ります。
それから山頂への防寒具を取ってきますので半刻ほどお時間を下さい」
半刻後に出発を決めて、おそらく相当危険になるであろう旅の準備のため二人は騎士団の元へと一旦戻った。
次話タイトルは「ヒンドウクシュの老僧②」です




