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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
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8  アショーカとミトラ

 夕暮れの室内で、ミトラはふと書物から顔を上げた。


 そろそろ燭台に火を入れないと書物が読みづらくなってきた。

 質のいい羊皮紙に書き記された束は、『カウティリアの実利論』と銘打たれていた。

 まだ編集途中らしく雑多にまとめて綴じられているだけだが、とても興味深い内容で、ヒンドゥの実情がよく理解できる。


 タキシラに入ってから、部屋に閉じ込められたままでも文句も言わず従っていられるのは、シェイハンで手に入らなかった実に多くの書物を与えてくれているからだ。


 もう少し読んだら火を入れてもらおうと、もう一度本に視線を落としたミトラは、突然背中から抱きすくめられ、驚きの余り悲鳴すら出なかった。


「お前は隙だらけだな。

 暗殺者がいればこんな細首、一捻りだ」


 耳元に響く声がアショーカのものだと気付いて、ほっと安心したのもつかの間、別の動揺に心臓が早鐘を打つ。


「あ、明日からヒンドゥクシュへ行くのか?」


 返事の代わりに髪に口づけが降る。

 ミトラは動揺をごまかすように続けた。


「タ、タキシラの反乱鎮圧に向かった時を思い出す。

 そなたはいつも勝手に決めて、勝手に行ってしまう……」


「今度は潜んで来るなよ」

 ミトラの目の前で合わされたアショーカの腕に力が込もる。


「ラーダグプタに直談判したらしいな」

 ミトラの髪に笑う吐息が漏れ伝わる。


「また余計な事をしてと思ってるんだろう」

 ミトラは俯いた。


「そうだな。お前は余計な事ばかりする」


 あっさり認められ、居たたまれなくなる。


「……だが、お前の余計な事は何故かいつも俺を喜ばせる」


 思いがけない言葉に目を見開く。


「もっと余計な事をしてもっと俺を喜ばせろ。

 さすれば俺はお前の為に、どれほど絶望の状況にあっても生きて帰ろうと思える」


 アショーカの腕がぐっとミトラを抱きしめると、ミトラの頬にラピスラズリの耳飾りがシャラシャラと可憐な音をたてて撫でつけた。


 不思議に安らぐ。

 背を向けているせいなのか、警告音も鳴り響かない。


「ア、アショーカは……ラーダグプタと仲良しなんだな」

 仲良しという言い方が十四の少女らしくて可笑しい。


「お前は……憎いのだろうな。

 当然だ。あいつにしては珍しく残忍な事をした」


「私がラーダグプタを教育係にして欲しいと神殿に引き入れた。

 私のせいだ。

 聡明で穏やかな正義の者と思っていたのに」


「正義はあるだろうさ。

 ただ、その正義がお前の正義とかけ離れていただけだ」


 急に広がる孤独がミトラを不安に包む。


「そなたの正義は……どうなのだ?」


 アショーカは少し考え込む。


「どうだかな。

 同じではないだろうな。

 そもそも俺はすでに大勢の民を殺した人殺しだ。

 今もお前に危害を加える者がいれば平気で殺すだろう。

 お前には出来まい」


 恐ろしい言葉がミトラの背筋を凍らす。


「殺生は……嫌いだ……」


「大事な者達を殺したラーダグプタですら殺す事は出来まい。

 だが、俺ならお前を害した者が目の前にいたら、迷いなく殺すな」


 急にアショーカを遠く感じた。

 自分とは根本が違うのだ。


「ミトラ、俺はラーダグプタを腹の黒い信用出来ないやつだとは思っている」

「では……なぜ……?」


「しかし一方で国や民のために迷いなく大義を成し遂げようとする、その信念を信頼している。

 その一点が繋がっている限り、あいつは俺の敵ではない」


「国や民を思う心……」

 シェイハンの王族を殺す事がヒンドゥの、ひいてはその民達のためになると、信じていたという事か……。


「俺があいつの望むような国創りに必要な人材である限り、あいつは俺に牙を剥く事はない。

 だから心配するな。

 スシーマ兄上が任命式に来るまでには戻る」


「しかし……スシーマ殿は本当にそなたを太守に任命してくれるだろうか?

 ビンドゥサーラ王と結託してそなたの太守就任を邪魔するかもしれぬ」


「それもラーダグプタと同じだ」


「え?」


「ラーダグプタもスシーマ兄上も味方でなくとも信頼しているのは、あの者達が国と民のために権力を行使する者達だからだ」


 どういう意味かミトラにはピンとこない。


「兄上が何故十万もの大軍を率いてタキシラに来たのか分かるか?」


「それは確実に勝つため……」


「もちろんそうだが、一都市タキシラの反乱など二万もあれば充分だ。

 それを敢えて巨費を投じて十万も出したのは、あいつも俺と同じ無血開城を願っていたからだ。

 圧倒的な戦力の違いを見せ付けて、戦う気力さえ失わせようとしたのだ」


 そういえばスシーマ王子は争いは嫌いだと言っていた。


「そして……ラーダグプタを残していったのも、わざとだな」


「わざと?」


「俺は太守になれば、どう治めるか、おおよその筋書きは考えていた。

 しかし俺と側近達だけでは、こうもスムーズに治める事は出来なかったはずだ。

 最高顧問官として国を動かしているラーダグプタの知恵と権力がなければ、もっと困難であったに違いない。

 兄上は俺が一刻も早くタキシラを平定する事が出来るようにラーダグプタを置いていったのだ」


 では……スシーマ殿は……。


「兄上はもちろん力をつける俺を警戒してはいる。

 だが、それ以上に次代の王としてタキシラの民の平安を願っている。

 今回の事で兄上の底の深さを思い知った。 

 だから渋る王を説得して必ず俺の太守任命を下しにやってくる。

 兄上とはそういう男だ」


 タキシラを手にして、アショーカはスシーマに勝ったという思いより、敗北感の方が強い。


 器の違いを見せ付けられたような気がする。


 そしてもっと器の違いを実感しているのはミトラだった。

 アショーカの思いも、スシーマ、ラーダグプタの思いにも自分は全く気付かなかった。 

 シェイハンの行く末もアショーカに委ねきってしまっている。

 焦りを感じる。

 国を治める者として自分は余りに浅はかだ。


 その焦りに気付いたようにアショーカは腕に力を込める。


「焦らずともよい。

 ゆっくり歩いて来い。待っててやる」


 尊大なのに温かい……。

 この心地よさにミトラは惹かれるのだ。


「そういえばシェイハンの宮殿に仕えていた者がそなたの侍女に志願してきたらしい」

「シェイハンの?」


「ああ。知り合いであればいいのだがな。

 お前は心を許して話せる相手がいないからヒジムに何でもかんでもしゃべるのであろう。

 言っておくがな、ヒジムに色恋の相談など絶対するな。

 あいつは任務に関しては口が固いが、それ以外は驚くほど口が軽いからな」


 ミトラはぎょっとしてから青ざめた。


「あの……まさか……アショーカ……」


 何か色々大変な事を口走ってしまったような気がする。

 思い出して真っ赤になった。

 その様子に気付いてアショーカは微笑んだ。


「お前が俺より四つも年下だという事を忘れていた。

 全部焦らない事にした。

 お前は自分のペースでゆっくり歩いてこい。

 待っててやる」


「アショーカ……」


「とりあえず明日からしばらく会えないが、あまりサヒンダを困らせぬようにな」

 サヒンダの名を聞いてミトラは気が重くなった。


「この間のようにヴェールもつけずに宮殿を歩き回るのはやめてくれ。

 お蔭で新太守は南の塔に月の女神を囲っているらしいと噂になっておるぞ」


「す、すまない……」

 ヴェールをつける習慣がないミトラはすぐに忘れてしまう。


「明日の夜明け前には発つゆえ、これが別れの挨拶となるが、帰って来たら太守任命式も控えている。

 お披露目パレードにはそなたも連れて行ってやろう。

 タキシラの大通りを大仰な行列で行進する。

 盛大だぞ。楽しみにしておれ」


「や、約束だぞ。絶対に無事に帰ってきてくれ」


「ああ。必ずお前の元に帰る」

 最後にもう一度髪にキスを落としてアショーカはあっという間に部屋を後にした。


 ミトラが振り返った時には薄闇の中で扉を出るアショーカの背中が一瞬見えただけだった。


 いつも突然やってきて急に行ってしまう。


 実際にはもう少しミトラと過ごしたかったアショーカだったが、チラチラと扉ごしに様子を覗う側近達の姿に急かされ、仕方なく出てきたのだ。


 乱心騒ぎを起こさず出てきたアショーカにトムデクはほっとして、ヒジムはがっかりし、サヒンダは辛辣な言葉をかけた。


「ちょっと顔を見て来ると言って、中々出てらっしゃらないので心配しました。

 不埒な事をされなくてほっとしました」

 悪びれた風もなくズケズケ言う。


「バカを申すな。俺を何だと思っておるか」

「チャンスがあれば節度を失う破廉恥王子かと……」

「ふん。それほど愚かではないわ。

 ミトラには長期戦でいく事にした」


 どちらにせよ面倒な事だとサヒンダは心の中でため息をついた。


次話タイトルは「ヒンドウクシュの老僧①」です

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