7 側近ヒジム
「ミトラってさ、訳わかんないよね」
突然言われて、ミトラは鏡ごしにヒジムを見た。
長い黒髪を頭の上で束ねたヒジムはエキゾチックな美女にしか見えないが、服装は太守側近の高級武官の装いで、男装の麗人を更に小悪魔にしたような雰囲気がある。
まだ信頼出来る女官のつかないミトラに、ヒジムは時折すすんで髪を結う手伝いをしにやってくる。
ミトラの真っ直ぐな月色の髪は、ヒジムの美的想像力を掻き立て、本当はもっと煌びやかに色とりどり、宝石を散らして飾り立てたいのだが、拒絶され仕方なく左右で編みこむ程度にとどめている。
「どう訳がわからないのだ?」
本当はアショーカの世話係りをしたかった女官達はミトラにそっけなく、今一番の話し相手は、もっぱらこのヒジムだった。
「だってさ、大嫌いなラーダグプタに直談判するぐらいアショーカの身が心配なくせにさ、結婚も子作りの儀式もキスすら嫌なんだろ?
訳わかんないよ」
「またその話か。
どうしてみんなそんなに私とアショーカを結婚させたがるのだ。その方が訳がわからぬ」
ミトラはため息をつく。
「だってアショーカの側にいたいんでしょ?
だったら結婚するのが一番でしょ」
ヒジムはミトラのサラサラの髪と奮闘しながら器用に編みこんでいく。
「私は今のまま側にいられたらいい。
結婚などという儀式を行ってミスラの神やスシーマ殿達と敵対させたくないのだ。
その所為で命を狙われたり、神罰が下る方が心配だ」
「じゃあ儀式をしないとしてさ、子作りやキスは何でダメなのさ?」
「……」
急に黙り込んだミトラは、鏡の中で真っ赤になっていた。
「ヒジム……誰にも言わないでくれるか?」
本当は、この、自分の手に負えない感情の波風を誰かに相談したくて仕方なかった。
アッサカにチラリと話した事はあるが、この手の話が苦手なアッサカは、すぐに阿修羅のような顔で固まってしまうのだ。
ヒジムは野次馬心が騒いで、待ってましたと身を乗り出した。
「もちろんだよ。
誰にも言うはずないじゃん。なになに?」
「心の半分で……わ、私は……不謹慎にもアショーカの胸に顔をうずめて……、だ、抱きしめられたいと……望んでしまう事がある。
あのアショーカの周りの女官達のように……」
意外なミトラの告白にヒジムは驚いた。
このネンネの巫女姫にそんな激情が芽生えているとは気付かなかった。
アショーカが聞いたら有頂天になって一昼夜抱きしめて離さない事だろう。
「それなら何故……?」
「心のもう半分が絶対ダメだと責め立てる。
私の中に裁きの神ハデスがいて、戒告と懲戒を携えて目を光らせている。
アショーカに見つめられると、二つの心がせめぎ合い、体が引き裂かれそうになる。
怖くて怖くて体が震え、涙が溢れる。
他の女達はこんな風にならないのか?」
「そりゃあ……少しはそんなせめぎ合いはあるのかもしれないけど……。
望む相手にそこまで怖がるのはちょっと珍しいかもね」
生粋の女でないヒジムには分からない事なのかもしれない。
「でもさ側にいるだけでいいって言っててさ、アショーカが他の女と仲良くしても平気なの?
ここではアショーカってモテるみたいだしさ。
女癖の悪いアショーカの事だもん。
そのうちミトラの代わりにあちこちの女を抱きしめる事になるかもよ」
ミトラはしょんぼりとうな垂れた。
「それが嫉妬というものなのだろう?
少し……分かるようになった……」
ため息をつくミトラを見て、ヒジムは決心を固めた。
「分かったよ、ミトラ。僕に任せて!
僕もアショーカが女官にモテるのって何か癪に障るんだよね。
ミトラのために余計な虫が寄って来ないようにしてあげるよ」
「え? ヒジム、私はそんなつもりは……」
「いいっていいって。僕に任せて」
何かを企むヒジムにミトラは嫌な予感がしたが、もはや聞く耳は持たないらしかった。
※ ※
「ヒンドゥクシュの山の上は年中雪が積もり、凍えるような寒さだそうです。
豹の毛皮と羊の毛を詰めたブーツを用意させましょう」
アショーカとサヒンダは騎士団の集まる庁舎から太守の宮殿に向かって足早に歩いていた。
数日後のヒンドゥクシュ行きに向けて、やる事がまだ山積みだった。
「そうだな。魔物など怖くはないが、寒さには抗いようがないからな。
ラーダグプタと騎士団達にも用意してやれ」
警護の騎士団を引き連れた二人の姿を見止めると、通りがかった衛兵や従者達が片膝を立て胸に右手を当て頭を下げた。
「かしこまりました。
それから、お留守の間の政務についてですが、宮殿内の衛兵と従者達の再編について進めておいてよろしいでしょうか?
暗殺の危険を回避するためにも、出来れば私が一人一人面談し、素性を確認したいのですが」
アショーカが留守で大きな事案を進められない今だから、いいチャンスだとサヒンダは考えていた。
「そうだな。あの色目を使う女官達を何とかしてくれ。
それからミトラに信頼出来る女の従者を見つけて欲しい。
先日もラーダグプタの所へ行こうとするミトラを誰も止められなかったらしい。
アッサカは腕は立つが、ミトラに触れる事も出来ぬ男だからな。
身を挺して止める事の出来る者がいないのだ」
足の速い二人の周りの景色は飛ぶように過ぎ去って行く。
菩提樹が木陰を作る小道を通って兵舎を抜け、従者の暮らす棟を横切ると一階が調理室になっているため、早くも夕餉のご馳走のいい香りが漂っている。
「その事でしたら丁度志願者が現れまして、この後、面接する事になっております」
「志願者?」
「何でもシェイハンの王宮に仕えていたらしく、あの惨事の折はちょうど国に里帰りしていて難を逃れたようでございます。
是非にもミトラ様にお仕えしたいと申し出て参りました」
「素性をしっかり確かめるのだぞ。
命を狙う暗殺者かもしれん」
「はい。ミトラ様がご存知であれば話は早いのですが……。
もし素性の確認が取れましたなら、早速つけてもよろしいでしょうか?」
「うむ。そなたに任せる」
アショーカが了承した所で、突然きゃあ! という女達の声が聞こえて二人は目を合わせた。
女官が暮らす棟から聞こえているらしい。
きゃあきゃあ騒いでいるが緊急性は感じない。
二人は無駄話に興じているだけかと通り過ぎようとして、聞き慣れた声に気付き、もう一度顔を見合わせた。
調理室の隣りは女官の控え室になっているらしく、そこから大勢の話し声が聞こえてくる。
風に乗ってアショーカという言葉が耳に届き、怪訝な顔で二人は窓際に耳を寄せた。
「きゃあああ! 本当ですの?」
「ヒジム様ったらお戯れをおっしゃらないで下さいまし」
やっぱりヒジムかと二人は頷く。
「本当だったら。
アショーカは今は紳士ぶってすましてるけどさ、パータリプトラではそれはもう女癖が悪くてさ、あの年で妻が三人子供が三人いるんだよ」
「まあ、その噂はやっぱり本当ですのね」
「あんなに素敵なんですもの。
やっぱりおモテになるのですね」
「えー全然だよ。
向こうでは皇太子のスシーマ王子が断然人気が高かったからね」
「まあ! あのアショーカ様より素敵ですの?
お会いしてみたいわ」
「もうすぐ太守任命式に来るから楽しみにしてるといいよ」
「あら、でも私はやっぱりアショーカ様がいいわ。
あの逞しいお体。自信に溢れた物言い。
どれも胸が高鳴りますわ」
「やめた方がいいって。
女心なんて、これっぽっちも分からない無骨な男なんだから」
「そこがいいんじゃないですか」
「この間もミトラに無理矢理キスしようとして乱心騒ぎになったしさ」
「まああ! 私も強引にキスされてみたいわ」
「その前にはミトラに服を脱げって命令して泣かせた事もあるんだよ」
「きゃあああ!」
ヒジムの暴露話に女官達が悲鳴を上げて騒いでいる。
サヒンダは青ざめた顔でアショーカの顔をチラリと覗き見た。
すでに、人間だった面影も残さぬ悪鬼の形相で、真っ赤になっている。
今にも突入してヒジムを成敗しそうな様子に、さすがにまずいと感じた。
「アショーカ様、落ち着いて下さい。
ヒジムにも何か考えがあってのことと……」
「みんなカーマ・スートラって知ってる?」
外の様子など知らず、ヒジムは更に続ける。
「きゃああ!
それって幻の愛の教科書ではございませんの?」
「秘かに読まれているとは聞いておりますが……」
「いやあ。あなたったらそんないやらしい本をご存知なの?
はしたない」
「読んだ事はなくてよ。失礼ね」
「アショーカは全巻持ってて、読破してるんだよ。
今も朝に夕に研究を重ねてさ……」
「きゃあああ! アショーカ様ったら……」
「あんな爽やかな風貌ですのに……」
「いやですわ。なんだかショック……」
「!!!」
ついにアショーカの我慢も限界がきた。
「アショーカ様! どうかお気を確かに……」
サヒンダが止めるのも聞かず、ずかずかと入り口に向かうと、ドカンッッ! とドアを蹴り飛ばした。
突然の破壊音に部屋にいた女官達が悲鳴を上げて入り口を見た。
「ア、アショーカ……?」
十人ほどもいる女官の真ん中で、椅子に座っていたヒジムは、アショーカの乱入にさすがに青ざめた。
「ヒジム――っ! そこになおれい!
そのおしゃべりな首を切り落としてやる――っっ!」
言うが早いか剣を抜きヒジムに飛び掛る。
女官達の悲鳴と同時にヒジムはすかさず剣を抜き受け止める。
「ま、待って、待ってアショーカ!」
ヒジムの懇願にも関わらず、アショーカの剣が次々繰り出される。
辛うじて受け止めるヒジムは部屋中を逃げ回り、悲鳴を上げる女官たちを避けるように、部屋から外へ転げ出た。
「何のつもりだっ!
戯言ばかり申しおって!」
狭い小道を剣を受け止めながら後ずさる。
「戯言じゃないよ。全部本当じゃないか」
「む……」
痛い所を突かれアショーカは一瞬怯む。
「カーマ・スートラを朝に夕に読んでなどおらぬわ!
それほどヒマではない!」
「でも全巻持ってるのは本当じゃないか」
「そ、それはソグドが仕入れてきて……。
いや、そんな事はどうでも良い!
お前はいつから俺様を陥れる側に回ったのだ! 申せ!」
ぐいっと重ねた剣に力を込める。
剣捌きはうまいヒジムだが、力勝負になるとアショーカの比ではない。
徐々に体勢を崩し、眼前にアショーカの剣が迫る。
「ごめんったら。
ミトラのためだと思ったんだよ。許してよ」
「ミトラの?」
アショーカは思いがけない名前を聞いて力を緩めた。
「ミトラがこんな事を言えと言ったのか?」
「言わないよ。
ただ不安そうにしてたからさ。
アショーカがモテると嫉妬するんだってさ」
「ミトラが俺に嫉妬?」
アショーカは一気に怒りを沈め剣を収めた。
「苦し紛れの言い訳ではないだろうな」
アショーカは信じられないという顔でヒジムを睨んだ。
「嘘じゃないよ。
アショーカに抱きしめられたいって思う事もあるんだってさ。
でも同時に怖くて逃げたくなるんだってさ」
ヒジムは危機を逃れ、ほっと息をついた。
誰にも言うなというミトラの言葉は、右から左に抜け出ていた。
色事の内緒話に関しては、ヒジムの口は水鳥の羽より軽いとはミトラはまだ知らなかった。
すっかり機嫌を直し、いらぬ事を考え込んでいる様子のアショーカに、サヒンダは破廉恥が出かかっているぞと心の中で毒づいた。
そしてもう一人、そばかすだらけの白い肌に、肩までの赤毛の女が険しい顔でその様子を見ている事には誰も気付いてはいなかった。
次話タイトルは「アショーカとミトラ」です




