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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
40/222

5  衛兵隊長イスラーフィル

「ミトラ様?」


 太守棟から北の棟へ続く一階の廊下で、イスラーフィルは思いがけない姿を見止めて驚いた。


 太守棟を挟んで反対側の南の棟の最上階を居室にしていたはずだ。

 こんな所に用があるはずもなく、アショーカ王子が南棟に囲って誰にも会わさず厳重に警備をつけているという噂だった。


 現にアショーカ王子がこの宮殿に入って以来、イスラーフィルは一度も会っていない。


 それなのに今ヴェールさえも付けず、月色の髪をなびかせて前方から闊歩してくる姿は、明らかに尋常ではない。


 案の定、アッサカと騎士団数人が何とか引きとめようと周りを取り囲んでいる。

 しかし主君の寵愛深い姫君の御身に触れる事の出来ない衛兵達は成すすべもなく、追いかける事しか出来ないようだ。


「ミトラ様! どこに行かれるのですか?」

 イスラーフィルは仕方なく割って入り、ミトラの腕を掴んだ。


「イスラーフィル?

 ちょうど良かった。

 ラーダグプタの所へ案内してくれ。

 用がある」

 ミトラは久しぶりの顔に少し驚いたようだが、それ以上に急いでいるらしい。


「ラーダグプタ殿? なにゆえあの方に?」

 イスラーフィルは眉をひそめる。

「アショーカ様に許可を得ていますか?

 あの方がミトラ様単独でラーダグプタ殿に会わせるとは思えませんが」


「なぜアショーカの許可がいるのだ!

 私は自分の意志で会いたい者と会う!」


「とにかくまずはヴェールを付けて落ち着いて下さい。

 目立っております」


 廊下を過ぎ行く武官や従者達が珍しい容姿の姫に、みな立ち止まって見ている。

 それでなくともヒンドゥの女は人前で素肌を晒す事を嫌う。

 まして高貴な女の素顔を拝める事など滅多にないのだ。


「あれはまさかシェイハンの……」

「新太守様がご執心と言われている巫女姫様では……。

 なんとお美しい……」

「月色の髪というのは本当なのですね……」


 野次馬達がコソコソ話す声が聞こえる。


 イスラーフィルは騎士団の一人が手にしていたヴェールを奪い取り、ミトラの頭からすっぽり被せた。


「お部屋にお戻り頂きます。

 私がお供致しましょう」

 そのまま腕を引いて元の道へ引き返す。

 アッサカと騎士団は救世主にほっとした。


「何をする! 私はラーダグプタの所へ……」

 暴れるミトラを否応なく引きずっていく。


 ミトラにこんな事が出来るのはアショーカと側近と、このイスラーフィルぐらいなのだ。


「御用がおありなら私がアショーカ様に伺いをたて、私もご一緒に会見致しましょう。

 ここはタキシラの太守の宮殿です。

 アショーカ様の御意志に従うのが道理でしょう。

 シェイハンの名を穢す行動はお慎み下さい」


 シェイハンの名を出されるとミトラは大人しく従う他なかった。

 イスラーフィルに小言を言われるのも久しぶりだ。

 立場は変わっても以前と変わらぬ態度に少しほっとする。




 ミトラの居室に戻ると、イスラーフィルは片膝をつき無礼を詫びた。


「手荒なマネを致しました。

 罰はお受け致します。

 思し召しのままに……」


「そなたに咎はない。分かってるくせに」

 ミトラはぷっと膨れたままヴェールを外した。


 そんなミトラをイスラーフィルは微笑ましい顔で見上げた。


「そのふくれっ面を見るのも久しぶりでございます」

 思わず破顔した。


 ミトラは更に膨れた。

 そばに控えるアッサカも目付きは悪いが微笑しているらしい。


「以前お会いした時よりもお顔の色も良くなったようで安心致しました」

 温かい眼差しにミトラはずっと会って言いたいと思っていた事を思い出した。


「衛兵隊長になったらしいな。

 忙しそうな様子は聞いていた。

 一度ゆっくり話したいと思っていたが多忙だろうと遠慮していた」


「ミトラ様にお呼びたて頂ければ、どんな大事も放って飛んで来ましたものを」

 どんなに会いたくてもイスラーフィルの方から謁見を願い出る事など出来る立場ではない。


「私の事など……大事より優先しなくて良い」


 イスラーフィルが優しいと、いろんな複雑な思いが交錯して涙が溢れそうになる。


「ちゃんとお礼も言ってなかった。

 そなたはこんな私を助けるために反乱の狼煙をあげ、命を賭して戦ってくれた。

 ありがとう」


 自分を見下ろす翠の瞳にイスラーフィルは愛おしさが込み上げた。

 すべてはこの翠の双玉にもう一度見つめられるため。

 それだけがすべてだったのだと改めて思い知る。


「それなのに私はそなたを信じられずラーダグプタの策略に嵌ってしまった。

 すまない」


 悔恨に翳るその憂い。

 それすらも愛おしくてたまらない。


 もう、一生波立たないと思っていた胸中の水面が、こうも激しく揺さぶられる事に秘かに驚き、歓び、そして……悲しんだ。


「いいえ。

 私がもっと早くあの者の陰謀に気付いていれば、誰も死なずにすんだのです」


 その寂しげな心に聖大師様の面影が浮かんだ事にミトラは気付いていた。


 イスラーフィルは聖大師様を愛していた。

 何も望まず、ただ愛していたのだと今のミトラにはわかる。


「私はたった一度だけ、ミスラ神の妻になられた後の聖大師様に会った事があるのです」


「聖大師様に?」


「まだ私が二十代の最初、聖大師様もミスラの妻になられたばかりの頃です。

 慣れぬ事ばかりで神殿に閉じ込められ、こっそり夜気にあたられに出たのでしょう。

 華奢な体からは後光が差し、あの翠の目、その魅惑と恍惚の輝きに、私は女神を見た感激に打ち震えました」


 そうだ。

 あの翠の目。


 同じ瞳の色を持つミトラでさえ直視すれば我を失うような畏怖と清らかさを放つあの瞳。


「シリア王、セレウコス様の近衛兵としてシェイハンを訪れていた私は、国に帰ってからもその瞳を忘れられず、すべてを捨てて戻ってきてしまいました」

 

 僅かに言葉を交わしただけ。

 ほんの刹那の出来事がその後の自分の人生を決定付けてしまうとは思いもしなかった。

 あの尊い方をどうこうしようと思った訳ではない。

 ただ生涯見る事が叶わずとも、側にいてお守りしたかった。

 その為にシリア王の近衛武官という、武官なら誰でも憧れる地位さえ捨ててしまった。

 我ながら愚かな事だろうと思う。


「後悔しているのか?」


 ミトラの問いにイスラーフィルは意外なほど迷いはなかった。


「いいえ、少しも」


 誤算だったのは聖大師様が亡くなれば、この想いも消え去るのだと思っていた事だ。


「ただシリアにいたミスラの信徒達の間で秘かに囁かれていた噂を思い出しました」


「噂?」


「《翠の呪》とみなは呼んでいました。

 セレウコス様やアレキサンドロス大王がその呪縛に嵌ってしまったと囁かれていました」


「前聖大師様の神通力で戦を回避したとは聞いているが……」


 当時は何の事か分からなかったが、おそらくはこういう事なのだろうと、イスラーフィルは我が身を顧みる。


 その源の聖大師様が亡くなっても呪は続く。

 次代の翠の瞳へと……。


 この瞳に映る恍惚のためなら反乱を起こし、すべてを失う事も厭わない。

 決して成就せぬ想い。

 それでも後悔しないほどの恍惚。


 この瞳の為に、イスラーフィルは自分の持つすべてを捧げる以外選択肢はないのだ。


「翠の呪……何の事であろうか?

 私は聖大師様の神通力については何も知らないのだ。

 すべては七つの秘儀を執り行なうマギ大官のみが知っていたらしいが、あの火事で全員死んでしまった」


 ミトラはこの信頼出来る武官にだけは正直に言ってしまおうと思った。


「そなたにだけ本当の事を言うが、私は何の力もない。

 聖大師となる立場になっても、神読みの力が芽生える兆しもないのだ」


 おそるおそる告げるミトラに、イスラーフィルは穏やかに微笑んだ。


 分かっている。

 イスラーフィルにもそれは分かっていた。


「がっかりさせてすまぬ……」


 がっかりなどしてはいない。

 この姫は知らないだけなのだ。

 自分の力を。


 その証拠に自分の心はこれほどその瞳に囚われてしまっている。

 この姫は生涯気付かないだろう。

 自分が今も亡くなった聖大師様を想い続けていると信じている。

 しかし、イスラーフィルはそれでいいと思っていた。

 何も望みはしないのだ。

 ただ同じ空の下でその瞳が息づいていれば。

 たまにこうして、その瞳に映る事が出来るのであれば、この命を捧げて悔いはない。


 ……だが、あの聡い男はどうであろうか?


 おそらく自分と同じ《翠の呪》に罹ってしまっているだろう、あの男……。 

 まして一度はその瞳を我が物にした男。

 きっとその呪がこの姫に継がれている事に充分気付いているはずだ。


 それに気付いた時、あの男は何を思い、何を企むのか……。


 そして最大の疑問。


 本当にシェイハンの神殿に火をかけたのはあの男なのか?

 本当にあの清らかな翠の瞳を失うようなマネが出来たのか?

 自分には出来ない。

 この瞳を失うぐらいなら自死を選ぶ。


 一度会って問い正してみたかった。




次話タイトルは「最高顧問官ラーダグプタ」です

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