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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第一章 出会い編
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4、従者 レオン

 部屋をさがると、ミトラは女官を一人扉前に残して、ブドウの汁で染まった髪を、軽く水で流そうと屋外に出た。


 ついでに少し頭を冷やしたかった。


 すっかり日の暮れた中庭には、菩提樹の伸びた枝葉に闇が降り注ぐ。

 その暗黒の闇夜に、突如、凶悪な形相が浮かび上がって「わああ!」と悲鳴を上げた。


「びっくりするじゃないかレオン!

 まさかあれからずっとここにいたのか?」


 導師が扉前をうろうろしていると言っていたのは、もう一刻も前だ。


「休憩を頂いたから出てきたが、普通なら朝まで聖大師様のお世話で出てこないのだぞ。」


 目の大きさの割りに小さな黒目は、三白眼どころか瞼に接する事なく浮かんでいる。


「顔が恐いぞ。

 今は聖大師様のお世話中だ。今日は食べないからレオンが食べよ」


 レオンは無言のまま、闇夜に光線を放つ白い目で、食事の盆をぐいと差し出した。


「レオン、普段の強面が一レオンとすれば、そなた今、十レオンぐらい恐い顔になってるぞ」


 エジプトの記数法は位ごとに違う絵で表す。

 例えば一の位は棒、十の位は縄、百の位は葉っぱで表すと、三百二十一は葉っぱ三つに、縄二つ、棒一つで描く事になる。


 算術の出来ないミトラのために導師が教えた数学は、無駄な表現力だけを培い、肝心の計算術に反映される事はなかった。


 十レオンがどれぐらい恐ろしい顔なのかはミトラにしか分からないが、従順なレオンは指摘を受けるたび、一レオンに戻そうと努力して、余計に恐い顔になる。


 今から五年前ヒンドゥから奴隷として売られてきたレオンは、ゴミくずのように蹴り転がされて競りにかけられ、たまたま町を巡行していたミトラが、それを見かねて買い取ると言い張った。

 しかし、死にかけていた奴隷は、やがて体力を回復すると、驚くほどの高い運動能力を発揮するようになった。

 そして今ではミトラの身辺を警護する従者として仕えている。


 固そうな黒髪を無造作に後ろで束ね、浅焼けて惚れ惚れするほど均整のとれた体躯の従者は、最初は片言ぐらいは話していた。

 しかし、異国の言葉を覚える気がないのか、いつからか単語すらも話さなくなってしまった。


 努力の成果のないまま十レオンの顔で食事を差し出され、ミトラは大きなため息をついた。


「わかった。じゃあチャパティを一切れ頂く。それでいいだろう?」


 ミトラは月明かりの差し込む井戸脇の石垣に腰を下ろすと、すっかり冷めて硬くなった薄餅をつまんでパクリと頬張った。


 千の目を持つ雷神インドラの化身だと神官達が噂するレオンは、視線だけで焼き滅ぼしそうな眼光のまま、盆の食事を更に突き出した。


 二十レオンに進化している。


「もう少し可愛い顔は出来ぬのかレオン。

 あまり時間がないのだ。

 もう聖大師様の所に戻らなければ。

 もっと食べて欲しいならそなたが髪についたブドウの汁を拭き取ってくれ」


 ミトラがいたずらっぽい視線を向けると、レオンはインドラの目を、中心に凝縮したように真ん丸くしてから、一回転して飛んでいきそうなほど首を左右に振り回した。


「拭いてくれないのか?

 じゃあ仕方ないな。

 チーズと果物も食べたかったのに。

 レオンが拭いてくれたら、その間にゆっくり食事が出来たのにな。

 本当に残念だ」


 ミトラは心底がっかりしたように言ってから、チラリとレオンの褐色の顔を覗き見た。


 レオンは生真面目に青ざめた顔で盆のチーズと果物を見てから、ミトラの紫に染まった髪を見ると、耳の先まで真っ赤になって、もう一度大きく首を左右に振った。


「こんなに言ってるのに拭いてくれないのか?

 レオンは意地悪だな」


 悲しげに翠の瞳を伏せるミトラを見て、レオンは落ち着かない様子で視線を泳がせた。


「意地悪はあんただ。

 つべこべ言うならその口にぶどうの房ごとねじ込んでワインを作るぞ!」


「え?」


 ミトラはぎょっとして、突然暴言を吐くレオンを見つめた。


「……とレオンが申しております」


 背後の闇から代弁する導師に気付いて、レオンは自分じゃないと、更に首を振り回した。


「導師殿!」


 睨むミトラに、ほほほと導師はいつもの調子で笑い声をたてる。


「私が拭いて差し上げましょう。

 ミトラ様はその間にお食事を済ませて下さい」

「もう少しでレオンに拭かせる事が出来たのに、邪魔しないでくれ!」


 ぷっとふくれっ面をしたミトラは、年齢よりも幾分幼く見える。


「我が愛しの女神様に、ただびとの私が触れたり出来ません。

 ……とレオンが申しております」


 レオンは、五十レオンに跳ね上がった顔を真っ赤にしてうつむく。


「女神なんかじゃない。

 私は意地悪で神様にすら毒を吐くようなあばずれ女だ。

 二人が一番よく知ってるじゃないか」


 レオンが首を振る横で、導師はまたしても吹き出した。


「ほほほ、あばずれ女ですか?

 また村娘達にいらぬ言葉を教わってきたようですね。

 これだからミトラ様には余計な知恵を授けられないのです」

「どうしてだ!

 知恵は武力よりも大切だと導師殿はいつも言ってるではないか!

 レオン、そなたは知ってるか?

 結婚したら子を宿す儀式があるらしい。

 結婚すれば自然に分かるものだと村娘達も誰も教えてくれない。

 神様に嫁ぐ私にも分かるのだろうか?

 でも結婚しても分からなくて神様に失礼になってしまわないだろうか?

 ちゃんと勉強しておいた方がいいと思うのだ。

 そう思うだろう? ん? どうしたのだ?

 レオン、大丈夫か?」


 思わぬ話題を問い詰められたレオンは、百レオンを越えて固まってしまっている。


「そうか……。

 レオンも結婚してないから知らないのだな。

 そなたも知りたいだろう。

 そうだ。私と一度練習しておくか」


 もはや女神から賜る言葉の許容範囲を越え、レオンは五感の働きを捨て、石になったらしい。


 そのレオンの様子に導師はまた笑い出した。

「ほほほ勘弁してあげて下さいミトラ様。

 これ以上問い詰めると、黒豹の武官と噂されるレオンの見事な銅像がここに鎮座することになりますよ」

「何も悪い事を言ってないではないか。

 それにしても、黒豹の武官?

 そなたは本当にヒンドゥで武官だったのか?」


 レオンの素性は、五年たった今も謎のままだった。

 しかし、無邪気なミトラの質問に、一瞬レオンが動揺したのを導師は見逃さなかった。  

 あわてて首を振るレオンに、更にミトラは問いかけた。

「本当はヒンドゥの名家の出身じゃないのか?

 もし本当の名を思い出したのなら王に頼んで家に帰れるようにしてやるぞ。

 何か覚えてないのか?」


 名無しの青年をレオンと名づけたのはミトラだった。


「言いたくない事もあるでしょう。

 さあミトラ様、髪を拭いて差し上げます。

 そろそろ聖大師様の所へ戻らなくては」


 導師が場をとりなすように言うと、ミトラは素直に従ってレオンが再び差し出した盆のチーズを頬張った。


次話タイトルは「神酒ソーマ」です

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